<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910</id><updated>2011-08-03T12:45:52.319+09:00</updated><category term='ものを書くこと'/><category term='永遠の視点'/><category term='クリスマス'/><category term='仕事'/><category term='試練'/><category term='生活問題'/><category term='クリスチャンになってよかった'/><category term='男と女'/><category term='罪の現実'/><category term='病気と医療'/><category term='健康について'/><category term='トルストイの生涯'/><category term='キリスト教についての疑問'/><category term='人間関係'/><category term='人間として生きる'/><category term='祈りについて'/><category term='なぜクリスチャンになる人は少いのか'/><category term='実存的問題'/><category term='ご挨拶'/><category term='結婚について'/><category term='アジアの人々への謝罪運動'/><category term='教育'/><category term='人間はなぜ幸福でないのか'/><category term='勝利の生活'/><category term='クリスチャンの和解と一致'/><category term='クリスチャン'/><category term='日本人は霊性が幼稚'/><category term='信仰'/><category term='聖書について'/><category term='愛'/><category term='死について'/><category term='人間'/><category term='キリスト教'/><category term='心の窓'/><category term='人生'/><category term='霊的世界の事情'/><title type='text'>尾山令仁ブログ</title><subtitle type='html'>&lt;br&gt;
&lt;small&gt;神様の事を、いつも第一にしなさい。そうすれば、衣食住は、天にいらっしゃるお父様が必ず面倒を見てくださいます。 &lt;i&gt;聖書 マタイ6:33&lt;/i&gt;&lt;/small&gt;</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://tadabito.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>154</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2384290905812081836</id><published>2009-10-24T23:46:00.002+09:00</published><updated>2009-10-24T23:51:13.744+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='生活問題'/><title type='text'>野の花を見よ</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SuMUARPBIgI/AAAAAAAAAbA/U6aUiv0BvpE/s1600-h/20090815474.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SuMUARPBIgI/AAAAAAAAAbA/U6aUiv0BvpE/s200/20090815474.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5396178773378933250" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;blockquote&gt;野の花がどのようにして育つのか、考えてみなさい。働きもしないし、自分のために服を作りもしません。...今日は咲いていても、明日は炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神様はこれほど美しい装いをお与えになっておられるのですから、まして、人間であるあなたがたに、それ以上のことをしてくださらないわけがあるでしょうか。ああ、なんと小さな信仰なのか。(マタイ6:28-30)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生活問題はなかなか厳しい問題である。生きていくことは、決して生やさしいことではない。この世の中に生きている人は、皆このことをよく知っている。それだけに、生活問題・経済問題には、誰でも頭を悩まさないわけにはいかない。どうしたら食べていくだけの収入を得ることができるだろうかと悩むわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、本当はそういうことは問題というほどのものではない。野に咲いている花を見たらよい。野に咲いている花は、立派に育ち、花を咲かせているではないか。野の草一本にしたところで、実に念の入った装いをしている。あの野に育つ草や花にさえ、あのような念の入った装いをさせておられる神が、私たち人間をお忘れになるはずがない。神のことを忘れて、自分の生活のことだけを眺め、くよくよしているからこそ、心はいつでも落着きがないのである。心配事や取り越し苦労は、何の益にもならない。益にならないどころか、こんなことで気をもんでいる人は、いつでも二重の苦しみを味わっていることを知らないのである。苦しみがくる前に一度苦しみ、本当に苦しみがやってくる時にもう一度苦しむわけだから、こういうことをやっている人は、結局のところ生活疲れをしてしまうのがオチである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、どうしたらよいかと言うと、一番よい方法は、この自然界をお造りになり、支配しておられる神がおられるのだということに気が付くことである。そうすると、私たちが平面的に考えて自分の生活苦に悩んでいたところから、一段と高いところに立って、すべてのことを考えることができるようになるのである。これが信仰なのである。だから、信仰に立つ時、私たちの生活問題は何なく解決するのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2384290905812081836?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2384290905812081836'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2384290905812081836'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/10/blog-post.html' title='野の花を見よ'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SuMUARPBIgI/AAAAAAAAAbA/U6aUiv0BvpE/s72-c/20090815474.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4797233247518865801</id><published>2009-08-23T23:12:00.001+09:00</published><updated>2009-08-23T23:16:53.797+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='心の窓'/><title type='text'>解放の福音</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SpFPGNPDHII/AAAAAAAAAa4/lPOqbOXaOek/s1600-h/IMG_2009.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SpFPGNPDHII/AAAAAAAAAa4/lPOqbOXaOek/s200/IMG_2009.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5373162798480301186" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;blockquote&gt;ああ、なんと幸いなことだろう、自分の罪を赦され、覆い消された人々。(詩篇32篇1節)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;夜、夢の中で誰かに追いかけられて、早く走ることができず、足がすくんでしまったというような恐ろしい夢を見たことはないだろうか。夢の中だけでなく、誰かがこわくて仕方がないという経験をしたことはないだろうか。ところで、こうしたこととも関係があるのだが、心の中で何かに締めつけられて苦しんだというような経験をしたことはないだろうか。つまり、誰かに隠して持っていた罪のためとか、誰にも言うことのできない心の中の秘密のために、人知れず苦しむというようなことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おそらく、こうしたことは、誰にでもあることではないだろうかと思う。もしもそのことを正直にしゃべってしまうと、今までの信用が台なしになってしまうとか、自分の顔が丸潰れになってしまうと思って、なかなか人に話すことができない秘密を持っているわけである。ところが、誰にも話さずに自分の心の奥深くに仕舞っておくと、どういうことになるかと言うと、自分をじわじわと苦しめてくるのだ。それでは、このことの解決はどこにあるのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結局は、自分を苦しめている秘密であるとか、罪などが解決されない限り、決して解決することはできない。心の中に秘密の部屋がある限り、私たちの心はこの秘密の暗闇の部屋のために苦しめられ続けることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、どうしたら解決になるのかと言うと、この秘密の真暗闇の部屋に中に光が入らなければならない。そのためには、その秘密の部屋の扉が開かれなければならない。今までほかの人に隠していたこと、それゆえに秘密の部屋を形造っていたもろもろの秘密を真の光である神の御前にさらけ出さなければならないのだ。人の前にさらけ出す時には、かえって困難な問題を引き起すことにもなりかねないが、神の御前にさらけ出すなら、私たちの心の重荷はすっかり取れて、心の束縛から解放されるようになる。神がそれをしてくださるのだ。それをする時にも、人の助けなど必要とはしない。人の助けを求めると、かえって共依存という問題を残しかねないからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4797233247518865801?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4797233247518865801'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4797233247518865801'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/08/blog-post_23.html' title='解放の福音'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SpFPGNPDHII/AAAAAAAAAa4/lPOqbOXaOek/s72-c/IMG_2009.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5687002434477185585</id><published>2009-08-09T19:35:00.003+09:00</published><updated>2009-08-23T23:12:45.664+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='心の窓'/><title type='text'>神が味方なら</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sn6nPofxLZI/AAAAAAAAAaw/nQAzrFHF6yQ/s1600-h/090803_114222.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sn6nPofxLZI/AAAAAAAAAaw/nQAzrFHF6yQ/s200/090803_114222.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5367911692882750866" /&gt;&lt;/a&gt;神が私たちの味方である以上、私たちに敵対できる者などあるはずがない。（ローマ8：31）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎日の生活が余りにあわただしく、仕事や勉強のことで忙殺されている私たちにとって、いつも人生が戦場であることを知っている。私たちは、この人生の戦場において、身を処していかなければならないのである。その時、神が私たちの味方であるかどうかということは、最も根本的な、しかも大問題なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;敵の頭数や財源を問題にすることほど愚かで無益なことはない。というのは、神は人数の多さや権力の有無によって味方になるかどうかを決めるのではないからだ。確実なことは、正義の側に立っておられるということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことになると、私たちが考えてみなければならないことは、私たちの仕事や勉強の目的・動機は一体どこにあるのかということである。神なのか、それとも自分自身なのかということである。私たちは、神が自分の側におられるのかどうかということが、いつも最も大きな関心事でなければならないはずである。神が自分の側にいてくださるということは、私たちがいつも神の側に立っているということであるはずだ。神はいつも神に従う人の側に立っておられるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちはだれでも皆、実際は小心者なのである。自分の身分や資格や才能が気になったり、自分よりもほかの人の方が優れているように見えたりして、いつも不安で仕方がないのである。けれども、そのようにほかの人と比較したりしている世界など、本当の力や安心の土台などありはしないのだ。神が私たちの側にいらっしゃるかどうかということが一番重要な点なのである。神が私たちの味方であるなら、それこそ敵しうる者など何もないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、私たちの関心事は、神にいつも従うにはどうしたらよいかということである。神に従うとは、神の御心に従うということで示されている。だから、聖書をよく読み、ただ読みっぱなしではなく、それを実行することが大切である。御言葉に従い、御言葉に生きる時、私たちは神が私たちの側におられることを体験することができる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5687002434477185585?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5687002434477185585'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5687002434477185585'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/08/blog-post.html' title='神が味方なら'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sn6nPofxLZI/AAAAAAAAAaw/nQAzrFHF6yQ/s72-c/090803_114222.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5709549620137854496</id><published>2009-07-26T21:32:00.004+09:00</published><updated>2009-08-09T19:40:34.453+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='心の窓'/><title type='text'>知恵を求める人</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SmxOLggSumI/AAAAAAAAAaQ/-9-9m_suBGc/s1600-h/IMG_0315.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SmxOLggSumI/AAAAAAAAAaQ/-9-9m_suBGc/s200/IMG_0315.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5362747215902325346" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;blockquote&gt;ああ、なんと幸いなことだろう、&lt;br /&gt;知恵を見いだし、英知を得る人。&lt;br /&gt;その道は楽しく、皆、平安である。(箴言3:13-17)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;多くの人は快楽を求めている。快楽というような言い方をすると、自分はそんなものを求めてはいないと言う人もいるかもしれないが、結局自分が楽しいこと、面白いこと、嬉しいことを求めていることに相違はない。ことに日本人はよく働く代りによく遊ぶようでもある。温泉場などはいつも満員だし、夏は海水浴に、冬はスキーにと、沢山の人々が繰り出して行く、こんなにも多くの人がいるのかと思われるほどの盛況ぶりだ。しかし、夏や冬だけでなく、春や秋に出歩く人は、もっと沢山いる。たとい外へ行って遊ばなくても、楽しんだり、喜んだりする娯楽のたぐいは、いつでも多くの人々の興味の対象となっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、ある人々は金儲けに血まなこになり、朝から晩までただ金を儲けるということのために、自分のエネルギーを使っている人さえいる。最近では金儲けを餌にして人をだます者たちがあとを断たず、その手に乗って、虎の子をなくしてしまった人も少なからずいる有様である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、本当に喜ぶべき道、楽しい道というのは、こういう欲望を満たさせる道とはまた別の道なのだ。もちろん、自分のやりたいことをすること、お金を沢山得ることは、面白いことであるには相違ないだろう。しかしながら、そういうものは、目的を達成したあかつきには、むなしさだけが残るのである。つまり、こういうものによっては、私たちの心まで満たすことはできないのである。私たちの心を本当に満たすものは、もっと別のものであり、それは知恵であり、英知である。これは知識とは違う。多くの知識を得ても、それで私たちの心は決して満足はしない。この知恵とか英知というものは、私たちの心が本当に満足することのできるものである。それは、具体的には何を指しているのだろうか。それは、何かの原理とか法則というようなものではない。私たちの心が本当に満足するのは、人格によってである。私たちの心を楽しませてくれる人格とは、それは神ご自身にほかならない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5709549620137854496?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5709549620137854496'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5709549620137854496'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/07/blog-post_26.html' title='知恵を求める人'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SmxOLggSumI/AAAAAAAAAaQ/-9-9m_suBGc/s72-c/IMG_0315.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7921744383049958379</id><published>2009-07-08T00:59:00.004+09:00</published><updated>2009-08-09T19:46:21.225+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='心の窓'/><title type='text'>見たこと聞いたこと</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SlNxHkAVaBI/AAAAAAAAAaI/rF0SuClujLM/s1600-h/IMG_1263.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SlNxHkAVaBI/AAAAAAAAAaI/rF0SuClujLM/s200/IMG_1263.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5355748756611754002" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;blockquote&gt;私たちは、自分が見たこと聞いたことを語らないわけにはいきません。(初代教会4:20)&lt;/blockquote&gt;この世の中では、その価値という点からすれば、大したことではないのに、宣伝文句につられて、あたかもその内容がすばらしいものであるかのように思われるものがいくらもある。つまり、見かけ倒しと言われるものがそれである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また選挙運動の場合でも、必ずしも心からその人に傾倒しているわけでもないのに、アルバイトの謝礼を沢山もらっているために、あたかも自分が推薦できる人は、世界中にこの人しかいないとでも言うような宣伝をし、応援している人もいないわけではない。つまり、自分で自分を偽っているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、私たちは、自分の良心を偽り通すことはできない。どんなに沢山のお金をもらって、一時的には自分を偽ることができたとしても、それを通し続けることはできない。つまり、私たちの良心は、正しいことに対しては正しいという反応を示し、誤っていることに対しては誤っているという反応を示すからである。というのは、良心という英語conscienceは、conとscionというラテン語から来ており、それは「共に知る」という意味である。誰が共に知っているのかと言うと、神が共に知っておられるのである。ところで、私たちは自分の弱さから、正しいと思っていることを、あらゆる事情に抗しても主張することができないのだ。そういう時、私たちは誰でも多かれ少なかれ悩むものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは見もしないことを見たとか、聞きもしないことを聞いたというふうに、良心は決して思わないのだが、自分の弱さのために、良心の認めているままにこれを表すことができないことがある。しかし、もしも私たちが真に正しいことを正しいと主張し、真に誤っていることを誤っていると主張できたら、どんなにすばらしいことか。私たちがある一つの経験をすると、私たちは、このように主張できる勇気の人となることができる。それは、イエス・キリストとお会いすることだ。そうする時、私たちは、主イエス・キリストにお会いしたという事実を語れるだけでなく、正しいことを正しいと語り、誤っていることを誤っていると語ることのできる人になれる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7921744383049958379?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7921744383049958379'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7921744383049958379'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/07/blog-post.html' title='見たこと聞いたこと'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SlNxHkAVaBI/AAAAAAAAAaI/rF0SuClujLM/s72-c/IMG_1263.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7595240397406894378</id><published>2009-06-28T22:56:00.005+09:00</published><updated>2009-08-09T19:45:47.439+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='心の窓'/><title type='text'>自分の知識</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Skd-FGxUI7I/AAAAAAAAAaA/hoQX8alXV4Q/s1600-h/IMG_0892.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Skd-FGxUI7I/AAAAAAAAAaA/hoQX8alXV4Q/s200/IMG_0892.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5352385308335023026" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;blockquote&gt;心から主に信頼しなさい。&lt;br /&gt;自分の英知に頼ってはならない。&lt;br /&gt;何をする時にも、主を認めなさい。&lt;br /&gt;そうすれば、主はあなたの道を真直にされる。(箴言3章5-6節)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の知識がいかに頼りないものであるかということは、だれでもよく知っている。何か重大な決断をしなければならなくなった時、その決断にずいぶん時間がかかったことはないだろうか。ああでもない、こうでもないと、考えれば考えるほど多くの道が見えてきて、ついには決断が下せなかったという経験をしたことはなかったろうか。それは、自分の意思が弱かったということよりも、決断を下す材料に乏しかったからではないだろうか。つまり、自分の持っている知識というものが、いかに不十分極まりないものであるかということの証拠なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが持っている知識というものは、結構不十分なもので、それでも毎日の生活にはそれほど事欠くわけではない。しかし、いざ何か大切なことを決定するということになると、その不十分で不確かなことが暴露されてしまうことになるわけである。そんな不十分で不確かな知識しか持ち合わせていないのに、そんな自分に頼るなんてことは、実に愚かなことであると言わなければならないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そう言うと、自分以外の誰に頼ったらよいのかという質問が出されてくるだろう。自分の問題を解決するのに、自分以外の者で頼れる人など本当にいるのだろうかという疑問を抱いたとしても不思議ではないかもしれない。しかし、頼れるお方がいるのである。それは人ではなく、すべてのことを完全によく知っているお方、それは神である。私たちがなかなか決断を下せなかったのは、知識が不十分であっただけでなく、利己的な自分がその不十分な知識に基づいて、いかに自分に有利な決断を下せるかと考えるからである。しかし、もっとすばらしい方法は、利己的な自分ではなく、最も正しいお方である神によって決断を下すことなのである。そうすれば、なんのためらいもなく、道を選ぶことができるし、その道はいつでも正しい道であるから、安心して歩いていくことができるのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7595240397406894378?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7595240397406894378'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7595240397406894378'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/06/blog-post.html' title='自分の知識'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Skd-FGxUI7I/AAAAAAAAAaA/hoQX8alXV4Q/s72-c/IMG_0892.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1414384811177759587</id><published>2009-05-20T21:24:00.004+09:00</published><updated>2009-05-20T21:34:51.240+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='永遠の視点'/><title type='text'>永遠の視点で物を見ると</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ShP4l4M2fXI/AAAAAAAAAZ4/SMxRonZzSGI/s1600-h/IMG_0573.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ShP4l4M2fXI/AAAAAAAAAZ4/SMxRonZzSGI/s200/IMG_0573.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5337883312989306226" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンになって六十三年、牧師になって五十六年。あっという間に過ぎてしまったような感じがする。私たちが信じているキリスト教信仰は、永遠の視点からものを見るようにするので、たとい五十年でも百年でも、そんなものは一瞬の出来事に過ぎないのである。永遠の視点からものを見るようになると、物事が一変した。価値観も変り、悩んでいたことも悩む必要がなくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンになる前は、他人のことが気になって仕方がなかったものだ。他人と自分とを比較して、一喜一憂した。ほかの人がうまくいっているのを見ると、心の中にねたみ心が湧き上がって来るのをどうしようもなかった。これは、クリスチャンになってしばらくの間はそれがなくなったが、しばらくすると、また同じような考えが湧いてきた。牧師になっても、一緒に神学校を卒業した友人と、やはり比較した。それが、いつのころからか、そういうことをしなくなった。後輩であった人が伝道、牧会で良い働きをしているのを知っても、それを心から喜ぶことができるようになった。なぜ私がそのように変っていったかと言うと、その人々も決して競争相手ではなく、同労者であるということが分ったからである。それぞれの人に神が与えていてくださる賜物があって、それぞれその賜物を用いて、神の働き場で活躍しているわけだから、喜ぶのが当然だと思うようになったのである。競争相手と考えていた時には、やはり視点は自分の所にあって、自分中心に物事を見ていたのだが、神からの視点でものを見るようになると、自ずと見方、考え方が変っていった。主がそうさせてくださるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;永遠の神の視点からものを見るようになると、本当に楽になった。力む必要など毛頭ないし、背伸びする必要もない。自分の力以上のことをしようとして、あくせくすることもない。そういうふうになると、ストレスも減ってきた。毎日が楽しくて仕方がない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;永遠の視点でものを見るようになると、対人関係もうまくいくようになり、どんなことがあっても、あわてないで済むようになる。御言葉に教えられていることが素直に自分のものとして実行でき、他の人を無闇やたらに批判することも少なくなった。いつも感謝と喜びに溢れ、賛美に日を過すようになっていった。すべてハレルヤである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1414384811177759587?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1414384811177759587'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1414384811177759587'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/05/blog-post.html' title='永遠の視点で物を見ると'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ShP4l4M2fXI/AAAAAAAAAZ4/SMxRonZzSGI/s72-c/IMG_0573.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2730785544213988811</id><published>2009-04-21T01:18:00.004+09:00</published><updated>2009-04-21T22:33:44.195+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ものを書くこと'/><title type='text'>もの書きになって</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeyhnFmZ5WI/AAAAAAAAAZw/xGl2QtxjLeE/s1600-h/IMG_0576.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeyhnFmZ5WI/AAAAAAAAAZw/xGl2QtxjLeE/s200/IMG_0576.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5326810152162682210" /&gt;&lt;/a&gt;昔、私は書くことがにが手だった。それは私のにが手な科目の一つが作文であったことにも表れている。なぜ作文がにが手であったのかと言うと、本を読むのが余り好きでなかったことによる。本を読むよりも、ものを考えたり、作ったりすることが好きだった。そんな私が、今では百五十冊もの本を書くようになったのは、不思議と言えば不思議と言うほかはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一つのにが手のものがあって、それは、皆の前で話をすることであった。こちらの方は、キリスト教信仰を持つと、すぐ直った。皆の前で入信の話をするようにと言われ、三百人ぐらいいる人々の前で話をした時、それまでは多くの人々の前に立つと、頭の中が真白になってしまったのに、その日から私は落ち着いて、皆の前で話をすることができるようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、ものを書く方は一向に変りばえがしない。ものを書くという場合、二つのことがどうしても必要になってくる。何を人に伝えたいのかというものを持っているということがどうしても必要になってくる。そして、もう一つは、それをどのように伝えるかという問題である。こちらの方は、どちらかと言うと、日本語の技術の問題である。技術とは言っても、もっと具体的に言うと、伝えたいメッセージを、いかに相手に正しく伝えるかということで、つまりは、正しくて美しい日本語で表現するということに尽きる。私もそうであったが、文章の下手な人は、用語が貧弱なのである。物事を強調する場合、「非常に」以外にもいろいろな表現があるのに、そういう用語を使う努力をしようとしない。「今日は非常に暑く、スケジュールが非常にこんでいたので、非常に疲れた」という表現の「非常に」という部分をほかの言葉に変る工夫をしてみる。「今日はとても暑く、スケジュールはかなりこんでいたので、えらく疲れた」と言えば、同じことを相手に伝えることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よい文章を見て、まねをすることだ。お習字を見れば分る。上手なお手本を見て、まねをする。それと同じように、良い文章をよく読み、その中のいい部分を自分の文章に取り入れてみることだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主が私に与えてくださった良いものを、何とかしてほかの人にも伝え、ほかの人に仕えていきたい。私がものを書いているのは、それが目的のほとんどである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2730785544213988811?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2730785544213988811'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2730785544213988811'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/04/blog-post_21.html' title='もの書きになって'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeyhnFmZ5WI/AAAAAAAAAZw/xGl2QtxjLeE/s72-c/IMG_0576.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8468756900647768937</id><published>2009-04-13T00:40:00.003+09:00</published><updated>2009-04-13T00:49:04.278+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='試練'/><title type='text'>大きな試練に遭ったら感謝</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeINTTTe37I/AAAAAAAAAZo/CtduaWXLeP4/s1600-h/IMG_0160.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 133px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeINTTTe37I/AAAAAAAAAZo/CtduaWXLeP4/s200/IMG_0160.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5323832334756011954" /&gt;&lt;/a&gt;人生にはいろいろなことが起って来る。患難、試練もしばしばある。そういうことが起って来た時、昔の私だったら、「何で自分だけがこんな大きな試練を受けなければならないのか」と言って呟いたものだ。クリスチャンになっても、しばらくの間は、そんな考え方をしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、ある時、次の御言葉と出会い、私の考え方は根底からくつがえされてしまった。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたがたが今までに遭った試練は、だれにも襲って来るもので、特別なものではない。神は約束されたことを必ず果たしてくださる真実な方である。だから、約束通り、あなたがたが耐えられないような、厳しい試練に遭わせないばかりか、かえって耐えられるように逃れの道も備えてくださるのである。」（1コリント10:13）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;私が耐えられないような、厳しい試練には、神が遭わせられないのだということを知ったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母親が赤ん坊をお湯に入れる時、母親は赤ん坊にとって熱すぎもせず、冷たすぎもしない、ちょうどいい湯かげんを見極めてからでないと、赤ん坊をお湯に入れることはしない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと同じように、いや、それ以上に、神は私たちの霊的状態をご覧になっていて、これくらいなら大丈夫という試練の度合いを見極めてからでないと、私たちを試練の中に投じることをなさらないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことが分った時、大きな試練に当面しても、神が私をそれだけ大きく評価していてくださるのだということが分り、感謝するようになった。だから、そういうことが起ってきた時、不平、不満を言うのは、全くお門違いなのである。ただこの際、覚えておかなければならないことは、神が大きな試練をお与えになった時、自分がこれほど大きな器に評価されているのだと思って、慢心してはならないことである。そんなことをしたら、たちまちにして足をすくわれて、倒れてしまうことだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;御言葉によって、私の人生は変ってきた。御言葉が私の人生の人格形成をしてくださったということがよく分る。私は弱虫であり、肉体ばかりでなく意志も弱い人間だった。どんな時でも不平、不満ではなく、感謝できるようなものに変えてくださったのは、神の言葉である聖書である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8468756900647768937?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8468756900647768937'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8468756900647768937'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/04/blog-post_13.html' title='大きな試練に遭ったら感謝'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SeINTTTe37I/AAAAAAAAAZo/CtduaWXLeP4/s72-c/IMG_0160.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-407982296313956306</id><published>2009-04-01T20:48:00.004+09:00</published><updated>2009-04-01T21:01:44.408+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>自分に対してひどいことをした人を赦すことができるようになった</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SdNWvk3BIVI/AAAAAAAAAZg/wMr3dipiZJo/s1600-h/090317_143322.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SdNWvk3BIVI/AAAAAAAAAZg/wMr3dipiZJo/s200/090317_143322.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5319690960202965330" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンになる前の私は、自分に対してひどいことをした場合、決して赦すことなどできず、いつまでもその人に対して恨みを抱き続けていた。嫌な奴は、徹底的に嫌であった。そんな奴とは金輪際付き合うもんかと思ったものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、キリストと出会い、キリストを信じるようになると、キリストの御言葉を実行することに喜びを感じるようになった。初めのうちは、キリストが「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:37)と教えておられる御言葉に出会っても、「それが出来たらいいだろうなあ」とか、それを目標として信仰生活を送って行けばそれでよいのだなどと考えてて、その御言葉をそれほど重く感じてはいなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、よく見てみると、この御言葉はキリストの命令であって、決して願望などではない。これは実行しなければならないのである。そうは言っても、そう簡単に実行できることではない。そこで、私はそれが実行できるように祈った。それを実行することは、そう簡単なことではないので、私は必死になって主の御前に出て、主の力を祈り求めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある時、こんなことがあった。冬の寒い晩のことなのだが、私が床の中に入っていると、電話が掛ってきた。それは、もう十二時を大分過ぎていた。床から出て、電話器を取り上げると、何の応答もない。しばらく耳に当てていると、向うで電話を切る音がした。間違い電話ではなく、明らかに迷惑電話である。そこで、また床の中に入ると、数分してまた電話が鳴った。もしかして、教会員からの緊急電話かもしれないと思って、起き、電話口に出ると、さっきと同じ迷惑電話である。こんなことが二、三回繰り返されると、もう足が冷えて、眠れない。同時に怒りがこみ上げてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次の瞬間、主が私に示してくださったことがあった。この人は、このようなことをして自己満足している気の毒な人だ。主の祝福によって心が満たされれば、もうこのような迷惑電話を掛けてくることもなくなるだろう。そうだと私は思った。そして、次の御言葉を思い出した。「あなたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私がその人の祝福を祈った時、電話は掛ってこなくなった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-407982296313956306?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/407982296313956306'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/407982296313956306'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/04/blog-post.html' title='自分に対してひどいことをした人を赦すことができるようになった'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SdNWvk3BIVI/AAAAAAAAAZg/wMr3dipiZJo/s72-c/090317_143322.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7092184363931225774</id><published>2009-03-23T01:34:00.003+09:00</published><updated>2009-03-23T01:43:31.488+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>思い煩わなくなった</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ScZqj6HYuAI/AAAAAAAAAZY/4lEEHwkjy-Y/s1600-h/DSC00197.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 112px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ScZqj6HYuAI/AAAAAAAAAZY/4lEEHwkjy-Y/s200/DSC00197.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5316053575285651458" /&gt;&lt;/a&gt;私は性来、母親譲りの取り越し苦労性だった。つまり気が小さかったと言っていいだろう。いつもくよくよしていた。取り越し苦労というのは、物事が実際に起る前に、それが起ったらどうしようかと思って悩み、それが起るとまた悩むという具合に、いつもほかの人より一回多く悩むのである。時には、それが起って来ないこともあるから、悩まないでもよいものについても悩むことになる。損な性分である。頭では分っているのだが、私はこの取り越し苦労性で悩んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、私がキリスト教信仰を持つようになると、死の恐れからの解放と同時にやって来たのが、取り越し苦労性からの解放であった。それからと言うもの、ほとんど物事に思い煩うことはなくなった。それは、そういうことについてのあきらめではない。私をキリスト信仰へと導いてくださった全知全能の神、天地万物の造り主にお会いし、このお方を知ったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、この神をさらに深く知れば知るほど、大船に乗ったような気持になり、何一つ恐れたり、不安になる必要のないことがよく分るようになった。だから、今では、どんなことが襲って来ても、思い煩うことはなくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、そういう問題が起らなくなったのかと言うと、そうではない。思い煩いそう面倒な問題はなくならないばかりか、以前と同じように起っている。私自身に関するものもないわけではないが、それよりも、私が関係している働きに関するものの方が、むしろ断然多い。次から次へと問題が起って来て、てんてこ舞いしそうなこともないではないが、そうしたことは、天地万物の主である神の所へ持っていって、お任せしてしまうのである。それは、神の言葉である聖書がそう教えているからである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「神は、あなたがたのことを心配していてくださるから、あなたがたの思い煩いを、すべて神にゆだねてしまいなさい。」(1ペテロ5:7)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるのがよい。そうすれば、私たちの常識を越えた神の平和が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。」(ピリピ4:6-7)&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7092184363931225774?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7092184363931225774'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7092184363931225774'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/03/blog-post_23.html' title='思い煩わなくなった'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/ScZqj6HYuAI/AAAAAAAAAZY/4lEEHwkjy-Y/s72-c/DSC00197.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7448944813787008994</id><published>2009-03-08T22:59:00.003+09:00</published><updated>2009-03-08T23:11:04.194+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>命のあるものは変るのが当然</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SbPRygy8aII/AAAAAAAAAZQ/F9VtMi2CvJE/s1600-h/ume.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SbPRygy8aII/AAAAAAAAAZQ/F9VtMi2CvJE/s200/ume.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5310819051327219842" /&gt;&lt;/a&gt;私は、陸軍の士官候補生として訓練を受けた時のことが、リーダー養成の場合、いつも基本となっていたと思う。ある時、私はまだ若く、28歳の時であったと思う。神学校の専任教師として、神学生たちと生活を共にしていた。神学校は全寮制であった。入学時には緊張しているということもあって、学生たちは大体において真面目にやっているのだが、夏休み近くなると、たるんできて、夜遅くまで騒いでいることが多くなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある晩のこと、説教演習と称して、一人の神学生がほかの神学生を集めて、落語をやっていた。神学生たちの騒がしい声が私の所にも聞こえてきた。時はもう夜の十時半を過ぎていた。寮のすぐ近くにはほかの家もあって、迷惑をかけることは火を見るよりも明らかである。私はついに我慢できず、その神学生たちにどなった。「近所迷惑も考えないで、こんなに夜遅くまで大声を上げるとは何事か。献身者として失格だから、すぐ布団をかついで、家へ帰れ！。」これは、後々までも語り草になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから五十年ほど経ってからのことである。一人の婦人が教会に来て、私に告白した。「私は今までに十回結婚し、十回離婚しました。」昔の私であったら、「どういう理由で結婚、離婚を繰り返したか分らないけど、そのことについて主にお詫びすることから始めなさい」と言ったかもしれない。しかし、この正直に告白した婦人に、私はこう言っていた。「あなたのような人は、きっと主に用いられると思いますよ。」すると、その婦人はこう言うのだ。「そんなことを言うのは先生くらいで、ほかの人は軽蔑の目を持って見ます。親にも言われました。『淫乱な娘だ。もう親でもなければ子でもない』と。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私がそういったのは、決してお世辞なのではない。もしも離婚で苦しんでいる人がいて、私がその人に、「苦しくて大変でしょうね」と言ったとしよう。その時、その人はどう思うだろうか。「離婚の経験もない先生に、私の気持なんか分るわけがない」とは思わないだろうか。しかし、もしもそのような人にこの人が、「あなた大変ね」と一言言えば、それだけで、その人は、「この人なら今の私の気持を分ってくれるにちがいない」とは思わないだろうか。この人は、その後献身して神学校で学び、卒業後、開拓伝道をしている。どんな人でも、神に自分を捧げれば、神は用いてくださるのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7448944813787008994?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7448944813787008994'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7448944813787008994'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/03/blog-post_08.html' title='命のあるものは変るのが当然'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SbPRygy8aII/AAAAAAAAAZQ/F9VtMi2CvJE/s72-c/ume.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-75451868668796921</id><published>2009-03-01T20:24:00.003+09:00</published><updated>2009-03-01T20:33:06.633+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンの和解と一致'/><title type='text'>私は変節したわけではない</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sapx47HtFwI/AAAAAAAAAZI/Aa-BWq4Epxo/s1600-h/20090212430.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sapx47HtFwI/AAAAAAAAAZI/Aa-BWq4Epxo/s200/20090212430.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5308180333566170882" /&gt;&lt;/a&gt;コチコチの聖書信仰であった私が、今ではリベラルな立場の人々も、ローマ・カトリック教会やギリシャ正教会の人々も皆同じクリスチャンなのだと考えるようになったと言うと、変節したのではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、決して変節などしているのではない。私は今なお聖書信仰に堅く立っている。聖書信仰というのは、聖書が誤りのない神の言葉であるということを信じているだけを言うのではない。聖書が教えているところに従い、その御言葉に生きているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのことと、私が広い考えをするようになったということの間には、何ら矛盾はない。というのは、主イエスの仰せられているところに従って、そのような考え方になったのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンの一致ということは、主イエスの悲願なのである。従来、私は「教会一致運動」とか「エキュメニカル運動」と呼ばれるものを見て、嫌悪感を感じていた。しかし、主イエスが祈っておられる祈りにおいては、「わたしたちが一つであるように彼らも一つになること」である。三位一体の神の一致性がそこで言われているのである。組織の一致協力ではなく、内的一致なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと、前回にも言及しておいたヨハネの忠告と主イエスのお答えの中に、私は主の御心を知ることができた。「わたしの名前を使って力強い奇跡を行っている人で、わたしに反対する人はいないでしょう。わたしに反対しない人は、わたしの味方です」(ルカ9:50)。これは私にとっては大きなショックだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今まで、聖書信仰以外の立場は、いくらキリスト教と称していても、それは異端とは言えないまでも、キリスト教の唖流だと、ずっと思っていた。だから、味方だとは考えることができなかったのだ。もちろん、敵というほどの思いはなかったにしても、決して同士だなどとは夢にも考えていなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それなのに、主イエスのお考えは、私の考えとは全く違っていた。そのことが分った時、私は自分の考え方がいかにねじ曲がったものであったかということが分り、主イエスのお考えに従うことができたわけである。だから、私は変節したわけではない。主イエスのお考えに従ったにすぎないし、これからもそうしていきたいと思っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-75451868668796921?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/75451868668796921'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/75451868668796921'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/03/blog-post.html' title='私は変節したわけではない'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/Sapx47HtFwI/AAAAAAAAAZI/Aa-BWq4Epxo/s72-c/20090212430.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7119339875021925995</id><published>2009-02-22T19:51:00.003+09:00</published><updated>2009-02-22T19:56:33.440+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンの和解と一致'/><title type='text'>命あるものは必ず成長する</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.jibikiami-book.jp/?pid=3088074"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; " src="http://img04.shop-pro.jp/PA01014/167/product/3088074.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;私が信仰を持つようになったのは、アメリカの駐留軍の兵士たちが開いていた伝道集会においてであった。それは、GIゴースペル・アワーと称する集会だった。この人々の信仰は生き生きとしており、聖書信仰に裏付けられていた。私がその集会を紹介されたのは、私が行っていた教会の英語のバイブル・クラスだったので、私がGIゴースペル・アワーで救われると、自然とバイブル・クラスを開いていた教会の礼拝に出席するようになった。初めのうちは余りよく分らなかったが、次第に分ってきたことは、その教会が聖書信仰ではなく、バルト神学の立場を取っているということであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は自分の信仰の霊的生命が窒息しそうになるのを感じて、聖書信仰の立場の先生が開拓伝道をするのを助け、その教会に転会してしまった。その先生の下で、私は福音主義信仰を徹底的にたたき込まれた。こうして、私は聖書信仰以外の立場は、あたかも異端であるかのように考えるに至った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、福音主義の立場に立つ神学校で学び、その後、1960年にスタートした日本プロテスタント聖書信仰同盟の結成にも参加した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、福音主義の立場に立つ人々と付き合っているうちに、彼らの考えが、どうも主イエスの立場よりもパリサイ派の人たちの立場に近いのではないかという疑問が湧いてきた。やたらに人を批判し、自分たちの立場を絶対視し、聖霊派と称される人々を異端視する人が多いのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで私は、福音派というのが、キリスト教の唯一の立場なのかという疑問を持つようになった。聖霊派と称する人々と付き合ってみても、別に異端とは思えないし、福音派の人よりも温かい人がいるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしている間、主イエスの最後の祈りを読んでいたとき(ヨハネ17章)、そこで主イエスが二回も弟子たちの一致について言及しておられることを知った。そして、ヨハネが主イエスに、「主のお名前によって悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないのでやめさせました」と言った時、主イエスは「やめさせることはありません。わたしの名前を使っている者は皆わたしの味方です」と仰せられたことを知り、私は聖書信仰でない人も、ローマ・カトリック教会もギリシャ正教会も皆同じクリスチャンであり、敵ではなく仲間なのだということが分り、&lt;a href="http://www.jibikiami-book.jp/?pid=3088074"&gt;「クリスチャンの和解と一致」 (地引網出版)&lt;/a&gt;という本を書いたのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7119339875021925995?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7119339875021925995'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7119339875021925995'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/02/blog-post_22.html' title='命あるものは必ず成長する'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4396637780104901340</id><published>2009-02-16T09:09:00.001+09:00</published><updated>2009-02-16T09:13:23.457+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>弱かった私が今では強くなった</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SZivb2xuDgI/AAAAAAAAAZA/jGJv9LQtF5w/s1600-h/20090212426.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SZivb2xuDgI/AAAAAAAAAZA/jGJv9LQtF5w/s200/20090212426.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5303181454324141570" /&gt;&lt;/a&gt;私は体が弱く、二十歳まで生きられるかどうか危ぶんだと前に言ったが、このごろではほとんど病気らしい病気をしない。五十代半ばの頃、超多忙で、私は心筋梗塞の一歩手前まで行ったことがあった。いくら病院で出してくれる薬を飲んでも、心電図が改善されないのである。その時、一人の教会員が来て、食事療法をすることをすすめてくれた。それは、玄米雑穀飯に菜食である。肉などの動物性蛋白質や砂糖、化学調味料をやめるというものであった。一か月ほどして、体重は九キロやせた。すると医者からすすめられていた水泳の調子がよくなった。それまでは、二、三百メートル泳ぐと一休みし、それから千メートル泳ぐのである。ところが、今度は休みなしに千メートル泳ぐことができるようになった。家内も一緒に始めたところ、尿素窒素の数値が正常値になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、私たち夫婦は八十を超えたが、至って健康体である。耳は遠くなり、記憶力も衰えたりしてきてはいるが、多くの人がインフルエンザにかかっても、私たちはかかったことがない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間の体に与える影響としてストレスが大きいことはよく知られているところだが、私たちクリスチャンは、ストレスになるようなことが起って来ても、それをまともに受けない方法を知っている。それは、主イエスが次のように仰せられていることを実行するからである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「疲れている人や、重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう。」（マタイ11:28）&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これを実行していれば、倒れてしまうことはない。ストレスは、暑さ、寒さばかりではなく、痛いこともストレスになる。しかし、人間特有のストレスとしては、感情的なものがある。だれかに対して怒ったり、恨んだり、憎んだりすることがストレスとなって、肉体をむしばんでいく。自分に対してひどいことをした人を赦すこと。自分の意思や力でやろうとしても、それはできる相談ではない。そこには、どうしてもキリストの力が必要である。キリストによって赦されたという経験のある人なら、だれにでもできることである。だから、私はクリスチャンになって、よかったと思っている。弱虫だった私がこんなに強くなっているのは、キリストのおかげだからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4396637780104901340?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4396637780104901340'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4396637780104901340'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/02/blog-post_16.html' title='弱かった私が今では強くなった'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SZivb2xuDgI/AAAAAAAAAZA/jGJv9LQtF5w/s72-c/20090212426.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-9018343761077931587</id><published>2009-02-09T01:52:00.002+09:00</published><updated>2009-02-09T02:02:53.558+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>紆余曲折の人生</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SY8P_9G-cRI/AAAAAAAAAY4/fyeFF1FLmmc/s1600-h/mount.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SY8P_9G-cRI/AAAAAAAAAY4/fyeFF1FLmmc/s200/mount.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5300472877848359186" /&gt;&lt;/a&gt;私は元々理科系の人間で、科目の中で一番好きなものは数学だった。その上、設計が好きだったので、将来は建築家になりたいと思っていた。ところが、戦争が激しくなり、男という男は皆戦争に駆り出されるという情況になってくると、やはり、一兵卒としてよりも将校の方がいいと考えるようになっていった。私が陸軍士官学校の方を選ばずに陸軍経理学校を選んだのは、経理部の将校は比較的後方勤務が多く、比較的死ぬ確率が低いというただそれだけの理由であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;入ってみると、なんと理科系よりも文科系の科目の方が多かった。当時、一般の大学では、学生たちは皆勤労動員と称して、軍需工場で働かされていたため、授業はなく、優秀な教授たちは、皆陸海軍の学校で教えていた。そんなこともあって、文科系とは言え、その道の第一人者とも言うべき教授が陸軍経理学校にも来て、教えていた。だから、私は憲法を東大の宮沢俊義教授から習ったし、民法は戒野道孝教授から習い、また経済学原論は一橋大（当時は東京商大と言っていた）の山田雄三教授から習った。一流の教授に就くということは、その科目に興味を持つようにしてくれ、ことに私は法律にかなりの興味を持つようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、理科系の科目もないわけではなく、ことに栄養学には殊の外興味を持つようになった。それは、川島四郎主計少将の弟子の興味深い栄養学の講議によるものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、敗戦になり、私が選んだ道は建築であり、私は大学の理工学部の建築科に入った。大学一年の時、私はクリスチャンになり、やがて牧師への道へ進むことになると、理工学部の建築科をそのまま進むよりも牧師としての基礎的な学問を身に着ける必要から、転部試験を受けて、文学部の史学科で西洋史を専攻するようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この紆余曲説した人生が、牧師となる私にとって、何一つ無駄にはなっていないことを知った。陸軍経理学校でたたき込まれたリーダーとしての姿勢は、今でも役に立っている。そこで学んだ法律知識も役に立っている。理工学部時代に身に着けた論理的思考法も大いに役立っている。私が一番にが手とした文科系の学びは、強制的にそれを学ばせられることによって、牧師としての基礎的知識として役に立っている。にが手の語学も、どうやら今では何とかこなしていかれる。神のなさることは何一つ無駄になることはない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-9018343761077931587?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/9018343761077931587'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/9018343761077931587'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/02/blog-post_09.html' title='紆余曲折の人生'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SY8P_9G-cRI/AAAAAAAAAY4/fyeFF1FLmmc/s72-c/mount.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2467963118662270817</id><published>2009-02-02T09:23:00.004+09:00</published><updated>2009-02-09T02:26:13.721+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人生'/><title type='text'>ごく普通の家庭</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SYY9jgtjOQI/AAAAAAAAAYw/lgQQhoj6N2A/s1600-h/090113_124717.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SYY9jgtjOQI/AAAAAAAAAYw/lgQQhoj6N2A/s200/090113_124717.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5297989691933669634" /&gt;&lt;/a&gt;私が生れ育った家庭は、ごく普通のものだった。両親と兄と妹の五人で、父親は三越百貨店に勤めていた関係で、日曜日は休みではなく、休日は八の字の付く八日と十八日と二十八日だけ。その日は大抵ゴルフに行っていた。結構上手だったらしく、家には、優勝カップがいくつもあった。そのほとんどは、戦闘中、貴金属供出で、戦後一つだけ残っていたカップは、私が開拓伝道をした初期のころ、洗礼式に水を入れるのに使わせてもらった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は自分の家庭がそれほど金持でもなく、そうかと言って、食べていけないほど貧乏でもなく、ごく普通の家庭だったので、ほかの人々も皆同じなのだろうと単純に考えていたが、牧師になり、多くの人と接するようになると、こうした普通の家庭の方がむしろ少ないことを知って、驚いた。片親しかいない人、親が再婚して、腹違いの兄弟姉妹がいる人、さらには親のいない人もいる。親はいても、どこのだれなのか分らない人もいて、私が特別に恵まれた環境の中に育ったのは、そうでない人のために何か役に立つことをしなければならないのだということが分った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母は、どちらかと言うと、教育熱心な方で、勉強をするように私を仕向けた。担任の先生との合い性が良かったということもあって、学校の成績は良い方であった。そして、そういう環境の中にいると、とかく人間を学校の成績によって決めてしまうという考え方に染っていかざるをえなかった。後になって、そういうものの見方がいかに偏ったものであるかということを痛感しないわけにいかなくなるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦争が激しくなり、そのままでは二等兵として召集されることになり、それを避けるには、陸海軍の将校になるための学校に入るのが一番近道であるということが分った。そうなると、猛勉強して、旧制の中学を終えるとすぐ、陸軍経理学校へ入ることができた。この学校へ入ったのは、まだ十七歳であったが、二等兵、一等兵、上等兵を飛び越して、いきなり兵長の下の位をもらい、士官候補生となったのである。ここから、いよいよキャリヤー組に向う生活が始まることになる。しかし、敗戦によって、私の人生は挫折してしまった。それはよかったのだと思う。もしもあのまま行っていたら、おそらく鼻持ちならぬ人間になっていたことだろう。ピンチはチャンスなのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2467963118662270817?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2467963118662270817'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2467963118662270817'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/02/blog-post.html' title='ごく普通の家庭'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SYY9jgtjOQI/AAAAAAAAAYw/lgQQhoj6N2A/s72-c/090113_124717.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2849657783694230737</id><published>2009-01-26T09:04:00.004+09:00</published><updated>2009-02-09T02:19:13.653+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='死について'/><title type='text'>死を思うころ</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXz_eiPzM2I/AAAAAAAAAYo/ZkfHIgQD6cY/s1600-h/090113_122705.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXz_eiPzM2I/AAAAAAAAAYo/ZkfHIgQD6cY/s200/090113_122705.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5295388161935094626" /&gt;&lt;/a&gt;私は、自分の人生について、主イエス・キリストがどのように介入し、私を導いてきてくださったかということについて、三冊の本を書いてきた。「さすらい」、「生きて働かれる神」、「今も生きておられる神」である。そのほか「牧会余話」にも書いてきた。しかし、八十二歳になる今も、もう一度自分の人生を振り返り、今まで書いてきたことと重複するところもあるかもしれないが、それ以外のことについても書いてみようと思う。すべては主の御手の中において起ったことで、そのことを意識しながら、主の恵みを覚えつつ回顧してみようと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は元々弱虫で、体もひ弱で、はたして二十歳まで生きられるかどうかをあやぶんだほどであった。意志も弱く、こんな人間がはたして一生生きられるのかと考えたこともあった。小学校時代は、しょっちゅう病気をし、学校をよく休んだ。六年生の時には、大腸カタルから虫垂炎を併発し、手術をしたのだが、少し手遅れで、腹膜炎になりかかっており、危うく一命を落とすところであった。そんなこともあって、死をより身近かに感じることが多くなった。何かをしていても、死んだらもうおしまいじゃないかとか、楽しい遊びの最中でも、死を思い浮かべると、少しも楽しくはなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が五歳のころ祖父が亡くなったのだが、そのころの記憶はそれほど定かではなく、その後、わが家は長らく死ぬ人がいなかったのに、不思議と私は死におびえていたのである。人はどうして死ぬのかといった疑問が、心の中にうごめいていた。それを、だれに言っても、まともな答えが返っては来ないだろうと自分勝手に心の中に決め込んで、だれにも聞こうとはしなかった。そしていつも思うことは、どうしてほかの人は死のことについて悩まないでいられるのか不思議でならなかった。私だけが特別に変った人間なのかとも考えてみた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父も母も、学校の先生たちも、死のことについては少しも触れないし、先生はそんなことよりも勉強を教えることで精一杯に見えた。いきおい、人知れず心の中に一人しまい込んでおくより仕方がなかった。そして時々こんなことを考えたりしていた。いくら勉強をしても何をしても、人は死んだらおしまいだから、空しいんじゃないか。死ほど厳しい現実はないし、もしもこれさえなければ、人生はどんなに楽しいことだろうかとも考えた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2849657783694230737?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2849657783694230737'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2849657783694230737'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/01/blog-post_26.html' title='死を思うころ'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXz_eiPzM2I/AAAAAAAAAYo/ZkfHIgQD6cY/s72-c/090113_122705.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-456543269682704173</id><published>2009-01-19T04:30:00.003+09:00</published><updated>2009-01-19T04:33:28.294+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスマス'/><title type='text'>クリスマス</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXODp3v463I/AAAAAAAAAYM/jICCN9DXGHo/s1600-h/090108_143243.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXODp3v463I/AAAAAAAAAYM/jICCN9DXGHo/s200/090108_143243.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5292718742453152626" /&gt;&lt;/a&gt;多くの人は、クリスマスこそキリスト教の最大のお祭りぐらいに考えている。しかし、クリスマスが祝われるようになったのは、四世紀からで、初代教会では全く祝われてはいなかった。しかも、十二月二十五日という日付は、キリストご降誕を歴史的に調査して割り出したものではなく、もっと別の理由から祝われるようになった。もともと十二月二十五日には、冬至祭という異教的なお祭りが盛大に祝われていた。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認するようになると、それに代るものとして、教会では、十二月二十五日をキリストが降誕の日として祝うようになったようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、初代教会が盛大に祝っていたのは何かと言うと、それはキリストの十字架上の死と復活である。これこそキリスト教の中心だからである。そういうわけで、私たちを罪から救うために天から降りて来てくださったキリストを祝うというのでなければ、クリスマスは何の意味もないことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;十二月二十五日にキリストがお生まれになったのではないということは、いくら南国のユダヤであっても、このころはかなり寒く、夜、羊が野宿することなどないという理由からである。今日では、九月頃ではなかっただろうかという学者もいるくらいである。それなのにキリスト教界では、どうして十二月二十五日に固執するのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主イエスのご降誕より半年早く生まれた人がいた。それは、バプテスマのヨハネである。彼は主イエスのことを次のように言っている。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」（ヨハネ3:30）。主イエスのご降誕が冬至のころとすれば、バプテスマのヨハネの誕生は夏至のころになる。夏至からは日がだんだん短くなるのに対して、冬至からは長くなっていく。つまり、それを象徴的に示しているとキリスト教界は理解した。だから今日でもそのままにしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスマスにおいて重要なことは、その日付や由来よりも、その意味である。聖い神の御子が聖い天から罪に満ち満ちたこの世に来られたのである。どうしてなのか。それは、罪人を救うためなのである。罪人を救うためには、それ以外にはなかったから。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1テモテ1:15)&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-456543269682704173?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/456543269682704173'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/456543269682704173'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/01/blog-post_19.html' title='クリスマス'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SXODp3v463I/AAAAAAAAAYM/jICCN9DXGHo/s72-c/090108_143243.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6684986139535480954</id><published>2009-01-11T18:51:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:08:31.155+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャン'/><title type='text'>クリスチャンについての誤解</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWnGteQlJcI/AAAAAAAAAYE/TOXJwAkc1cc/s1600-h/081012_162428.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWnGteQlJcI/AAAAAAAAAYE/TOXJwAkc1cc/s200/081012_162428.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5289977721842378178" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンと言うと、酒やたばこを飲まない人というイメージが、わが国では強い。しかし、今日では、酒を飲む人はいても、たばこを吸わない人は、ノンクリスチャンの中にもいるから、これらのことだけで、それがクリスチャンであるということにはならないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンであるということを決定するのは、その人がどういうことをしているかということよりも、その人がどういう人であるのかということが重要だ。人格的に立派であると言ったところで、人格的に立派に見えることをしているということにすぎない。だから、必ずしも内面的なことを言っているわけではないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、クリスチャンとは、どういう内面的な事実を持っている人なのかということについて考えてみることにしよう。聖書では、クリスチャンとは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きた人だと教えている。それでは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きるとは、どういうことなのだろうか。クリスチャンとは、信仰によってキリストと結び付けられた人のことである。キリストは私たちの罪を身代りに背負って、十字架上で死んでくださった。私たちが信仰によってキリストと結び付けられると、私たちの古い人は、キリストと共に十字架上で死んでしまったのだ。また、キリストは死人の中から復活されたので、私たちが信仰によってキリストと結び付けられると、キリストと共に新しい命が与えられる。これを生れ変りと言うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのしるしとして、私たちはバプテスマ(洗礼)を受ける。だから、洗礼を受けたかどうかが、クリスチャンであるかどうかを決定するのではない。むしろ、クリスチャンであるかどうかを決定するのは、生れ変ったかどうかということである。だから、キリストと結び付くバプテスマによって生れ変るということが大切であり、クリスチャンは皆この経験をしている人である。そういうわけで、いくら水の洗礼を受けたとしても、その実質であるキリストと結び付くバプテスマを受けていなければ、クリスチャンとは言えない。この生れ変りの経験は、必ずしも劇的な回心を意味するものではない。しかし、今キリストを自分の救い主と信じているのであれば、その人は生れ変った人である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6684986139535480954?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6684986139535480954'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6684986139535480954'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/01/blog-post_11.html' title='クリスチャンについての誤解'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWnGteQlJcI/AAAAAAAAAYE/TOXJwAkc1cc/s72-c/081012_162428.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1765875452346934968</id><published>2009-01-05T04:59:00.004+09:00</published><updated>2009-01-05T05:10:33.983+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='霊的世界の事情'/><title type='text'>霊的世界の事情</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWEXhavkbSI/AAAAAAAAAXs/ma7NfXAaN-E/s1600-h/DSC00065.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWEXhavkbSI/AAAAAAAAAXs/ma7NfXAaN-E/s200/DSC00065.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5287533300391636258" /&gt;&lt;/a&gt;日本人の霊的貧困さについては、挙げればきりがないほどである。迷信じみたことが平気で行なわれているかと思うと、占いに自分の運命を託す人が後を絶たない。不安だという面が一方にはあって、もう一方には何かに頼りたいという気持がある。その時、どうして占いなどに行くのかと言うと、霊的に貧困で、幼稚だからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いくら金利が安い時代だからと言って、月一割の金利を払ってくれるという所があると言ったら、それに飛び付く人がいるだろうか。まともな人なら、その信頼性を疑うだろう。なけなしの一千万円を預け、一か月目に行ったら金利として百万円をもらい、二ヶ月に行ったら、また百万円をもらい、このまま行けば、一年後には元利合計が倍以上になっていると思い、三か月に行った所が、もうそこには店はなく、近所隣りの人に聞いてもだれも分らないと言う。そんな所に大事なお金を預けないだろう。預けるとしたら、大馬鹿者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、自分の大事な人生を占いなんかによって分ろうとするのは、この大馬鹿者と同じではないだろうか。預ける相手が本当に信用できるものなのかどうかを確かめることが何よりも大切なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、日本人はどのような神を信じるのか、その対象をほとんど問題にしない。「鰯の頭も信心から」などと言う。だから、霊的に貧困であり、幼稚だと言うのである。大切なのは、信じるに足る神なのかどうかということなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、霊的世界に無知な日本人は、占いや、まじないなどにまどわされ、心霊術や霊媒に対して何の警戒心もない。こういうものは、悪霊によるものであって、このようなものに一度でも関係すると悪霊につかれてしまうことを知らない。悪霊につかれた場合、いくら祈ってもだめだ。悪霊の追い出しをする以外にない。イエス・キリストのお名前の権威によってする時に、はじめて悪霊は出て行く。イエス・キリストのお名前の権威というものが、いかに力強いものであるかということが分る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どういう人が悪霊につかれやすいかと言うと、悪霊の好む餌を持っている人である。それは、占いやまじないなど異教に関係したものや、罪である。餌がなければ、ねずみやごきぶりが出て来ないのと同様だ。そういう悪霊の好む餌を持っていたら、悪霊がその人の中に入り込みやすい。だから、それらのものを一掃しておく必要がある。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1765875452346934968?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1765875452346934968'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1765875452346934968'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2009/01/blog-post.html' title='霊的世界の事情'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SWEXhavkbSI/AAAAAAAAAXs/ma7NfXAaN-E/s72-c/DSC00065.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3361139896034565076</id><published>2008-12-28T10:16:00.002+09:00</published><updated>2008-12-28T10:18:29.333+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='日本人は霊性が幼稚'/><title type='text'>日本人は霊性が幼稚</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SVbTwML9rsI/AAAAAAAAAXk/65Rk98oGFY8/s1600-h/DSC00046.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SVbTwML9rsI/AAAAAAAAAXk/65Rk98oGFY8/s200/DSC00046.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5284644037624442562" /&gt;&lt;/a&gt;日本人は、宗教に関しては極めて幼稚だ。宗教学的に言うと、最も原始的な宗教であるアニミズムを信じている。古い木などにしめ縄などを張っているのは、まさしくそれで、そこに何らかの霊が存在していることを信じているからではないか。それを肯定する人も、しない人も、少なくとも宗教に関しては、極めて幼稚である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教を否定することが科学的であると考えるのも、これまた幼稚と言うほかはない。科学万能主義の考え方に至っては、もはや何をか言わんやというところである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうかと思うと、宗教にこる人もいないわけではない。年始などに神社やお寺に群がる人も、本当に信仰を持っているのかと言うと、ただ一年のご利益のために詣でるにすぎないのではないか。ご利益が宗教に結び付くところには、宗教についての本質が全く分っていない姿をそこに見るのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教とは、何であるよりも、人間の実存的な問題を扱うのであって、ほかの人によって代ってもらうことのできない問題、つまり、エゴイズムとか、苦しみとか、死という問題が、実は宗教の本質にかかわることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人が宗教を考える場合、それがご利益と結び付けてしか考えられないところに、日本人の霊性の貧困さを表わしているとは言えないだろうか。そこにあるものは、自分のとって得をするか、損をするかということでしかない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は徹頭徹尾、自己中心的だから、そういう考え方をするのも仕方がないのかもしれないが、実はそういう考え方をしている限り、本当の解決には至らないということを知らない。そのことが霊性の貧困さと幼稚性を表わしているとは言えないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつでも、そこには自己保身の姿がある。宗教において、本当のものをつかむためには、自己中心の考え方をやめなければならない。自分が中心なのではなく、この世界は、この世界を造られた神がおられて、そのお方を中心とした考え方にコペルニクス的転換をする必要があるのだ。そうする時、今まで見えなかったものが見えてくると同時に、今まで見えていたわずらわしいものが見えなくなってくる。そこから道が開かれてくる。幼稚な霊性からの解放がなされていく。幼稚なアニミズムの神ではなく、造り主の神がいくらかでも分ってくるだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3361139896034565076?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3361139896034565076'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3361139896034565076'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/12/blog-post_28.html' title='日本人は霊性が幼稚'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SVbTwML9rsI/AAAAAAAAAXk/65Rk98oGFY8/s72-c/DSC00046.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2630556397809671478</id><published>2008-12-22T00:07:00.005+09:00</published><updated>2008-12-22T00:26:49.219+09:00</updated><title type='text'>憎しみは愛に</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SU5fh-UwaaI/AAAAAAAAAXc/QG5R9gWxRt4/s1600-h/081101_125443.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SU5fh-UwaaI/AAAAAAAAAXc/QG5R9gWxRt4/s200/081101_125443.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5282264450222549410" /&gt;&lt;/a&gt;1919年に一人のアメリカ人宣教師が日本に来た。その名前はJ・H・コルベと言った。彼は平和主義者であったため、次第に軍国主義化していく日本では、いろいろな面で圧力が加えられ、ついに1939年に日本を追われ、フィリピンへ行かざるをえなかった。フィリピンではパナイ島で伝道活動をしていたが、やがて太平洋戦争が始まり、山中へ逃げていった。1943年に、彼は奥さんのシェルマやそのほか9人の宣教師たちと共に、日本軍に捕えられてしまった。日本軍の隊長は、今ごろアメリカ人がこのような所にいるのはスパイ活動をしているためだと決めつけ、処刑することにした。隊長はこう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「お前たちはこれから処刑されるが、30分だけ時間を与えるから、最後に今生の別れを惜しむがよい。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;こういわれて、コルベ宣教師夫妻は、聖書を取り出し、新約聖書のマタイの福音書5-7章に記されている主イエス・キリストの山上の説教の箇所を一節ずつ交読した。約15分ぐらいかかって、交読した後、二人は祈った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「もう時間だ。さあ、やめい。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;隊長の号令と共に祈りを中止させられた後、二人は日本刀で首を切られて殺された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コルベ宣教師の二人の娘マーガレットとアリスは、勉学のためアメリカへ帰国していたため難を逃れた。この知らせがアメリカにいたマーガレットとアリスのもとに届けられると、彼女たちは悲しみに打ちひしがれた。やがて悲しみは憎しみに変り、両親を殺した日本人に対して、いつの日か仇を打ってやろうと思うようになった。しかし、戦時中のこととて、近くに日本人がいないので、すぐにどうのということができずにいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎日、悲しみと憎しみの中で神に祈っていたところ、ある日、祈りながら、ふとこんなことを考えていた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;＜両親は日本の軍人に殺される前に祈っていたと言うけれども、一体何について祈っていたのだろうか＞&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;そのことを考え始めると、どうしても二つのことに思い至るのだ。働き半ばして殺されたあのフィリピン人の救いと、両親をその国から追放し、両親を殺した日本人の救いのためだ。そう考えてみると、自分たちの願いと思いが、両親の最後の祈りと全く反対のことであったことに気付かされた。そうは言うものの、そう簡単に憎しみが取り去られるものではない。悶々とした毎日を過ごしているうちに、聖書の御言葉によって、目の前が明るくなる経験をした。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちも他の人のために喜んで自分の命をささげるべきである」(1ヨハネ3:16)。&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;そして、マーガレットはこの御言葉通り、日本人に対して愛を示したいという思いが心に湧いてくるのをどうしようもなかった。しかし、近くに日本人がいるわけではなく、なかなかその機会はなかった。ところが、捕虜収容所に日本の軍人がいることを知り、彼女は早速ボランティアとして志願し、日本人捕虜たちの身の回りの世話をすることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;捕虜収容所にいる日本人捕虜たちは、マーガレットのことを話題にしていた。ある日、その日の働きを終えて帰ろうとするマーガレットを捕まえて聞いてみた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたはどうして私たちの身の回りのことをこんなに親切にしてくださるのですか。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;すると、マーガレットは、今述べたような話をして聞かせた。すると、それを聞いていた日本人の捕虜たちには、さっぱり理解できない。日本の軍人たちは、「親の仇は子が討て。子が討てなければ孫の代になっても」と教えられてきていたから、彼女の気持ちなど理解できる道理がなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;捕虜たちは理解できぬまま日を過し、いよいよ敗戦後、捕虜交換線で帰国した。この人々を出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発の時、真珠湾の爆撃隊長だった淵田美津雄元海軍大佐がいた。彼はこの話を捕虜たちから聞いたが、さっぱり分らず、マーガレットの人生を変えた聖書を手にし始めた。そして、新約聖書のルカの福音書23章34節の所まで来た時、彼は電気に打たれたかのように感じ、キリストの御言葉に捕えられてしまった。それはご自分を殺そうとする人々のために、十字架上で彼らの赦しを祈られた御言葉である。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「お父様。どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何も分っていません。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;彼は、マーガレットの人生を変えた神の霊によって捕えられ、彼もまた憎しみが愛に変えられて、余生をクリスチャンとして通した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コルベ宣教師のもう一人の娘アリスは、自分が働いて得た一年分の給料を日本伝道のためにささげたのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2630556397809671478?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2630556397809671478'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2630556397809671478'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/12/blog-post_22.html' title='憎しみは愛に'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SU5fh-UwaaI/AAAAAAAAAXc/QG5R9gWxRt4/s72-c/081101_125443.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7877328665586185352</id><published>2008-12-14T22:55:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:20:47.253+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='愛'/><title type='text'>身代わりの愛</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SUUSht67C8I/AAAAAAAAAXU/VDJ9C2ZEtNQ/s1600-h/081211_112103.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SUUSht67C8I/AAAAAAAAAXU/VDJ9C2ZEtNQ/s200/081211_112103.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5279646508633492418" /&gt;&lt;/a&gt;1954年9月26日のことであった。折しも日本列島を直撃した台風が、青函連絡船洞爺丸に襲い掛ってきた。函館を出た洞爺丸は、波が荒いため、港内に借泊した後、七重浜へ行き、そこで座礁することにし、乗客には全員救命具を着けるようにという館内放送があった。そうしているうちに、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「大丈夫です。大丈夫です」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と叫んでいた船員の言葉がうそのように、水は容赦なく船内に流れ込んできた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一等船客は、救命ボートに乗り移っていた。その時、二人の日本人の若い女性が病人として連れて来られた。しかし、人々はそれに気がつかぬふりをして、どんどん救命ボートに乗り移っていた。しかし、そこに二人のキリスト教の宣教師がいた。一人はアルフレッド・ストーンと言い、もう一人はディーン・リーパーと言った。彼らは泣いているその女性たちを見ると、見て見ぬふりをすることができず、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「ドーシマシタ？」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と聞いた。救命具のひもが切れたと言って泣いていた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマショウ。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;宣教師たちは自分たちの着けていた救命具を外しながら、こう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「アナタガタハ、スクワレテイマスカ？」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;彼女たちは、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「私は助かりたいの」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と叫んだ。宣教師たちはこう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「ワタシタチハモウスクワレテイマス。ケレドモ、アナタガタハ、スクワレテイマセンネ。デスカラ、タスカッタラ、カナラズキョウカイヘイッテ、スクワレテクダサイ。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;そして、自分が乗るべき救命ボートにこの日本の若い女性たちを乗せてやり、自分たちは乗らぬことにした。しかも、自分の救命具までその女性たちにあげてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;突然ガーンという音と共に、船は転覆し、水が船内に流れ込み、乗客の頭から水が覆ってきた。救命ボートに乗り移った人たちが全員助かったわけではなかったが、この二人の女性たちは助かった。その代わり、あの二人の宣教師たちは、千数百人の人々と共に海の藻屑と消えてしまった。この話は、助かった二人の女性が、宣教師たちの最後の言葉通り教会を探し、救いの体験をした後、そのあかしをしたことによって明るみに出た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だれが、見ず知らずの人のために命を投げ出すことができるだろうか。聖書で、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と教えているとおりである。しかし、主イエス・キリストの愛を知った人には、それが出来る。次のように教えられているからである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちもほかの人のために喜んで自分の命をささげるべきである。」(ヨハネ13:16)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これには、後日物語がある。リーパー宣教師には四人の子供、三男一女がいた。その一人娘リンダは小さくて、父の顔を覚えていない。彼女は十四歳の時、恵泉女学園に半年留学していた。その時、洞爺丸記念の会が函館で開かれるということを知り、函館へ行った。会が開かれるまでにまだ時間があったので、ゆかりの地七重浜へ行ったところ、リンダは案内した人に対して、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「一人にしてほしい」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と言って、まだ冷たい海の中へどんどん入って行き、頭が隠れるくらいの所まで来ると、急に大声を出し、暴れ始めた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「パパ、なぜ死んだの。パパ、なぜ日本人ために死んだの。パパ、ここに帰って来て。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;両手で水をたたきながら叫び狂ったリンダは、その後一言もしゃべらず、一種異様な様子であったというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やがてアメリカへ帰り、カリフォルニアから次のような手紙が案内した人のところに送られてきた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「まことに申しわけありませんでした。あの時は本当に失礼いたしました。しかし、ようやく分ったのです。子供のころから、母が父の写真と一緒に枕元に置いてくれていた聖書を、ようやく開くことができました。そこにはこう書かれていました。『人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません』(ヨハネ15:13)。私はこの御言葉によって、なぜパパが日本人のために死んだのかが分ったのです。そして、主イエスの愛がそうさせたのだということも。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;そして、リンダは宣教師夫人として、また日本に帰ってきたのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7877328665586185352?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7877328665586185352'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7877328665586185352'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/12/blog-post_14.html' title='身代わりの愛'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SUUSht67C8I/AAAAAAAAAXU/VDJ9C2ZEtNQ/s72-c/081211_112103.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2224408196085807885</id><published>2008-12-07T22:09:00.008+09:00</published><updated>2009-02-09T02:16:55.735+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='愛'/><title type='text'>愛は人を動かす</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STvO63Wp62I/AAAAAAAAAXM/P8uZA-oZ8Ds/s1600-h/081101_125408.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STvO63Wp62I/AAAAAAAAAXM/P8uZA-oZ8Ds/s200/081101_125408.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5277038899081374562" /&gt;&lt;/a&gt;1900年代に、山口県の秋吉台で大理石の発掘をしていた本間俊平という人がいた。初めのうちはキリスト教を妨害していたが、後にクリスチャンとなり、秋吉台で刑余者と生活を共にしながら、彼らを導いていた。彼のもとには沢山の前科者がおり、刑を終えると、人の紹介によって、ここへ集まって来ていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その中に、相川勝治という至って乱暴な男がいた。彼は元警察官で、警部補にまでなった人だが、酒のために退職し、その後十八か所で強盗を働き、あちこちで悪事を重ねた後、ついに捕えられ、十六年九か月の刑に処せられた。彼は元警察官だから、法律はよく知っているし、強情な上、短気で、入獄中もわがままで通し、乱暴を働き、そのため、看守長に始末書を書かせるほどひどいことをするものだから、刑務所でも持て余すほどだった。ところが、最後の三年余りは、聖書を読むようになり、出所後は教誨師の紹介で、妻子ともに秋吉台にやってくることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本間俊平は、彼を七、八人の青年たちの小頭として、大理石の切り出しをさせた。ところが、相川は予想以上のわがまま者で、ほとほと困ってしまったほどだった。ある日のこと、本間は思い余ったあげく、意を決してこよ子夫人を呼んで、こう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「お前は、今日まで私の妻としていろいろ尽してくれたが、先ごろ来たあの男は、お前も知っての通りの人間で、あの男のためにお前か俺のどちらかが、生首を飛ばされるようなことが起るかもしれない。今さら改まってお前の決心を聞くまでもないが、もしもそのようなことが起った時、音をあげるようだと困るが、どうかね。その時、お前の口からキリスト様に仕える者らしからぬ言葉が出たら、神様に仕える者として大きな恥だと思うが、どうかね。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;すると、夫人は、ご自分の堅い決意をこのように述べられた。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「私は、何一つの取り柄のない者でございますが、イエス様の十字架だけは心から信じております。もしもそのようなことを私の身に引き受けますことが神様の御心でございますなら、私は喜んでお引き受けいたします。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;ところで、相川の下で働いている一人の青年が、強情という点では彼よりも上手で、彼の言うことに従わないために、相川はこよ子夫人に、「あいつを追い出してください」と何度も訴えた。ところが、夫人はどうしても聞き入れないので、あるとき、また同じことを申し出て、夫人に迫った。しかし、夫人はどうしてもそれを聞き入れず、このように言うのである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「ここに来てもらっている人たちは、自分で勝手に出て行くか、あるいはここにいる必要がなくなり、善くなって帰っていただくことはありますが、悪いからとか、強情だからという理由で、こちらから出て行ってもらうわけにはいきません。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;このように、キッパリ断られたので、相川は怒り出し、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「これだけ言っても聞いてくれないのなら、あなたを殺して、おれも死ぬ」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と怒鳴りながら、隠し持っていた石切りのみを取り出して、夫人の左腕に斬りつけた。その時、夫人は少しも騒がず、血潮のほとばしる左腕を右手で押さえながら、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「神様。どうか相川を赦してやってください」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と祈るばかりであった。相川はただブルブルと震えているところを、物音を聞きつけて来た人々に取り押さえられてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうこうしているところに、こよ子の夫、本間俊平が帰って来、この有様を見ると、相川の前に手を付いて、こう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「お前が殺したいほど憎かったのは、このおれだろう。相川、どうか赦してくれ。さあ、家内を早く医者の所へ連れて行ってくれ。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;この時以来、相川は心から悔い改め、真人間となり、後に本間俊平の下を去り、自分も同じように刑余者の面倒を見るようになった。本間俊平夫妻のいのちがけの愛が、この箸にも棒にもかからなかった男、相川勝治を変えたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、本間俊平は結婚をする時、四つの条件を出したと言われている。第一は、家柄などを問題にしないこと。第二は、学歴のない人であること。第三に、容貌などどうでもよいこと。しかし第四に、愛の人であること。そして、この四つ目の条件にかなった女性と、二十五歳の時に結婚した。それが、こよ子夫人だったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、家柄や学歴などどうでもよい。愛さえあれば、驚くべきことをすることができる。神がその人を動かして、驚くべきことをさせてくださるのである。箸にも棒にもかからない人を変えてくださることは、今も同様である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2224408196085807885?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2224408196085807885'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2224408196085807885'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/12/blog-post.html' title='愛は人を動かす'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STvO63Wp62I/AAAAAAAAAXM/P8uZA-oZ8Ds/s72-c/081101_125408.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8760582129278914635</id><published>2008-11-30T18:08:00.004+09:00</published><updated>2008-11-30T18:47:49.928+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='トルストイの生涯'/><title type='text'>トルストイの生涯(2)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STJfq26xAiI/AAAAAAAAAXE/aXccZxaTh9E/s1600-h/081101_125245.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STJfq26xAiI/AAAAAAAAAXE/aXccZxaTh9E/s200/081101_125245.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5274383303505412642" /&gt;&lt;/a&gt;トルストイがモスクワの貧民窟について彼の友人たちに語る時、彼は泣き叫び、こぶしを振るいながら、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「どんな人でもこのような生き方をしてはならないのだ」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;と言っては、呆然とするのであった。こうして、56歳になった時、彼は、「私たちは何をなすべきか」という論文を書き、不幸な人たちが救われなければ、私たちも本当には救われないのだと告白し、このように語っている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「本当の人間は、理性的な生活を送らなければならない。そして、理性の活動は愛であって、愛は直ちに実行が伴わなければならない。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;トルストイは、主イエス・キリストの山上の説教を実践しなければならないと考え、それを主張しながらも、実践しきれない自分に悩み続けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このようなトルストイの人間性に徹した主義主張に対しては、多くの追従者が現れてきた。とくに50歳の時から書き出した、宗教的な通俗物語は、ロマンロランが、「芸術以上の芸術」と推薦したほどのもので、それは、ロシア本国だけでなく、全世界の人々にも広く読まれ、その発行部数は、なんと一年間に400万部にも及んだと言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;トルストイの主張は、ロシア正教会の教えとは相容れないところから、ついに彼が73歳になった時、彼はロシア正教会から除名されてしまった。その除名が発表された時、それとも知らずにクレムリン宮殿の近くの広場を散歩していたトルストイを、労働者を加えた学生たちの一群が取り囲み、除名に憤慨し、かえってトルストイを激励するという場面もあった。やがて、各地からはトルストイを激励する文書が舞い込み、トルストイの誕生日のようなにぎやかさを呈したほどであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日露戦争が勃発し、トルストイを悲しませたのは、彼の76歳の時のことであった。彼は年老いて、なお自分の言行の矛盾に悩み続けた。特に彼の言葉に従って立派に実行しているように見える、いわゆる彼の弟子たちの姿を見ては、自責の念にかられた。そのころトルストイは、よく目に涙を浮べながら、こう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「よく人が、お前は立派な説教をするけれども、お前の生活はどうだ、お前のやっていることはどうだと言って責める。その通り、私も本当に悲しく思っている。自分は説教したいのはやまやまだけれども、説教はしないつもりだ。自分のやっていることが主流なら説教もできようが、自分のやっていることがよくないのだから仕方がない。私のは説教ではない。ただ人生の意義を見出したいと努力しているにすぎない。私もその教えを守ろうと努力していることだけは認めてほしい。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;トルストイは、パウロが語っている福音(パウロの手紙の中にある)は、神秘的説教であり、倫理的な面が欠けていると言って批判していたが、彼の理解していたキリストの福音は、いわゆる道徳訓にすぎなかった。そして、それを実行するところに重点が置かれていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主イエス・キリストの山上の説教にある、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「右の頬を打たれたら左の頬も向けてやりなさい」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;を実行することだった。また、&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたの敵を愛しなさい」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;を実践することであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように、キリスト教の福音をただの道徳訓と規定したトルストイは、自らその実践が出来ないことに悩み、絶望しなければならなかった。そこに、妻から逃げ出し、家出をし、ウラル・リヤザン線の一寒村アスターボーの駅で、独り寂しく死ななければならない運命が待っていたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;トルストイは、自分の心を責めるものが、彼の名声であり、富であり、彼の人間としての幸福であると考えた。そして、彼の晩年は、それらの一切から逃れたいと思ったのだ。80歳の坂を越し、厳しい妻の監視の元で、トルストイの心は若者のように悩んだ。彼の悩みを病的わがままと見て、二度までも試みた家出を防ぎさえすれば平和が与えられると堅く信じていた妻は、夜も昼も親切な言葉を使って、トルストイの周囲につきまとい、監視し、自由と解放を望むトルストイの魂を、自分自身に縛り付けておこうとした。しかしながら、ついにトルストイは家出に成功するのだが、自由になった彼にはすぐに死が訪れてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間の力で愛の人になることは出来ないのだということを、トルストイの生涯は私たちに教えてくれている。トルストイの涙ぐましいまでの苦闘も、ついに実を結ぶことはできなかった。聖書が一貫して、人間は自分の力によっては決して愛の人にはなれない罪人なのだと教えていることが、これでよく分ったのではないかと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8760582129278914635?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8760582129278914635'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8760582129278914635'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/11/2.html' title='トルストイの生涯(2)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/STJfq26xAiI/AAAAAAAAAXE/aXccZxaTh9E/s72-c/081101_125245.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8806112171725446891</id><published>2008-11-23T22:40:00.003+09:00</published><updated>2008-11-23T22:52:21.841+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='トルストイの生涯'/><title type='text'>トルストイの生涯(1)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSlf3SK9JPI/AAAAAAAAAW8/7SWxRPeLtc4/s1600-h/20081117413.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSlf3SK9JPI/AAAAAAAAAW8/7SWxRPeLtc4/s200/20081117413.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5271850242189108466" /&gt;&lt;/a&gt;ロシアの文豪トルストイの名前を知らない人はいないだろうと思う。たとい彼の本を読んだことはなくとも、彼の大作「戦争と平和」の名前を知らない人はいないだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界的文豪レオ・トルストイは、1829年8月28日、ヤスナヤ・ポリヤナに生まれた。一歳の時に母を失い、八歳の時に父を失い、その後、母親代わりとして彼を育ててきてくれた叔母を十三歳の時に失ってしまっている。そうしたことから、彼は十六歳になると、深い懐疑に捕えられ、それ以来「青春の荒野」の旅をしなければならなくなった。そのため、それまでずっと続けてきた祈祷をやめ、教会にも行かなくなってしまったのである。そして数年間というものは、虚無的な考え方に走り、賭け事にふけったり、ジプシーの女に迷ったり、また酒におぼれたりして、獣のような生き方をしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、彼は驚くほどの健康体の持ち主で、クリミヤ戦争に参加した時も、セバストポーリの籠城戦では、勇敢に戦い、将来、将軍になることを夢見たこともあったほどである。しかしながら、戦争の悲惨さを見るに及んで、人間の運命と人生の目的と永遠の真理を瞑想して、その中から初期の文学作品が生まれていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は三十四歳の時、モスクワの王宮に仕えていた医師ベールスの次女ソフィヤと結婚した。その時、ソフィヤはまだ十八歳になったばかりの乙女であった。その結婚は極めて幸福な結婚であって、彼は友人に「私は全く新しい人間になりました」と手紙をしたためているほどである。結婚後、彼は「戦争と平和」の大作に取りかかり、妻ソフィヤの助けを借りて、数年にしてこれを完成することが出来た。そして、彼が五十歳になった時には、「アンナ・カレニナ」も完成して、文士としての名声は世界に広まり、文豪としての地位も確保していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、世界的に名声を博した五十年の彼の人生も、トルストイの心には平安をもたらさなかった。そして、年齢にも似合わぬほど若々しい煩悩が彼の心を捕えていたのである。時には、自殺の誘惑にもかられるほどであった。しかしその時、彼はかろうじて新約聖書の福音書によって救われた。彼は、当時のロシア正教会の持つ迷妄から解放されたいと思い、聖書を原語で学ぼうと決心し、ヘブル語やギリシャ語さえも勉強するようになっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように、文学者としてのトルストイは、宗教家としての面も持つようになっていった。いや、むしろ文学者という過去の一切の名声をかなぐり捨てるために、自分のすべての作品を、ちりあくたのように思い、聖書の研究と宗教論文に熱中していったのである。そのようなトルストイの姿を見て、彼のうちにある従来の才能に期待していた人々は失望し、多くの友は彼のもとを去って行ってしまった。しかし、トルストイは、ヤスナヤ・ポリヤナの預言者と認められ、その名声はとみに上がり、彼を慕う人々もまた現れるようになっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、ここにはからずも、トルストイを破滅に至らせる不幸がきざしていたのである。それは、文学的労作を去って宗教に熱中するトルストイに対して、どうしても心から喜ぶことのできなかった妻ソフィヤとの衝突であった。全ロシアの文豪であるだけでなく、世界的大文豪となることを夫に期待していた妻のソフィヤの目には、トルストイの宗教活動が、いわば気まぐれな遊び事ででもあるかのようにしか思えなかった。だから、一日も早くこのような事が過ぎ去ってくれることを願っていた。しかも、心の中でひそかに願うだけではなく、時には面と向かってののしることもあった。こうして、この夫婦は、寄ると触ると、けんかで明け暮れるという有様になっていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ロシアの国に革命のきざしが見え、アレクサンドル二世が暗殺されたのは、トルストイが五十三歳の時のことであった。五十四歳になった彼は、静かに自分の生涯を顧み、人生の区切りを付けようと考え、「わが懺悔」を発表した。この同じ年の冬、モスクワでは民勢調査の企てがあって、彼は自分の目でモスクワの貧民窟の実状を見る機会があった。その時、彼はみじめな人々の有様を見て、自分が罪を犯していると感じた。彼は家に帰って来て、じゅうたんを敷いた階段を上がり、じゅうたんを敷いた部屋に入り、毛糸の暖かい上着を脱ぎ、それから白いネクタイを着け、白い手袋をはめて食卓に着き、揃いの服を着た二人の召使いの給仕によって、五品の料理を食べようとした時、自分がどんなに深い罪を犯しているのかを感じた。それは、だれかが良い生活をするということは、だれかを貧しく不幸な生活の中に突き落とすことになるのだと思ったからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8806112171725446891?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8806112171725446891'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8806112171725446891'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/11/1.html' title='トルストイの生涯(1)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSlf3SK9JPI/AAAAAAAAAW8/7SWxRPeLtc4/s72-c/20081117413.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3549196326348831955</id><published>2008-11-16T22:52:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:05:48.888+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='愛'/><title type='text'>「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSAvTJEu7lI/AAAAAAAAAW0/oM6La_U0PTA/s1600-h/081012_164801.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSAvTJEu7lI/AAAAAAAAAW0/oM6La_U0PTA/s200/081012_164801.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5269263569923272274" /&gt;&lt;/a&gt;もう何年も前のことになるのだが、私はある本を読んでいて、その本の中に出てくる強烈な印象を与える詩との出会いを経験した。今もなお私の心の中に生き続けている感動とともに、その詩は私の心に焼き付いて離れないのである。それは、重度の脳性マヒで、しかも短い十五年の生涯を送った土谷康文君とそのお母さんの詩である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが文章を書くのとは違い、一つの言葉を選ぶにも、その言葉を構成している字を、五十音図の中から一つ一つウインクのサインを出しながら、字の書ける人に示していくわけである。こうして出来たのが、次の詩なのであった。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;ごめんなさいね　おかあさん&lt;br /&gt;ごめんなさいね　おかあさん&lt;br /&gt;ぼくが生まれて　ごめんなさい&lt;br /&gt;ぼくを背負う　かあさんの&lt;br /&gt;細いうなじに　ぼくは言う&lt;br /&gt;ぼくさえ　生まれてなかったら&lt;br /&gt;かあさんの　しらがもなかったろうね&lt;br /&gt;大きくなった　このぼくを&lt;br /&gt;背負って歩く　悲しさも&lt;br /&gt;「かたわの子だね」とふりかえる&lt;br /&gt;つめたい視線に　泣くことも&lt;br /&gt;ぼくさえ　生まれなかったら&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、母親の信子さんも、彼のために詩を作った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;わたしの息子よ　ゆるしてね&lt;br /&gt;わたしの息子よ　ゆるしてね&lt;br /&gt;このかあさんを　ゆるしておくれ&lt;br /&gt;お前が脳性マヒと知ったとき&lt;br /&gt;ああごめんなさいと　泣きました&lt;br /&gt;いっぱい　いっぱい　泣きました&lt;br /&gt;いつまでたっても　歩けない&lt;br /&gt;お前を背負って　歩くとき&lt;br /&gt;肩にくいこむ重さより&lt;br /&gt;「歩きたかろうね」と　母心&lt;br /&gt;"重くはない"と聞いている&lt;br /&gt;あなたの心が　せつなくて&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしの息子よ　ありがとう&lt;br /&gt;ありがとう　息子よ&lt;br /&gt;あなたのすがたを　見守って&lt;br /&gt;お母さんは　生きていく&lt;br /&gt;悲しいまでの　がんばりと&lt;br /&gt;人をいたわる　ほほえみの&lt;br /&gt;その笑顔で　生きている&lt;br /&gt;脳性マヒの　わが息子&lt;br /&gt;そこに　あなたがいるかぎり&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;このお母さんの心を受け止めるようにして、康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作っている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;ありがとう　おかあさん&lt;br /&gt;ありがとう　おかあさん&lt;br /&gt;おかあさんが　いるかぎり&lt;br /&gt;ぼくは　生きていくのです&lt;br /&gt;脳性マヒを　生きていく&lt;br /&gt;やさしさこそが、大切で&lt;br /&gt;悲しさこそが　美しい&lt;br /&gt;そんな　人の生き方を&lt;br /&gt;教えてくれた　おかあさん&lt;br /&gt;おかあさん&lt;br /&gt;あなたがそこに　いるかぎり&lt;br /&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;この母親と子供の間に通ういたわりと、やさしさに、私の心が強烈に反応したのは、もはやこのような強い絆（きずな）で母子が結ばれているのを見ることがまれになってしまっているからであろうと思う。親子とは名のみで、そこにあるものは、相手のことよりも自分のことしか考えていない醜いエゴイズムしか見られないというのがほとんどではないだろうか。親の面倒を見ないで、老人ホームに預けっ放しであったり、たとい面倒を見たとしても、世間体を気にしてのことであって、愛が全く見られないのが現実である。親は親で、自分のために子供を利用し、子供は子供で、自分のために親を利用し、利用価値がなくなると、ポイと放し出してしまうのがほとんどである。最近では、平気で親が幼い子供を殺し、また子供が自分の気に食わないことを親に言われたと言って、平気で親を殺すという風潮がある。それほどまでとは行かないまでも、今日、ほとんどすべての家庭で、親子の関係は冷たく、多くの家庭は崩壊寸前である。&lt;br /&gt;このような現実の中で、この心温まる詩は、泥沼に咲く美しい蓮の花を思い出させてくれる。と同時に、今日私たちが失ってしまったものが、どんなに価値のあるものであったのかということに気付かせてくれるのではないだろうか。それは、愛であり、相手を思いやる優しさである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3549196326348831955?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3549196326348831955'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3549196326348831955'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/11/blog-post_16.html' title='「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SSAvTJEu7lI/AAAAAAAAAW0/oM6La_U0PTA/s72-c/081012_164801.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-843863255829188118</id><published>2008-11-10T00:36:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:14:34.179+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='信仰'/><title type='text'>信仰のからくり</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SRcFhW1ziLI/AAAAAAAAAWs/anBYZo2jtA4/s1600-h/081013_110825.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SRcFhW1ziLI/AAAAAAAAAWs/anBYZo2jtA4/s200/081013_110825.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5266684359858161842" /&gt;&lt;/a&gt;前に、「キリスト教信仰のからくり」について書いたこたがあった。キリスト教信仰は、何かをすることによって救われるのではなく、信仰によって救われると聖書は教えるのだが、そこで言う「信仰」というのは、「何もしない」ということなのではなく、「受け身になる」ことだと言った。そのことについて、もう少しここで考えてみようと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は元々、寝付きの悪い人間で、横になるとすぐ眠ってしまう人をうらやましく思ったものである。そんなに宵っ張りの朝寝坊の方ではないのだが、翌朝早く起きなければならないという日には、いつもよりも早く床に入る。早く寝付かなければいけないという思いが強いせいか、なかなか寝付くことができない。いつも寝ている時間が来ても、眠れずにいる。十一時、十二時、一時になっても、目はさえてしまって、眠れずにいる。そして、いつしか眠り、翌朝起きた時には、睡眠不足で、頭痛がするという具合である。夜、早く眠ることができないのは、低血圧の体質のせいだと思っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、ある日のラジオの放送で、一人の医者がこんなことを話しているのを聞いた。「私たちは疲れると、夜眠ります。眠ることによって疲れを取り去るのです。ところで、眠らなくても、暗い部屋で心を静かにして横になっていれば、疲れの70%は取れるのです。」これを聞いた私は、「眠らなくてもいいんだ。少し時間を長く取って体を休めていれば、疲れは取り去られ、体は回復するんだ」と分った瞬間から、眠ろうと努力する必要がないことが分り、寝付きがよくなった。それから、私は寝付きの悪さから解放されたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;信仰も同じだと思う。「信じなければいけない。信じなければいけない」と言って、いくら努力してみても、そんなことで信仰が持てるわけではない。神が聖書で教えておられることを、そのまま受け止めればよいのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは、水泳からも教えられる。泳げない人は、妙な迷信を持っている。太っている人は水に浮くけれども、やせている人は浮かない。これは、何も知らない人の理屈である。太っていようが、やせていようが、リラックスすれば、だれでも浮くし、緊張すれば沈むのである。水がこわいと思っている人は、水に入ると緊張するから浮かずに沈んでしまう。海水ではなく真水のプールでも、リラックスすれば、顔も手も足も水の上に出すことができる。水の中に入って、リラックスすれば、体は浮き、泳ぐことはだれにでもできる。水泳の場合は、あと呼吸法を覚えれば、本当に楽しむことができる。私は時間の取れる時には、週一、二度プールに行って泳ぐことにしている。これは健康維持のためにしているのだが、しなければいけないからやっているのではなく、水の中に入って泳ぐことが楽しいから泳いでいるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は元々水がこわくて、泳げなかった。今考えてみると、水は冷たいし、泳ぐことを楽しく教えてくれる人がいなかったということもあったろう。しかし、今は夏でも冬でも温水プールだし、ゴーグルを付けて泳ぐので、目が痛くなることはなく、本当に楽しめるようになった。それは、水がこわくなくなったからである。そして、人間の体は水に浮くということが分ったからでもある。水というものがどういうものか分ったということが一番かもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;信仰も同じだと思う。私たちが信じる神とはどういうお方なのかということが分ると、信じることのすばらしさが分ってくる。神というお方を、何か悪いことをしたらすぐ罰を加えられるこわいお方と思っているうちは、あたかも冷たい水と、目が痛くなるということと、よく息つぎができなかった時には、水を飲んでしまい、水は恐ろしいものというイメージが強く、いきおい水泳はいやだという思いが強かったのと同じであったのだと思う。しかし、今は水が恐ろしくなくなり、温水とゴーグルと息つぎができるようになり、水を飲んで苦しい思いをしなくなり、水泳が楽しくなったように、神が本当によく分ってくると、信仰生活ほど楽しいものはないということも分ってくるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神はいつも私たちを助けようとして、私たちのすぐそばにいてくださる。聖書の御言葉を実行しようとすれば、それができるように助けてくださるお方である。そのことが本当に分れば、信仰生活の醍醐味を味わうことができる。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、あなたがたについて、キリスト・イエスの神の御心なのである」(1テサロ二ケ5:16-18)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これは、信仰者のゴールないし理想図なのではなく、今できることを教えている御言葉である。それが出来るためには、神の助けが必要で、それを求めれば、神がそれを出来るように助けてくださるのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-843863255829188118?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/843863255829188118'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/843863255829188118'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/11/blog-post_10.html' title='信仰のからくり'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SRcFhW1ziLI/AAAAAAAAAWs/anBYZo2jtA4/s72-c/081013_110825.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1083991140198395738</id><published>2008-11-02T23:32:00.005+09:00</published><updated>2009-02-09T02:07:12.725+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='キリスト教'/><title type='text'>キリスト教の前提</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQ288Qr6oMI/AAAAAAAAAWk/QOTImAX2N0Q/s1600-h/081101_125725.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 200px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQ288Qr6oMI/AAAAAAAAAWk/QOTImAX2N0Q/s200/081101_125725.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5264071282923315394" /&gt;&lt;/a&gt;「神が存在するということを実証もしないで、それを前提とすることは独断であり、非科学的ではないか。」と言う人がいる。こういう人たちは認識論において初期的な誤りを犯している人たちである。というのは、どんな考え方でも、そこには必ず前提というものを持っているのだということを知らないからである。実証に先立つものとして、前提（ア・プリオリ）を持っている。それは、自然科学でも同じである。普通、自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提としている。普遍的原理というのは、「・・・の原理」とか、「・・・の公式」とか、「・・・の定理」とか、「・・・の法則」などと呼ばれるものがそれである。原理とか、公理とか、定理と呼ばれるものの前には、大抵、アルキメデスとか、ピタゴラスとか、パスカルといった発見者の名前が付けられている。しかしながら、このようなものだけでは研究を進めていくことができないために、仮説を立てなければならないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このようなものの中でも、最も基本的な事柄として、自然科学においては、いくつかの前提を持っている。たとえば、数概念が実在するとか、比較の概念が実在するということである。1、2、3といった整数や、0.1、0.2といった小数や、2分の1、3分の1と行った分数や、√2、√3といった無理数や、循環数など、いろいろな数がある。このような数の概念が実在するということは、どのようにして証明することができるだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、これはあれよりも大きいとか、こちらが重くてあちらが軽いとか、こちらが赤であちらが青であるとか、こちらが美しくてあちらが醜いとか、いろいろな形の比較がある。ところで、そうした比較の概念が実在するということを、私たちははたして証明できるだろうか。そして、実証してもいないものを、あらゆることに先立って前提として持って来ることが独断であり、非科学的であるというのであれば、自然科学も同じ言葉で批判されなければならないはずだ。しかし、これほどナンセンスなことはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これで分るように、前提をもうけること自体が悪いのではない。要は、その前提が、それから生ずる事柄を、すべてよく説明できるかどうかにかかっているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、前提というものは、それ自身だけをどんなにいじくり回してみたということで、それが正しいかどうかを判断することはできないのである。その前提が正しいか、それとも誤っているかを決するものは、その前提から導き出された結果（ア・ポステリオリ）が、すべてのことに正しく当てはまるかどうかによる。つまり、木はその実によって知るという方法以外に、前提の正誤を判断する道はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一つの例を挙げよう。湯川秀樹博士が、中間子仮説を発表したことがあった。これはまだ仮説だから、当然まだだれもその実体を実証したわけではなかった。それが実在することを実証するためにも、前提として設けなければならない事柄は、「中間子があるとするならば・・・」ということことである。「中間子がないとするならば・・・」ということは、前提とはなりえないのである。つまり、前提というものは、いつでも肯定的、存在的で、したがって限定的でなければならないのである。そしてその後、世界中の学者がたゆみない研究を続けた結果、約三年ほど後に、わが国では理化学研究所の仁科博士の研究室で宇宙線の中に捕えられた。こうして湯川博士の一仮説は、「中間子論」として、一躍広く人々に知られるようになり、後に日本で最初のノーベル物理学賞受賞者となったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、キリスト教の前提は何なのであろうか。それは、次のような一連の事柄である。この世界を創造された唯一の神がおられること。そして、その神が私たち人間を罪から救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書であるということである。だから、神の実在は前提であって、それ以外の何ものでもない。しかも、これは前提の要件にかなっている。肯定的であり、存在的であり、限定的だからである。また、この前提で気付くことは、神が創造主であるということである。つまり、永遠とか無限とか絶対というものが、ただ抽象的に存在しているのではなく、そうしたものがすべて、この世界の創造主である唯一の神に属しているという考え方がある。永遠という抽象的な世界があるのではなく、永遠とは神のみに属するのである。同様に、無限も絶対もそうであって、そうした世界は、神においてのみ具体化して実在しているのである。それだけでなく、この神は創造主なのだから、啓示をなさるはずである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この前提に立つ時、神の御心の啓示である聖書によると、イエス・キリストを信じれば救われるというのである。だから、イエス・キリストを信じて救われれば、この前提は正しいことになる。そして、それ以外の方法で神の実在を知ることはできないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1083991140198395738?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1083991140198395738'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1083991140198395738'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/11/blog-post.html' title='キリスト教の前提'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQ288Qr6oMI/AAAAAAAAAWk/QOTImAX2N0Q/s72-c/081101_125725.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1776595178041211845</id><published>2008-10-26T23:41:00.005+09:00</published><updated>2009-02-09T02:15:05.817+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='信仰'/><title type='text'>キリスト教信仰のからくり</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQSDaYfiWnI/AAAAAAAAAWc/FyNvvLesRKk/s1600-h/20080923403.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 200px; height: 150px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQSDaYfiWnI/AAAAAAAAAWc/FyNvvLesRKk/s200/20080923403.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5261474753950145138" /&gt;&lt;/a&gt;一般に人々が考えているところは、善行を積むことによって天国への階段を登って行くことができ、天国に入れるというものだと思う。ところが、聖書が教えているのは、いくら人間が善行を積んでも、それで神に受け入れられたり、天国へ行けるのではないというのである。それでは、どうしたら神に義とされたり、救われたりするのかと言うと、信仰によってであると言うのである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28　新改訳)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これをもう少し分りやすく訳されている現代訳で見てみると、次のようになっている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「だから、私たちが救われるのは、律法を行なうことによるのではなく、キリストを信じることによるだけだというのが、私たちの主張しているところにほかならない。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;つまり、聖書の教えているところによると、私たちが救われて天国へ行くことができるのは、私たちが何か善行をすることではないというのである。それでは、何もしないことなのかと言うと、そうではなく、信仰によるのだというのである。なぜ何かをすることではなく、それと反対のものとして、そこに信仰が来るのかということが疑問となるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで教えている「何かをすることではなく信仰による」ということは、何もしないことだと考えると、分らなくなってしまう。むしろ、アクティブに何かをすることではなく、パッシブに受け身になることだというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神と私たち人間の関係は、創造主と被造物の関係である。これが最も基本的なことである。この両者の関係を、もう少し分りやすく説明すると、放送局とラジオの関係と思えばよく分るだろうと思う。放送局というのは、いつも一方的に電波を発信している。それに対して受信機であるラジオは、一方的にそれを受信するだけである。そのラジオがどんなに性能が良くても、放送局が発信しているものを聞こうと思えば、その電波に合わせなければ、放送局から発信しているものを聞くことができないのである。かりに1650キロヘルツの電波に乗せて、すばらしい音楽が放送されていても、それを聞こうとすれば、こちらの受信機であるラジオは、1650キロヘルツに合わせなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと同じで、神が創造主で、私たち人間が被造物であるなら、神の愛のメッセージを聞こうとすれば、神に対して「受け身」になることが必要なのであり、これが信仰というものなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この理屈が分らないがために、信仰も分らない人が多い。信仰とは、被造物である私たち人間が、創造主である神に対して受け身の姿勢を取ることにほかならない。これが分らなければ、いくら経っても神が分らないだろう。こちらが人間としてどんなに優秀であっても、神を知る方法はこれ以外にはないのである。受信機であるラジオがいかに性能が良いかどうかにかかわりなく、放送局から発信されている電波に合わせなければ、その放送局から発信されている放送を聞くことはできないのである。だから、神を知ろうとするのであれば、神は創造主であり、自分は被造物であることを認めなければならないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神が創造主であって、私たちは被造物であるということをなかなか認めたがらない人であっても、いくつかのことを考えたら、それを認めないわけにはいかなくなるはずだ。たとえば、自分の誕生について考えてみれば、それは分るはずだ。いくら主体性を持って生きるべきだと叫んでいる人でも、自分の誕生については、自分の意思のかかわりのないところで、それは決定されていた。それは、親の意思なのだろうか。そうとも言えない。親は生まれてくる子供の性別すら決定することはできないのである。今度は男の子が欲しいと思っているのに、また女の子であったという人がいる。そして、その逆の人もいる。人間の意思だけで、生まれてくる子供の性別を決定することはできないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、だれがそれを決めるのだろうか。創造主の神である。だから、どんな時代でも、男の子の生れて来る数と女の子の生れてくる数はほぼ同じである。こんなことは人間業ではありえない。丙午の年に生まれてくる女の子は、結婚してくれる男性があまりいないという迷信を多くの人が信じて、その年の子供の誕生は極めて少ないが、それでも、男女の比率はほぼ同じなのである。この不思議な出来事を偶然として片付けようとする人は、偏見で凝り固まった人だと言われても仕方がないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神は創造主であり、私たち人間は被造物であるというこの厳粛な事実の上に、キリスト教信仰のからくりがある。だから、このことをしっかりと認めておかないと、キリスト教信仰が分らないだけでなく、それに入ることもできなくなってしまう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1776595178041211845?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1776595178041211845'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1776595178041211845'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/10/blog-post_26.html' title='キリスト教信仰のからくり'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SQSDaYfiWnI/AAAAAAAAAWc/FyNvvLesRKk/s72-c/20080923403.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6714943706185815445</id><published>2008-10-19T23:42:00.004+09:00</published><updated>2009-02-09T02:14:19.318+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='信仰'/><title type='text'>信仰の分りにくさ</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPtJxnYZmCI/AAAAAAAAAWU/piy5pXhUvoY/s1600-h/20081012410.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPtJxnYZmCI/AAAAAAAAAWU/piy5pXhUvoY/s200/20081012410.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5258878106618927138" /&gt;&lt;/a&gt;この前、健康であるためには、ストレスをまともに受けないようにすることが大切だと言った時、嫌な事、耐えられないことが起ってきたら、主イエスのみもとに行って、その心の重荷を下すことだとも言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、「主イエスのみもとに行く」とか、そこで「心の重荷を下す」とは、具体的にどうすることなのかということについてお話したいと思う。これは、キリスト教信仰を持っている人々にとってはよく分ることなのだが、信仰を持っていない人にとっては、何のことなのか、さっぱり分らないだろうと思うからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主イエスは、神であられる方なのに、私たち罪に陥った人間を救うために、天から降りて来られ、私たちと同じ人間となってくださった。そして、地上生活をされた後、私たちの罪を身代りに背負って、十字架上でその罪の刑罰として、神の裁きを受けてくださった。それから三日目に死人の中から復活して、天に帰っていかれた。天と言うと、何かはるかかなたにあるように思うかもしれないが、次元が違うだけで、私たちのすぐそばにあると言ってもよい。その主イエスが、今私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのである。私たちがそのことを自覚するかどうかにかかわりなく、すぐそばにいて、私たちを助けようとしておられるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その主イエスが、「疲れている人や重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28）とおっしゃっておられるのである。だから、私たちのすぐそばにいて、私たちを助けようとして待ち構えてくださる主イエスに心を開いて、自分の思い煩いをありのままに申し上げればよいのである。ちょうど小さな子供が、自分よりも少し大きな子供に、理不尽なやり方でいじめられた時、母親のもとに行って訴えるのと同じである。難しいことをするのではなく、自分の心の中に今ある重荷、思い煩いをそのまま主イエスに申し上げるだけでよいのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことを一度でもやって、心の平安が与えられるという経験をしたら、このすばらしい体験を決して手離すことなどできなくなるに相違ない。それでもまだよく分らない人のために、もう一つの例を挙げて説明しようと思う。私たちは毎日呼吸をしている。ほとんど意識することなく、呼吸している。しかも、だれ一人としてそのために努力している人はいない。なぜなのかと言うと、私たちの周りには大気の圧力があって、必要な空気を体の中に入れようとしているのである。だから、呼吸器を開きさえすれば、空気は私たちの肺の中に入ってくるわけである。むしろ呼吸をとめようとする時でないと、努力する必要はない。これと同じで、主イエスは私たちを助けようとして、私たちのすぐ近くにいてくださるのだ。だから、主イエスに心を開きさえすれば、主イエスは助けてくださるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、次に問題になることは、主イエスは本当に信頼できるお方なのかということになるだろう。本当に信頼できるお方なら、そうできるけれども、はたしてどうなのかということが当然問題になることだと思う。だから、信仰における課題は、信仰する対象をよく知ることにあると言えると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の歌に表現されているように、日本人の場合、信じる対象を余り問題にしない。いわしの頭でも何でもよいのである。これで、はたして大丈夫なのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしも私たちが、なけなしのお金を預ける場合、金利の高いことだけに釣られて、お金を預けるだろうか。月一割の金利を払ってくれるというふれこみに釣られて、なけなしのお金二千万円を預け、一ヶ月目に行くと、その一割の二百万円の金利をくれた。二ヶ月目に行くと、また二百万円の金利をくれた。この分で行くと、一年も経たないうちに元は取れてしまい、元金と合せると、倍になってしまうと思い、三ヶ月目に行ってみると、もうそこはもぬけの殻、近所の人に聞いてみても、どこへ行ってしまったのか、だれも知らないと言う。そんな所へ、大切なお金を預ける人がいるだろうか。たとえ金利は低くても、安心できる金融機関に預けておくのではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、お金よりももっと大切な自分の命を、相手をろくすっぽ調べもしないで、そこに預けておくということほど愚かなことはあるまい。信仰において大切なことは、だれを信じるかである。信じて、本当に救ってくださるお方なのか、どうかである。つまり、信仰において重要なことは信仰する対象なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、主イエス・キリストというお方がどういうお方なのかということを調べる必要がある。アメリカの南北戦争の時の有名な将軍リュー・ワラスは、キリスト教を迷信であると独断的に思い込み、それを証明する意図で調べ尽し、ついに否定できぬ真実の前にひれ伏し、イエス・キリストを本当の救い主と信じた。その彼の信仰告白の作品こそ、あの「ベン・ハー」なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6714943706185815445?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6714943706185815445'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6714943706185815445'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/10/blog-post_19.html' title='信仰の分りにくさ'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPtJxnYZmCI/AAAAAAAAAWU/piy5pXhUvoY/s72-c/20081012410.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6889639259497961274</id><published>2008-10-11T23:33:00.005+09:00</published><updated>2009-02-09T02:22:50.404+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='病気と医療'/><title type='text'>病気について思うこと</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPC6WMM9voI/AAAAAAAAAQU/y2BycHGYP_w/s1600-h/081008_163504.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPC6WMM9voI/AAAAAAAAAQU/y2BycHGYP_w/s200/081008_163504.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5255905655536860802" /&gt;&lt;/a&gt;私は元来、体が弱く、よく病気をした。風邪をひいたり、おなかをこわしたりするのがしょっちゅうだった。そして節目には大病をわずらったものだった。小学校を卒業する時には、大腸カタルから虫垂炎になり、少し手遅れになったため、三週間も入院していた。この分では六年をもう一度やらなければならなくなるかもしれないと言われていたのに、回復が早く、留年しないでも済んだ経験がある。中学を卒業する時には、痔瘻になり、入院中に陸軍経理学校入学の通知を受け取り、約二ヶ月の入院生活を送らなければならなかった。大学を卒業する時には、肺浸潤になり、卒業式には出席できず、両親が代りに出席して、卒業証書をもらってきてくれたことがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように体が弱かったのに、時勢ということもあって、戦争が激しくなると、一兵卒として軍隊に行くよりも将校として軍務に服した方がよいという思いが強くなり、陸軍経理学校入学へ行った。そこでの厳しい訓練は、体の弱い私には、かなりきつかったが、そえれでもそれに耐えられ、なんとかみんなに付いていくことができた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、体力については、いつも引け目を感じていた。走ること以外は、すべてレベル以下であった。人並みの体力を持っていなかった私は、はたして二十歳まで生きられるかと思い悩んでいた。しかし、そんな私が今八十歳になり、なお現役で活動していられるのは、健康について無知であったところから目覚めたからであると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;健康についての無知は、体を害すること必然である。私はずいぶん長い間、健康について不安であるにもかかわらず、そのからくりを知ろうとはしなかった。病気になったら医者に行けばよいと考え、食べる物については、好きな物を食べ、何を食べたら体はどうなるかというようなことについては、とんと無知で、また知ろうとも思っていなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが五十代半ばのことであった。長男がアメリカの神学校を卒業して、その卒業式に出席し、帰国すると、私が責任を持っていた日本教会成長研修所のセッションが開かれ、責任の立場にある者として、そこに出席しなければならず、出席していた時、家から電話があって、父が倒れたというので、すぐ家に帰った。その二日後に父が召され、葬式を済ませると、その週の土曜日には娘の結婚式があり、それを済ませ、その翌日の礼拝をも済ませ、月曜日から始まる学生会の合宿に行こうとして靴を履こうとするのだが、足がむくんでいて、靴が履けない。家内が私の行くのをとめるので、ちょうど神学校を卒業して帰国したばかりの長男がいたので、学生会の合宿の方は長男に任せて、家内と一緒に医者に行った。すると、医者は心筋梗塞の一歩手前だと言うのだ。薬を飲み、安静にしていることを薦められた。その年の夏は湯治に行ったりしたのだが、いくら医者の出してくれる薬を飲んでも、一向に心電図がよくならないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうこうしているうちに、一人の婦人がわが家にやってきて、食事療法を薦めてくれた。われわれ夫婦はそういうことに無知であったので、三白の害とか、四白の害と言われても、それが何のことなのかさっぱり分らなかった。三白の害というのは、白米、白砂糖、化学調味料の害のことであり、四白の害というのは、それに食塩が加えられるのだ。なぜ食塩がいけないのかと言うと、99.6パーセント以上の塩化ナトリウムであり、科学薬剤にほかならないからなのである。こういうものを採っていたら、必ず病気になると言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、玄米、雑穀飯に、野菜中心の菜食主義がよいと言うのである。蛋白質は植物性蛋白質がよく、大豆製品として、豆腐、納豆、味噌、醤油など、それにごま、木の実やコーンなど。そのため、大好物であった肉類や甘い物はやめなければならなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;するとどうだろう。一ヶ月で9キロやせてしまった。医者は心臓のために、ゆっくり泳ぐことを薦めてくれていたのだが、千メートル泳ぐのに、二、三百メートル泳いでから一息入れないと、その後泳げなかったのに、休みなしに千メートル泳げるようになったのである。これには驚いた。家内も同じ食事を食べるようにしたら、重かった足が軽くなり、非常に高かった尿素窒素の数値が平常値になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから、わが家では玄米雑穀飯に菜食で、いたって健康である。健康を保持するために、良く眠ることや適度な運動も大切だが、食事は何よりも重要である。添加物はなるべく避け、有機農法で自然食を心掛けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと同時に、ストレスをまともに受けないように心掛けている。ストレスになりそうな事はしょっちゅう起ってくるが、嫌なこと、耐えられないことが起ってきたら、いつも主イエスのみもとに行って、その心の荷物を下すことにしている。だから、人からひどいことをされたり、腹立たしいことが起ってきたら、主イエスのみもとに行くのが一番である。主イエスは、こう言っておられるから。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「疲れている人や重荷を負っている人は、だれでも、わたしの所に来なさい。わたしは、あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6889639259497961274?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6889639259497961274'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6889639259497961274'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/10/blog-post_11.html' title='病気について思うこと'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SPC6WMM9voI/AAAAAAAAAQU/y2BycHGYP_w/s72-c/081008_163504.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5005498324734053817</id><published>2008-10-05T19:49:00.004+09:00</published><updated>2009-02-09T02:23:24.678+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='病気と医療'/><title type='text'>病気と医療をどう考える</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SOi8NT2q6mI/AAAAAAAAAQM/RxOAgdTw5HY/s1600-h/20080923405.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SOi8NT2q6mI/AAAAAAAAAQM/RxOAgdTw5HY/s200/20080923405.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5253655902181583458" /&gt;&lt;/a&gt;病気というものは、決して健全な状態であるとは言えないから、歓迎すべきものではないだろう。だから、治療をすることを考えなければならないはずだ。ところが、これについて、二つの極端な考え方がある。その一つは、医療行動などによって病気を治したりするのは不信仰であって、神に祈って治していただくべきだと言うのである。もう一つは、病気になったら医者に行って治してもらうべきで、心の病気は神に、そして肉体の病気は医者に行って治してもらうのだと言うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず第一の考え方について考えてみよう。このような考え方をする人々は、神癒と称して、祈りによる神の直接的癒しを強調する。しかし、このような人々の考え方の間違いは、医療の進歩、発達を神が許しておられるということを認めないところにある。医学というのは、自然科学の一分野だから、神癒ばかりを余りに強調すると、自然科学の発達を神は許してはおられないということになってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;けれども、このような人々も、医学以外の自然科学の他の分野については、その発達を神が許しておられることを実際に認めており、その自然科学の最新分野の恩恵に十分あずかっており、インターネットやパワー・ポイントを駆使しているのである。これは、殺生は嫌いだけれども、肉を食べることは大好きだというたぐいの矛盾であると言うことができる。一方においては、科学の発達の恩恵に存分に浴していながら、他方においては、それを否定しているのが、この立場の人々である。ただ誤解してほしくないのは、神が私たちの病気を癒してくださることを否定しているのではない。そして、今日、医療行為と同時に、祈りによる癒しがあることを私は体験している者である。ここで取り上げているのは、医療行為を全く否定し、神癒だけを主張する極端な立場についてのことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二のものは、二元論的な考え方をしているところに誤りがあると言ってよいだろう。心の病気は神によって治していただき、肉体の病気は医者によって治してもらうという考え方は、神を全能の神として認めてはいないことになりはしないだろうか。神は、人間の心も肉体も支配しておられるお方なのだから、このような考え方は、神を限定してしまうことになるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、私たちはどのように考えたらよいのだろうか。医学の発達を許しておられる神は、医療を用いることを決して不信仰とはお考えにならない。だから、私たちが医療を用いて治すために医者にかかることは間違いでもなければ、不信仰なことでもない。しかし、ここでよく覚えておかなければならないことは、医学や医療行為が人を治すのではないということである。つまり、医者が病気を治すのではない。神が医療行為を用いて病気を治してくださるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;医療行為が病気を治すのではないことは、多くの実験によって証明されている。同じ治療をしても、本人が治って自分の家へ帰りたいという強い願いを持っている人と、治っても帰る家がないので、治りたくないと思っている人とでは全然違う結果が出るのである。本人が治りたいという強い願いを持っていない場合には、たといそれほど病気の程度が悪くはなくても、治らずに死んでしまうことがあるそうだが、本人がどうしても治りたいという強い願いを持っている場合には、かなり病気が重くても治ってしまうことが多いということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは、普通、本人が治癒力を十分持っている場合というようにして説明されているけれども、それだけでは不十分だ。治癒力を与えるのは神であって、決して本人ではないからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、私たちは病気になって医者にかかる場合にも、決して医者が治すのだと思ってはいない。医者のできることは、医学の知識によって悪いところを取り除き、それ以上悪化しないようにすることと、本人の自然治癒力を増進させるために体力をつけたりすることだけである。治してくださるのは神なのである。だからと言って、医者などどうでもよいなどと思ってはならない。医者の働きは非常に重要だ。それだけに、医者は自分の分をわきまえ、それに全力を尽くすべきである。また、患者は医者を信頼し、神がその医者を用いて治してくださるように祈るわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうわけで、神は普通、医療を用いて癒してくださるが、医療を用いずに癒すこともおできになる。ことに今日の医学の研究ではどうにもならない分野においては、直接癒してくださるよう祈る以外にはない。そして神は不思議に癒してくださることがしばしばある。このようなことからも分るように、病気を治すのは医療行為なのではなく、神ご自身にほかならない。そして、すべての病気がいつでも治るとは限らない。神の御心でなければ、決して治ることはないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5005498324734053817?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5005498324734053817'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5005498324734053817'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/10/blog-post.html' title='病気と医療をどう考える'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SOi8NT2q6mI/AAAAAAAAAQM/RxOAgdTw5HY/s72-c/20080923405.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5379860302225829451</id><published>2008-09-28T21:50:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:23:06.335+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='病気と医療'/><title type='text'>病気と医療について</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SN-BVkKK1kI/AAAAAAAAAQE/3lhYmf_wdpk/s1600-h/20080923404.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SN-BVkKK1kI/AAAAAAAAAQE/3lhYmf_wdpk/s200/20080923404.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5251057898020853314" /&gt;&lt;/a&gt;病気や医療についてどう考えたらよいのだろうか。多くの宗教は、病気の癒しを看板にし、どこの医者に行っても治してもらえなかった人が、その宗教によって治ったと言っている。つまり、医者に見離された人を、信仰一つで治してあげるという宣伝をしている宗教がかなり目につくのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、私たちキリスト教の立場から見る時、病気や医療をどう考えたらよいのだろうか。私たちの健康をつかさどっておられるのは神であって、神は最初、人間を健康人としてお造りになったのである。その健康な人間がどうして病気になってしまったのかと言うと、それは人間が罪に陥ったからである。もちろん、これは具体的にこの罪を犯したからこの病気になったというのではなく、病気という異常現象が起ってくるのは、人類が罪に陥った結果だということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本人が不摂生をしたがために病気になるということもあるが、今日のように複合汚染の時代になると、食料品自体に、体を害する有害物質が付いていたり、入り込んだりしていて、それを食べているうちに、いつしか体を壊してしまったということもないわけではない。食品添加物や防腐剤や農薬など、体に悪い物が沢山あるし、食肉には抗生物質が含まれていることすらある。だから、規則正しい生活をし、別に暴飲暴食をしているわけではないのに、いつしか体を壊してしまうことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、病気になるのは、一概に本人の不注意とばかりは言いきれないが、それだけに今日では病気の原因を簡単に突き止めかねることが多いのだと言える。だから、簡単に因果関係を持ち出してきて説明することは、しばしば偏見や独断であることがあって、かなり無理なことなのである。しかしながら、病気は決して健全な姿ではないから、決して喜ばしいことであるとは言えない。それは、罪の結果、人類の世界に入ってきたことからも分ると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;病気になった場合、ともすると「バチが当った」と考える人々がいるけれども、それは決して正しい考え方であるとは言えない。罪を犯したがために病気になることもあるが、すべての病気が何かある特定の罪の直接の結果であると言うことはできない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書では、個々の具体的な病気の直接の原因については何も教えていない。そのようなことは、私たちに必要がないことだからである。たとえば、もしもその人が生れてすぐ大病にかかり、高熱のために体の一部に故障が起ったとしよう。そしてその大病が、もしも親の不手際から起ったとして、そのことを知ったからといって、そこに解決があるだろうか。おそらく、その子供は親を恨むだけではないだろうか。だから、生れながらの盲人がいた時、主イエスの弟子たちが主イエスにその原因について質問した時、主イエスはその原因については答えることを避け、むしろ主イエスは過去ではなく将来に目を向けるようにされ、それが神の恵みの御業の現れる契機となることを教えておられる。それについて、聖書は次のように記している。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「イエスが道を歩いておられると、生まれつきの盲人がいた。弟子たちは、この盲人を見て、イエスに尋ねて言った。『先生。この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためでしょうか。本人でしょうか。それとも、両親でしょうか。』イエスは答えられた。『本人でも両親でもありません。だれが罪を犯したのかなどと聞いて、そこに解決があるでしょうか。この盲人が生れつき盲目であったことも神様の御心に無かったことではありません。神様はこの盲人の身の上に御業をなさろうとしておられるのです。』」(ヨハネ9:1-3)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;私たちの体は、神のご支配のもとにあるから、病気もまたそこに神の深い御心があることを知らなければならないと思う。それを、ただ単に呪いとか宿命とか考えるのは、異教的な考え方である。もしも神からの警告であるとすれば、素直にそのことを認め、不摂生や、その原因を取り除けることが必要だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;病気をする時、私たちはそれまでの生活にストップがかけられることになる。今までと同じ生活をしていくことはできない。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「順境の時には、それを楽しみ、逆境の時には、よく考えてみよ。」(伝道者7:14)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;神は私たちに内省の時を与えられる。忙しかった時には考えようともしなかった人生の目的とか意義について考える機会ともなることだろう。「一体、自分は何のために生きているのか」ということについては、健康な時、仕事や勉学に励んでいる時には、考える余裕すらないだろうと思う。しかし、病気になり、仕事や勉学から離れると、考えざるをえなくなるはずだ。人生においては、仕事や勉学以上に、人生そのものの方がはるかに大切であるということが、分ってくる。病気とは、実にそのようなことを考える時なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5379860302225829451?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5379860302225829451'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5379860302225829451'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/09/blog-post_28.html' title='病気と医療について'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SN-BVkKK1kI/AAAAAAAAAQE/3lhYmf_wdpk/s72-c/20080923404.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5029715179166416118</id><published>2008-09-21T18:49:00.004+09:00</published><updated>2009-02-09T02:18:24.183+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>教育は自分が変ることから</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SNZG4keokwI/AAAAAAAAAP8/Nx5eK09ET6I/s1600-h/080921_101230.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SNZG4keokwI/AAAAAAAAAP8/Nx5eK09ET6I/s200/080921_101230.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5248460353425675010" /&gt;&lt;/a&gt;親が子供を育てる時、数多くの失敗をしてしまう。親となった人でなくとも、一人前の人なら分ると思うが、ずいぶん多くの傷を親から受けてきているということである。心の中に、いまだに癒えぬ傷を持っている人が、どれだけ多くいることか。私は牧師として多くの人に接してきて、そのことをつくづく感じる。必ずしも崩壊した家庭でなくとも、親から受けた心の傷に悩んでいる人が数多くいる。それは、よく考えてみると、親にも同情すべき点がないわけではないのに、子供はそこまで考えが及ばないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある青年は、父親を激しく憎んでいた。彼によると、父親からはぶんなぐられた記憶しか残っていないそうだ。父親のことを思うと、恐ろしさと憎しみで、体がブルブルふるえると言うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、私はその人に聞いてみた。「君のお父さんの生い立ちについて、知っていることがあったら話してください。」すると、その人の父親は、幼くして両親と死に別れ、叔父さん一家の手で育てられたというのである。その叔父さん一家にひどくいじめられ、いつかこの仕返しをしてやろうという思いで生きてきたと言うのである。彼が兵隊として戦地に行っている間に、叔父さん一家は、空襲で死んでしまい、彼が復員して帰って来た時には、叔父さん一家は一人もおらず、彼もそんなことは忘れて、仕事をし、結婚したそうである。しかし、酒を飲むと、叔父さん一家のことを口ぎたなくののしり、「今生きていたら、ぶっ殺してやる」と言うのだ。そして少しでもそれに逆らったりすると暴力を振う。こうして私の所に来た青年は父親を激しく憎んでいると言っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼から父親の話を聞いた時、私は彼にこう言ってやった。「君のお父さんも被害者だったんですね。そのことを理解してあげることが大切ですよ。」彼は、「えっ、おやじが被害者なんて信じられないですよ。被害者は僕なんですから」と言うのだ。「君が被害者だっていうことはよく分る。しかし、君のお父さんがなんで君に暴力を振ったのかと言うと、被害者だったからなんで、そのことをよく理解してあげる必要がある。被害者は被害者を生むんだっていうことをもね。」私がそう言うと、彼はしばし無言のまま、「分りました」と小声で言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんな人にも、それをする理由があるのだ。だから、ひねくれた子供を作りたくなければ、小さな子供も一個の人格を持った存在なのだということを知る必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よくこういう図を見かけることがある。母親が夕食の仕度をしている時、小さな女の子が母親のところに来て、「お母ちゃん、来て、見て」と言って、母親を呼ぶのである。その時、母親はどのようにその女の子に対するだろうか。「お母ちゃんが今何をしているか分ってるの。忙しいんだから、向うへ行っていなさい」と言う母親が多いのではないだろうか。その時、その子はどう考えるだろうか。「お母ちゃんはあたしのことなんかどうでもいいんだわ。」こうしてその女の子の心には深い傷が残っていくのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その時、賢い母親はどうするだろうか。「ちょっと待っててね。お母ちゃんは今、天ぷらをあげているから、それが終ったら行ってあげるからね」と言うにちがいない。子供はその一言で満足するのである。というのは、母親は自分のことを認めてくれていると分るからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、前の母親のような行動を取る人の場合、どう考えているのかと言うと、子供のことなんか、自分が今やっていることと比べたら、比べものにならないほどの価値のないことだと考えている。しかし、子供にとっては、それは大切なことなのである。そのことを認めてやるかどうかは人格形成において重大なことなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしかしたら、早く夕食の仕度をしておかないと、いつもより早く夫が帰って来た時、夫に怒られたら大変だという思いがあって、子供の要求を拒んでも、自分のことをやり終えたいという極めて利己主義的な考え方があったのではないだろうか。だから、教育とは子供の生き方をあれこれ考えたり、提示したりすることなのではなく、自分がどういう生き方をしたら良いのかということに帰着すると言ってもよいのではないだろうか。つまり、人を教育しようと思えば、まず自分が変ることが先決で、今まで通りのエゴイズム丸出しの生き方から、ほかの人のことを心から考える愛の人に変ることから始めなければならないのではないかと思えてならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供であろうとだれであろうと、その人を立派な人にしたいなら、まず自分が変ることである。自分がいいかげんな生き方をしていて、子供だけ立派な人になるわけがないだろう。親が率先し、自ら模範を示すこと、これが教育の第一歩ではないだろうか。親が変れば子供も変る。親が変らないで子供だけを変えようとしても、それはどだい無理な話なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5029715179166416118?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5029715179166416118'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5029715179166416118'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/09/blog-post_21.html' title='教育は自分が変ることから'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SNZG4keokwI/AAAAAAAAAP8/Nx5eK09ET6I/s72-c/080921_101230.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6709427334199335821</id><published>2008-09-14T22:11:00.005+09:00</published><updated>2009-02-09T02:18:02.893+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>教育について思うこと</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SM0S97-LCiI/AAAAAAAAAP0/LrBs1sofCk8/s1600-h/morizou.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SM0S97-LCiI/AAAAAAAAAP0/LrBs1sofCk8/s200/morizou.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5245869996236278306" /&gt;&lt;/a&gt;前回、思春期の子供の教育を考える場合、スポーツをさせることを薦めたが、ことに男の子の場合、これは必要なことだと思う。そのように言うと、そんなことをしていたら、入試戦線から落後してしまうのではないかと心配する人がいるかもしれない。そのように考える人は、教育について間違った考え方をしていることを暴露していることになる。教育とは、人格形成なのだということをしっかり覚えておいてほしい。人格形成は、普通、文化的遺産の継承を媒介として、人格と人格との触れ合いによってなされていくものなのである。文化的遺産と言うと、何か難しいことを想像するかもしれないが、私たちの先輩たちが私たちに残していってくれたものである。学校では、それを国語とか数学とか社会とか理科などといった科目として教え、学んでいく。しかし、このような科目を習得させることが教育の本質なのではなく、それを媒介とした、教師と生徒、生徒同士の人格の触れ合いによって人格形成を行うところに教育というものがあるのだということが大切なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、教育というのは、何も倫理とか道徳といった科目を学ぶことによって出来るのではい。数学であろうと、英語であろうと、体育であろうと、それは問うところではない。それを教える教師の人格との触れ合いが大切なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことは、親子の場合でも同じである。しばしば教育について間違った考え方を持っている人がいる。それは、教育をする親は、自分が完成者であって、子供は未完成者であると思っていることである。教育において、これほど大きな間違いはなく、親も子も、どちらも未完成者なのである。どちらも人格形成への道を求めつつある途上の、いわば求道者同士なのである。そこには、共通の「弱さ」があるはずだ。しかしまた同時に、道を求める「厳しさ」があって、そこにおいては、親が一歩なり半歩なり「先んじていなければならない」。そのことがなければ、決して教育は成り立たないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、子供の教育について考えようとする時、ずいぶん間違った考え方を持っている親がいることを知って驚かされることがある。子供を自分の理想の鋳型に入れようと考えたり、自分の見はてなかった夢を子供に託して、強制したりするのだが、これは大抵教育ママと相場が決っている。また、世間体を第一にして、他の人にどう見られるかという人の目ばかりを気にしている人が、案外多いのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、親の権威を笠に着たり、ごまかしたり、むら気であったり、えこひいきをしたりする親も少なくない。同じ自分の子供なのに、素直であったり、成績が良かったり、女の子の場合には、顔がかわいかったりする子供を特別にかわいがる親がいる。それがどういう結果をもたらすかは、火を見るよりも明らかである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;よく一家の物差しが父親である場合がある。父親の言うことは絶対であって、言う言葉はいつも一方通行である。父親は、母親に対しても子供に対しても「ごめんなさい」とも「ありがとう」とも言わず、言うのは、いつも子供の方から父親や母親へ、また母親から父親へ（妻から夫へ）という一方通行なのである。こういう家庭は、あとでバラバラになってしまう。しかし、クリスチャンの家庭は、そうではない。一家の本当の主人は、父親でも母親でもなく、主イエス・キリストなのだから、聖書の御言葉に照らして間違っていれば、それが父親であろうが、母親であろうが、ほかの人々に謝る。こういう家庭は、いつも円満で美しい家庭になることは間違いない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一家においては、親の価値観が子供の価値観を決めるから、親が正しい価値観を持つことは極めて重要になってくる。能力や頭の良さや、社会的地位や、身分や、お金の有無ではなく、人間として最も重要な価値は「愛」ということでなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが、このように子供の教育について深い関心を持つのは、どうしてなのだろうか。それは、子供が自分のものではなく、神から預かっているものであるというところにある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わが国では親子心中ということが行われる。それは、幼い子供たちだけを後に残していくことへの心細さであることはよく分る。しかし、子供は自分のものという考え方がそこになければ、そんなことは起らなかったと思う。子供は親のものではない。神からの預かりものである。最後の日に、私たちは皆、自分の子供をどのように育てたかということについて、神に報告する責任がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子供にとって良い親というのは、子供が安心していられる親だ。どんなことも、その良い動機を理解し、受け止めてくれる親、たとい失敗しても、それを許してくれる親だ。そうなれるためには、自分で自分を制することの出来ない自分が、まず神によって変えられなければならないのだと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6709427334199335821?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6709427334199335821'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6709427334199335821'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/09/blog-post_14.html' title='教育について思うこと'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SM0S97-LCiI/AAAAAAAAAP0/LrBs1sofCk8/s72-c/morizou.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1659453854944826478</id><published>2008-09-07T22:16:00.007+09:00</published><updated>2009-02-09T02:17:41.781+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>教育とは何か</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SMPX--D6w6I/AAAAAAAAAPs/2ipM7d-y5I8/s1600-h/20080802376.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SMPX--D6w6I/AAAAAAAAAPs/2ipM7d-y5I8/s200/20080802376.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5243271868000682914" /&gt;&lt;/a&gt;人間の中心は、何と言っても人格なのだから、教育とは人格形成ということにほかならないだろう。ところで、人間の人格は、知性と情操と意思という三つの面を持っているから、これらのものの健全な形成ということになる。つまり、知性だけに偏った教育は、実は教育とは言えないということになる。これら三つのバランスをもった教育が重要なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、一人の人が人格を形成していく場合、どういうものによってかということを考えてみると、私は三つのものを挙げることができるように思う。第一は遺伝である。だれでも生れながらにして持っている性格というものがある。生まれた子供は、顔形だけでなく、性格までも親に似ていることがよくあるが、それは遺伝なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、遺伝だけですべてが決ってしまうわけではない。第二の要素としては、その子が育っていく生活環境が影響を及ぼすのである。有名な「孟母三遷の教え」は、孟子のお母さんが、子供の孟子の教育のことを考え、三回引越しをしたという話なのだが、生活環境は人格形成に大きな影響を与えることは確かである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この二つの要素以外に、本人の反応というものがある。これは、いろいろな事態に対して取る本人の態度と言ってもよい。乳幼児の場合には、はっきりとした反応を示すことはできないが、少年期に入っていくと、自覚的態度を取っていく。この反応を好ましいものにするのが、実は教育の働きであって、教育の課題と可能性の問題がここに残されていると言ってよいだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば、大酒飲みの父親と、その父親をいつもののしってばかりいる母親との間に育った子供が、いつも悪人になるとは限らないという例がいくらもある。そこには、その子供に良い影響を与えた親戚のおじさん、おばさん、あるいは近所のお兄さん、お姉さん、学校の先生などがいたのだ。そういう人の好ましい影響が、あまり好ましくない環境にもかかわらず、良い反応をもたらしたのだと言ってよいだろう。汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を、神は咲かせることがおできになるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この人格形成を教育の中心と考えるとしたら、人格形成には、重要な時期があるということを知らなければならないと思う。まずそれは、生まれて最初の四年間である。その間には、離乳期とかエディプス期と呼ばれる時期がある。離乳期にきっぱり離乳させないと、決断力の弱い性格が出来上がってしまう。エディプス期というのは、父親と母親と赤ん坊の三角関係の時期のことである。赤ん坊は、生まれるとそのまま母親との固い絆で結ばれていて、そこには一体感がある。ところで、そこへもう一人の人物、つまり父親が現われてくると、母親は自分を愛してくれており、また父親のことも愛しているらしい。そして父親も、自分と同時に母親も愛しているらしいという感じを、赤ん坊ながら抱くのだ。この三角関係を乗り越えていくためには力が必要で、その力は母親との間に堅く結ばれた絆なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、もしも母親との間がこの堅い絆で結ばれていない場合には、このエディプス期を乗り越えることができず、いつまで経っても不安定な性格、人を信頼することのできない性格になってしまうことが多いのだ。情緒不安定などもこの部類に入る。そのことを考えると、赤ん坊が生まれてからの四年間は、母親は人任せにせず、自分が自分の子供を育てることが、どんなに大きな良い影響を与えるかが分ると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう一つの重要な時期は、思春期である。これは、大体、中学生、高校生、大学生のころである。このころ一番重要視しなければならないことは、はちきれんばかりのエネルギーを建設的な方面に向けてやることである。その点、スポーツなどは良いと思う。陸上競技のように一人でするスポーツでも構わないが、何と言ってもチームでするスポーツの方が良いと思う。エネルギーを建設的な方面に向けることだけを考えれば、どんなスポーツでも同じだが、友情を養い、連帯責任を自覚させるためには、チームでプレイをするスポーツに勝るものはない。たとい自分がうまくやっても、ほかの人が失敗すれば、自分たちのチームは負けてしまうのだ。将来、社会人になってこの連帯責任の理屈が分らず、社会の落後者になっていく人が少なからずいることを知る時、このようなスポーツを通してそれを身につけていくことは賢いことだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;水蒸気がものすごい力を持っていることはだれでもよく知っていると思うが、それを建設的な方面に向ければ、蒸気機関車となって十何両もの車両を動かすことができるが、そうでない時は、破壊的な力となることもある。ちょうどそれと同じで、思春期の子供たちは、エネルギーが余っている。これを勉強だけに向けようとしても、なかなかうまくいかない。うっかりすると、ノイローゼになったり、自殺したりすることもないとは言えない。そのエネルギーをスポーツに向ければ、最も健全に活用できるのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1659453854944826478?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1659453854944826478'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1659453854944826478'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/09/blog-post.html' title='教育とは何か'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SMPX--D6w6I/AAAAAAAAAPs/2ipM7d-y5I8/s72-c/20080802376.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-832833977418275100</id><published>2008-08-31T21:26:00.007+09:00</published><updated>2009-02-09T02:17:23.767+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='教育'/><title type='text'>子供の教育</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLqRaXWwk3I/AAAAAAAAAPk/AbP0kPbmV3Y/s1600-h/20080810386.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLqRaXWwk3I/AAAAAAAAAPk/AbP0kPbmV3Y/s200/20080810386.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5240660998531093362" /&gt;&lt;/a&gt;わが国では、子供の教育については、一般的に言ってとても熱心だ。しかし、その熱心さがどうも少しピント外れになっているのではないかと思われないでもない。というのは、教育に熱心な人を見ると、子供の学校の成績や上級学校への入学試験のことに熱中しているからである。けれども、こういうことを教育だと考えている人がいたとしても、はたしてこれが本当に教育なのかどうかということを考えてみなければならないだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わが国で行われている教育は、どうやら知的偏重の嫌いがないわけではない。子供の学校の成績とか入学試験用の勉強について考えてみても、そのように言ってよいのではないかと思う。しかし、さらによく考えてみると、知的偏重の教育でもなさそうだ。知的偏重なら知的偏重で、欠けている徳育とか体育に力を入れれば良いわけだが、わが国における教育は入学試験用の教育で、これ一点張りと言っても言いすぎではない。入学試験用の勉強というのは確かに知育に偏ってはいるけれども、知育全般にわたる教育ではなく、入学試験用の、いわばテクニック修得の勉強にすぎないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;入学試験が選抜試験である限り、だれにも出来る問題を出すわけにもいかず、つまらないところで間違いを犯しやすい問題を出し、受験生に差をつけなければならないことになる。しかも、短時間の間に公正な採点をしようとすれば、おのずと○×式の問題にならざるをえないだろう。そうすれば、叙述式の小論文などとは違い、思想内容が問題にされるのではなく、暗記テストにならざるをえないわけである。いかに迅速に、いかに正確に暗記しているかということが問われることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、私たちが生活をしていく時、真に重要なものは、暗記力よりも、推理力であり、また判断力である。けれども、今の入試用の勉強では、この重要な推理力や判断力はほとんど無視され、暗記力だけが問われることになる。このような勉強をしていればいるほど、偏った考え方をするようになっていってしまうのは当然のことである。だから、入試用の勉強にうつつを抜かしていれば、将来使いものにならない人間が出来上がってしまうのだ。そのことを考えると、私たちは教育というものを、もっと根本から考え直してみなければならないのではないかと思わざるをえない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、教育というものは、一部の教育専門家である教育者だけに任せておけばよいものなのだろうか。世の中には、そのように考えている人もいないわけではない。けれども、次の世代はどうなっても構わないと考えている無責任な人は別として、次の世代について真剣に考えようとする人であれば、それは、すべての成人した人の責任であることは間違いないことであると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、わが国では、自分の子供の教育について無関心でいられる人が必ずしも多くはないという現実を考えてみると、教育というものは、一体だれがすべきものなのか、だれの責任なのかということを考えてみなければならないと思う。子供の教育は親がするべきものだと考える人もいる。このごろの教師には任せておけないと考えるのだろう。そこで、ホーム・スクーリングに取り組む人も出て来ている。ところが、今の日本でホーム・スクーリングをするということは容易なことではない。一般的に認知されていないため、いくら家庭で高校ぐらいまでやっても、アメリカなどの大学にしか入ることが出来ない現実があるので、英語中心の勉強しかしないことになってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、ホーム・スクーリングが悪いとは思わない。しかし、親だけで子供の教育は出来るものなのだろうかと考えてしまう。そうかといって、学校の先生だけで出来るものでないこともまた事実である。多くの親は、先生に教育を任せてしまって、何の協力もせず、ただ批判だけはする。しかも、その批判たるや、自分の思い通りの教育をしてくれないと言う批判である。それに、その思い通りの教育とは、自分の願っている良い学校に入ることだけを願うものにほかならない。極めて利己的な姿勢ではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教育というものが、一人の人間を作ることであるとすれば、第一義的には親の責任であることは当然のことだと思う。しかし、親だけで出来るものではない。学校の先生の協力が必要である。子供が時間を過ごす場所を考えてみると、学校でよりも家庭の方がはるかに多い。その家庭で、親が子供の人格形成に無関心であったら、一体どこで教育がなされるのだろうか。学校でも、はたして先生が教育とは何かということを考えて、子供を教育しているのだろうか。良い学校に一人でも多くの子供を入れるための単なる知識伝授をし、一方で落ちこぼれを作っていっていたとしたら、はたしてそれは教育と言うことが出来るだろうか。教育とはただ単に成績の良い子供を作ることではなく、一人一人の人格形成でなければならないのではないだろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-832833977418275100?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/832833977418275100'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/832833977418275100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/08/blog-post_31.html' title='子供の教育'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLqRaXWwk3I/AAAAAAAAAPk/AbP0kPbmV3Y/s72-c/20080810386.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-9043515774034579446</id><published>2008-08-24T21:28:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:13:07.276+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間関係'/><title type='text'>仕事とつき合い</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLFYLowLwnI/AAAAAAAAAPc/kN7eWQifPTs/s1600-h/080823_121237_rot.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLFYLowLwnI/AAAAAAAAAPc/kN7eWQifPTs/s200/080823_121237_rot.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5238064798549918322" /&gt;&lt;/a&gt;職業というものは、ただ私たちが自分の生活の資を得るためのものと考えるべきではない。それを通して神の御業に参与するのであり、まただれかほかの人の役に立っているということを知らなければならないのだということを考えてきた。そして、自分が勝手にその職業を選んだのではなく、神が自分をその働きに召してくださっているのだということも考えてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことになると、神が私たちをその職場に遣わしておられるのだということにもなるだろう。私たちがその同じ職場にいる人にあかしをしなければ、生涯主を知らずにいる人がいることも知る必要があると思う。その人に対して主をあかしする責任は自分にあるのだ。その使命を忘れて、過ぎ行くこの世のことに夢中になってしまったとしたら、本末転倒と言わなければならないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕事の上でのつき合いは、仕事がうまくいくためだけだと考えるべきではない。むしろ、もっと深い人間と人間とのつき合いであることを考えていくべきである。それは、その人の人生を祝福し、その人に幸福をもたらすためなのである。そのことを考えないで、ただひたすら自分の仕事がうまくいくことだけを考えて、自分に利益のある人だけとつき合っていくというのでは、余りにも利己的なつき合いであるとは言えないだろうか。職場における人間関係も、同様に考え、ただ目先のことだけに捕われず、もっと高い見地から考えていくべきではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じ仕事仲間、職場の友人と仲良くすることは良いことだが、単なる表面的なつき合いで終始したり、遊び友達程度のものであるとしたら、余りにも無駄をしているのではないかと思えてならない。時間という点からしても、限られた自分の精力という点からしても、無駄遣いをしているように思われる。このようなことを、はたしてどれだけの人が真剣に考えて、友達づき合いをしているだろうか。友達を作ることは良いことなのだが、一体心の友なのか、仕事上だけの友なのか、それとも友という名の利用価値にすぎないのか、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世の中において、人間関係は非常に重要だ。この重要な人間関係を決してテクニックなどで出来ると考えてはならない。心と心の深いところでつながり合う交わりであるべきだ。そういう友を作るためには、私たちがどういう心掛けで友達づき合いをするかによる。相手を自分の仕事上で利用価値がある人ぐらいにしか見ない場合には、結局のところ、心と心の触れ合う交わりにまでは要らないだろう。私たちが一生涯、広く浅く適当につき合っていればよいと考えているのであればまた別だが、もしも心と心の通い合う交わりにまで至る友を作ろうと考えるのであれば、あらゆる機会にテクニックではなく、誠実なつき合いをすることが必要だろう。つまり、相手のことを真剣に考えてあげることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕事とつき合いは、どの程度に考えたらよいかという質問を受けることがしばしばある。その答えは、人間関係というものをどう考えているかというところに帰着するわけで、そこのところをよく考えてみることが大切だと思う。そうすれば、一時的なつき合いとしてではなく、生涯にわたるつき合いとして考えることが出来るだろうし、私たちが心の友を得る機会は、あらゆるところにころがっているとも言えるわけである。こちらが誠実に接することをしないで、相手にだけ誠実を期待し、要求することは、どだい無理なことだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕事が終わった後、一緒に何かを見に行くとか、一緒に何かをするとか、あるいは一緒に旅行に行くとか、一緒に遊ぶといった程度のつき合いではなく、もっと深い人間関係を作り出していくことを私はお勧めしたいと思う。そして、そういう人間関係の中から、必ずキリストを仲立ちとした人間関係が生まれてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、この世のこと、仕事のこと、趣味のことなどだけでつながっている友ではなく、永遠に至る友が出来てくる必要がある。そういう友達関係は、私たちが誠実に生きるところから始まるはずだ。私たちは、クリスチャンとして何が一番重要なことなのかということを知っているわけだから、それを友達づき合いの中においても、ごまかしたりしないで、第一としていくべきである。そうした中から生まれていく友情こそ本物で、永遠に続くものであると思う。小さなことの中においても、よく物事を考え、意味のある行動をしていくのがクリスチャンであるとするならば、このように考え、行動するのは、当然のことではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、あなたは本当の心の友を持っておられるだろうか。何でも話すことのできる友、相手が困っている時には、心底から愛を持って助けてあげることのできる友を持っていないとしたら、あなたの生き方のどこかに問題があるということを知ってほしいと思う。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-9043515774034579446?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/9043515774034579446'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/9043515774034579446'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/08/blog-post_24.html' title='仕事とつき合い'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SLFYLowLwnI/AAAAAAAAAPc/kN7eWQifPTs/s72-c/080823_121237_rot.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1252897511597087388</id><published>2008-08-17T22:12:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:20:17.205+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='仕事'/><title type='text'>職業について</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SKgnXaBPgGI/AAAAAAAAAO8/ejZ4lFL5_dA/s1600-h/himawari.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SKgnXaBPgGI/AAAAAAAAAO8/ejZ4lFL5_dA/s200/himawari.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5235477849893208162" /&gt;&lt;/a&gt;職業選択を簡単にやってのける人がいる反面、将来の仕事について思い悩んでいる人も少なくない。私は元々数学が好きで、その上家の設計に興味を持っていたので、建築家を目指して、大学の建築科に入ったのである。ところが、大学へ入り、その年の終りにクリスチャンになり、しばらくすると、牧師になることが私の使命であることがはっきりしてきて、それまで専攻していた理工学部の建築科をやめ、文学部の西洋史専攻に変えることにした。私にとって最も苦手の、しゃべることと書くことを専門とする牧師への道は、確かに新しい分野への挑戦だった。語学や、暗記物と考えていた歴史が苦手の私が、進路を変えて、新約聖書の原語であるギリシャ語や、旧約聖書の原語であるヒブル語をやるようになった。やってみると結構面白く、使命が先行すれば、結構やれるものなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、多くの人々に勧めたいのだが、大企業とか将来性のある職場を選ぶことも決して悪いことではないけれども、そこだけが仕事場ではないということである。むしろ、そうした安定した仕事場だけではなく、主が必要としておられる分野への進出ということが求められているのだということも覚えてほしいと思う。主が必要としておられる所なら、どこへでもいくというパイオニヤ精神が重要なのである。私はそういう人生を生きてきて、本当に充実した人生であったことを感謝している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンだけの職場も結構だ。積極的にクリスチャンとして新しい事業をしていくことは良いことだ。私もゼロからのスタートで開拓伝道をしたから、そのことが分る。しかし、クリスチャンだけの職場を求める心の中に、わずかでもその方が楽だと言う安易さがあるならば、それは大いに問題だと思う。そういう人がいくら集まった所で、何も出来ないだろうし、かえって主をあかし出来ない職場になってしまうだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある人々は、クリスチャンになると、仕事の上でうそが言えなくなるから、クリスチャンになりたくないと言う。確かにクリスチャンはうそを言わない。正直である。それでは、うそを言わなければ仕事はうまくできないのかと言うと、それは間違いだ。仕事は、うそを言うことによってうまくいくのではない。むしろ、そういううそは、いつかはばれてしまうもので、けっして長続きするものではない。正直にやる方がはるかに得策なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仕事がうまくいくかどうかは、うそを言ってごまかすところにあるのではなく、真に相手の立場に立ってものを考え、相手が得をしつつ、自分も得をするというやり方でなければ、けっして成功するものではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ごまかすことに頭を使うべきではなく、人々が必要とし、求めているものは何なのかということを考えて、ものを作り、売り、他の人に喜んでもらうことのために頭を使うべきなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たばこや酒を飲むかどうかというところに、人とのつき合いの大事な点があるのではなく、人間としての誠実なつき合いこそ重要であり、お互いに信頼し合える関係を作ることが大切なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、クリスチャンのつき合いの場合、それはけじめのあるつき合いであるべきで、何でも相手のペースに巻き込まれてしまうようなつき合いであるべきではない。出来ることと、出来ないことをはっきり区別し、人間同士としてのつき合いをするべきである。酒が入らなければつき合えないというのは、人間としてのつき合いのどこかにごまかしがあるのであって、人間同士としてのつき合いを作り出していかなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日、職業観が極めてあいまいになっているような気がしてならない。聖書からもう一度、正しい職業観を教えられる必要があるだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書の中には「召し」という言葉が二種類の意味で使われている。一つは「職業」を指し、もう一つは「救い」を指している。前者については、次の御言葉がそれを示している。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「使徒として召されたパウロ。」(ローマ1:1)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これは、使徒という働きに召されたという意味である。後者については、次の御言葉がそれを示している。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「神の賜物と召しは変ることがない。」(ローマ11:29)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これは救いへの召しである。この「召し」ということは、私たち人間の業によってそれがなされたのではなく、神が私たちをそこへ召してくださったという意味である。だから、職業は召しと言われるのだ。それはラテン語でも、ドイツ語でも、英語でも、フランス語でもそうである。英語やフランス語やラテン語ではvocationと言い、ドイツ語ではBerufと言う。つまり、ここで大切なことは、その仕事を私たちが選んだ場合でも、究極的には神が私たちをその仕事に召してくださったのだと言うことを自覚する必要があるのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1252897511597087388?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1252897511597087388'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1252897511597087388'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/08/blog-post_17.html' title='職業について'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SKgnXaBPgGI/AAAAAAAAAO8/ejZ4lFL5_dA/s72-c/himawari.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6065517192283462850</id><published>2008-08-10T23:39:00.005+09:00</published><updated>2009-02-09T02:16:12.724+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='仕事'/><title type='text'>働くこと</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SJ8BIz0uw1I/AAAAAAAAAO0/-HWdsPyKnZI/s1600-h/tomato.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SJ8BIz0uw1I/AAAAAAAAAO0/-HWdsPyKnZI/s200/tomato.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5232902542889763666" /&gt;&lt;/a&gt;今日、働くことに喜びを感じなくなってしまった人が沢山いる。それは、働くことの意味や目的が分らなくなってしまったからだと思う。ある人々はこう考えている。遊ぶためにはお金がいる。だから、お金を得るために働くのだと。こういう人々は、主として独身者だろうが、遊ぶことが人生の目的ぐらいに考えているのだ。しかし、人生の目的は決して遊ぶことにあるのではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たち人間は働く者として神によって造られた者たちである。だから、よほど疲れているか、体の具合が悪い人でない限り、横になって寝ていることはできない。疲れが取れ、病気が治れば、布団の中に入っていることが苦痛になってくるはずだ。働く者として造られた人間は、働かないではいられないのだ。ただ何のために働くのかという、働くことの意味や目的が分らなくなったために、働くことに苦痛を感じるようになってきた。働くことの意味や目的が分らなくなってしまったのは、人類が罪に陥ったからなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、私たちが働くという場合、それにはどういう意味や目的があるのだろうか。それは、自分で考えても出て来るものではない。神が私たち人間をお造りになったという原点に帰って考えてみなければ分るものではない。それでは、それは何なのか。一つは、神の御業への参与である。神は天地万物をお造りになった後、すべての被造物を動かしておられる。この神の御業は、創造以来ずっと続いてきており、私たちはその御業に参与させていただき、この宇宙の完成に向っての働きの一端にあずからせていただくのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう少し身近に考えてみると、私たちは働くことによって、誰かの役に立っているということを知らなければならない。たとえば、衣食住のことについて考えてみよう。もしもそれを全部自分でやるとしたら、大変なことだ。食べるご飯一つとってみても、それを苗代から始めて、田植、草取り、そしてようやく刈入れをし、脱穀をしても、それはまだ玄米である。たとい精白をしても、それだけではご飯しかない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;味噌汁が欲しければ、大豆を蒔き、収穫してから味噌を作らなければならない。けれども、それだけなら具のない味噌汁だ。あさりの味噌汁が飲みたければ、海へ行ってあさりを取って来なければならないし、わかめの味噌汁が飲みたければ、海の中のわかめを取って来なければならない。卵が欲しければ、鶏を飼わなければならないし、牛乳が飲みたければ、乳牛を飼わなければならない。鮪の刺身が食べたければ、大きな船に乗って、鮪を釣って来なければならないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;着る物についてはどうだろうか。肌着は木綿が良いと思えば、綿を栽培しなければならないし、そこでできた綿花を糸に紡ぎ、次に織らなければならない。織り方にもいろいろあって、平織でよい場合と、綾織にしなければならない場合と、メリヤスのように一種のニットにしなければならない場合がある。Tシャツなどは、メリヤスで作らなければならない。ウールのものを着たければ、綿羊を飼わなければならないし、化繊のものが着たければ、化学工場を作らなければならない。また、色物を着たければ、染色工場を作らなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、これだけでは食べる物と着る物だけである。住む所となると、自分で木を切ってきて、組み合せ、建て上げ、屋根をふき、壁を塗り、棚や家具を作ることもしなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こう考えてくると、自分一人の力だけでは、到底何も出来ないことが分る。私たちは、何から何まで自分一人でやることは出来ないのである。だれかの厄介になっている。このことが分ると、私たちもまた、だれかの役に立たなければならないことが分ってくる。それが働くことの意味なのである。働くことによって、その仕事がだれかの役に立っていることが分ると、そこに働くことの喜びがあるはずだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、今日一人一人の働きが、社会の大きな仕組の中の一つの歯車のようになってしまい、自分がだれかの役に立っているという感じが持てなくなってしまっているため、多くの人々は、だれかの役に立っているということが実感として湧いてこないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、私たちが自分の仕事を選ぶにあたって、どういうことを考えたらよいのだろうか。まず第一に、その仕事を通して神の栄光を現すことである。今日では、とかく人の弱みにつけ込んだり、余り感心しない仕事もないわけではない。そのような人間性に反する仕事を選ぶべきではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが仕事を選ぶ場合、自分に与えられている賜物と関係のある仕事を選ぶのが普通である。たとえば、血を見ると、気分が悪くなってしまうような人は、医者には向かないだろうし、高所恐怖症の人は、高い所へ上ったり、そこで仕事をしなければならないような職業は避けた方がよいし、自分でも決してそういう仕事を選ぶことはないだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6065517192283462850?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6065517192283462850'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6065517192283462850'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/08/blog-post.html' title='働くこと'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SJ8BIz0uw1I/AAAAAAAAAO0/-HWdsPyKnZI/s72-c/tomato.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-74807035309013821</id><published>2008-08-03T22:39:00.003+09:00</published><updated>2008-08-03T22:55:43.672+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='結婚について'/><title type='text'>結婚について 2/2</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#kekkonnosonae"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/kekkonnnosonae.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;私たちがだれと結婚するかについては、神がすでに決めておられ、その人と結婚するわけである。そのことを、私たちはそれぞれ主体的に受けとめ、結婚することになる。このように主体的に自分で結婚の相手を決められる人が、実は一人前の人間なのである。両親を離れて二人が一体になれるためには、どうしてもこのように精神的に独立した一人前の人間であることが必要である。結婚の相手さえも親に決めてもらわなければならない赤ん坊では、とうてい結婚する資格などないと言ってよい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、結婚する人は、一人前の人間なのだから、結婚するにあたっては、当然、精神的にも経済的にも親から独立している人でなければならないはずだ。これができていない人は、結婚して、何か問題が起ってくると、すぐ親の助けを借りなければならず、夫婦の絆が揺ぎ出す原因を初めから作っていると言ってよいだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結婚は、神によって定められている男女の二人が一体となることであり、それを神の御前において誓約するのが結婚式である。だから、結婚式の中心は、あくまでも結婚する二人の神の御前における誓約である。その内容は、相手が神によって定められている人であることの確認と、そのような人として生涯相手に対するということにほかならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、神の御前で誓約しさえすれば、それで自動的に一体になれるのかというと、決してそうではなく、生涯、一体になることの努力が課題として与えられているのだ。それは、夫はキリストが教会を愛された愛によって妻を愛し、妻は教会がキリストに従う服従に倣って夫に従うことによってできる(エペソ5:22-33)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、クリスチャンは自分たち夫婦を結婚するように定めてくださった神がいかにすばらしいお方であるかを表す生活をし、今日、崩壊しつつある家庭を築く働きをし、また夫婦が相互に啓発し合うわけである。結婚には、このように宗教的、社会的、個人的使命があることを知り、それを果たしていくのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日どれほど多くの家庭が崩壊しているかということを知る時、恐ろしい気がしてならない。崩壊家庭が増えれば、青少年非行問題も増える。離婚が増え、その犠牲者が増えつつある今こそ、クリスチャンは本当の家庭を築いていくべきである。人間は皆エゴイストだから、いつも問題が起りがちだが、クリスチャンはこのエゴイズムの問題を解決した者たちであり、絶えず反省心を持っている者たちだから、問題が起った時、相手を責めるのではなく、自分自身反省すべきである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンの家庭にも多くの誘惑が襲い、危機とも呼ばれるべき時が来る。その時、二人が別々に考えたり、別々の方向に行動を起こしたりせず、それぞれが反省し、一緒に力を合せて乗りきることにより、揺るぎない家庭を築いていくことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結婚とは、一人の人間と一人の人間とが裸になってつき合うことである。もしも私たちがそれを肉体的なことだけだと考えるとしたら、それは人間を偽って見ていることになる。人間は、霊肉両面あって初めて完全だ。つまり、結婚とは、全人間的なつき合いなのである。ここにおいてうまくいかなかったとしたら、一体ほかのだれとうまくつき合うことができるだろうか。ここにおいて真の人格的交わりが成り立たないとしたら、もはや絶望と言うほかはない。それほど結婚は重要なことだ。人間社会において、人格同士の交わりが重要であるとしたら、結婚はその基本なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかも、結婚そのものは神によって定められたことで、結婚する二人も神によって結婚するように定められていた者同士である。つまり、結婚というものは、あくまでも神から出たことであって、人間が自分たちで考えだしたことではない。だから、私たちは、結婚式という社会のしきたりが二人を夫婦にするのではなく、神が二人を夫婦にするのだということを覚えることが大切なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことになると、私たち夫婦が交わりを持つことが許されるのは、神の許しということ以外にはない。二人の愛ではない。もちろん二人が愛し合っているということは大切なことである。しかし、二人が肉体の交わりをすることが許されるのは、二人が愛しているからなのではなく、神が許してくださったからだ。そしてそれは、二人が神の御前で厳粛に誓約した時であることは言うまでもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここに、私たちが婚前性交、婚外性交を認めない真の理由がある。神が許しておられないことを、どうして人間が行えるだろうか。どんなにもっともらしい理由をつけても、結局は自分のしたいことをするということに帰着する理論を認めることはできないし、人間の欲望が最終的判断の基準なれるわけがない。このように、キリスト教に立った結婚以外に、一体どこに聖い結婚、揺るぎない家庭というものがありうるだろうか。ここにまた、結婚の確かさがあるのである。結婚について、もっと知りたい方は、拙著&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#kekkonnosonae"&gt;「結婚の備え」(いのちのことば社)&lt;/a&gt;を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-74807035309013821?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/74807035309013821'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/74807035309013821'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/08/22.html' title='結婚について 2/2'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7976413084075056111</id><published>2008-07-27T21:37:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:17.442+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='結婚について'/><title type='text'>結婚について 1/2</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SIxvrhrntfI/AAAAAAAAAN4/ShhNzHBa7zE/s1600-h/20080727370.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SIxvrhrntfI/AAAAAAAAAN4/ShhNzHBa7zE/s200/20080727370.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5227676061036688882" /&gt;&lt;/a&gt;神が人間を男か女かにしてお送りになったのは、神が人間を結婚するものとしてお造りになったということである。結婚というものは、人間が作り出した制度ではない。人間が罪に陥ってからは、結婚しないで独身で生涯を過す人も出て来た。とは言っても、独身が罪だと言うのではない。しかし、元々は結婚するものとして造られたのだ。だから、結婚をいいかげんに考えることはできないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世において結婚をいいかげんに考えるというのは、好きなもの同士が同棲したり、結婚の前であろうが後であろうが、そんなことはお構いなしに性生活を始めることを指している。婚前性交や婚外性交、夫婦交換など、きりがないほどだ。しかし、私たちクリスチャンは、そうしたルーズな結婚観を持っていない。もっときちっとした考え方を持っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの人は、いまだに結婚を家と家との結び付きだと思っているようだ。新憲法がはっきり規定しているように、結婚とは、本来結婚する当人同士のものであって、家同士が結婚するのではないことは言うまでもない。もちろん、結婚すれば相手の親兄弟とは義理の親兄弟となるわけだが、結婚は決して家同士の結び付きではない。旧憲法がいまだに生きているような有様を見る時、私たちははたして新憲法下に生きているのかどうかさえ、疑わざるをえないような気がしてならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結婚は、人生における三大行事の一つである。誕生と死という二つの人生行事は、だれ一人として経験しない人はいないが、結婚はしないで一生独身という人もいるので、すべての人がこの三大行事を経験するわけではない。しかし、大抵の人はこれを経験する。誕生も死も、いずれも人生の厳粛な出来事であるとすれば、その中間に位置する結婚も、同様に厳粛な出来事であるに相違ない。だから、結婚をいいかげんに扱うことは間違いだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、誕生と死は自分の意思の届かないところで起るものだが、結婚だけは自分の意思によって自由にできると思うところから、余り真面目に考えない人が起ってくるのかもしれない。実はそこに間違いがあるように思えてならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結婚するということは、自分たちが勝手に決められることと考えてはならないのだ。相手はすでに神によって定められているのであり、自由に選べるのではない。自由に相手は選べると考えるところから、いろいろな問題が起ってくるように思われる。確かに、ある意味では、自分の責任において配偶者の選択をするのだが、自由に、また自分勝手にできると考えるなら、あまりにもおごり高ぶった考え方である。私たちにそのような完全な自由がはたしてあるのかどうか反省してみる必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして不思議でならないことは、そのようにして自分で選択したと考える人ほど、あとでうまくいかなくなった時、自分で責任を取ろうとはせず相手の責任にしてしまう。本来なら、自分が選んだのであれば、うまくいかなかった時、「自分はなんと見る目がなかったのだろう」と言って、反省するのが筋だと思うのだが、悪いのは相手の方であって、自分は被害者だぐらいに考えてしまう。ここに初めからうまくいかない原因があるのだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、結婚してしばらくたってから相手の欠点が見えてきた時、ただ相手を責めるべきではなく、相手に欠点があるように、自分にも必ず欠点があるのだということを知るべきだろう。そして、欠けているところをお互いに補い合って生きていくようにと、神が定めておられた相手なのだということを知り、ますます励んでいくべきではないだろうか。神によって二人が結び合わされたという事実があって初めて考えられることだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、聖書は結婚についてどう教えているかと言うと、次のように教えている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「そういうわけで、人はその父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるのである。」(創世記2:24)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;この箇所が結婚の憲法のような意味を持っていることは、聖書の中に出て来るある出来事によって知ることができる。ある時、主イエスのところへ離婚の問題について質問に来た人がいた。主イエスは、離婚の問題を、結婚の本来の姿から説き明かしておられる。その時、主イエスはこの天地創造における人間の創造から説き起こして、この聖句を引用しておられる。そういうことからも、この御言葉は、聖書が教える結婚の憲法と言えるだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この御言葉によると、三つのことが明らかにされている。一つは、結婚するのは、神によって定められている一組の男女であるということ、次に、両親を離れるということ、三つ目に、二人は一体になるということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは時間の中に生きていて、いつも現在にいる。過去のことは記憶に頼るしかなく、未来のことについては皆目分らない。しかし、永遠に生きておられる神は、未来のことをご存じであるだけでなく、私たちの結婚の相手もすでに定めておられるはずである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7976413084075056111?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7976413084075056111'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7976413084075056111'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/07/12.html' title='結婚について 1/2'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SIxvrhrntfI/AAAAAAAAAN4/ShhNzHBa7zE/s72-c/20080727370.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4300740988610770735</id><published>2008-07-20T22:18:00.007+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:17.641+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='男と女'/><title type='text'>男と女</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SINElGn9PXI/AAAAAAAAANw/U-pecJYG0Es/s1600-h/070620_130937.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SINElGn9PXI/AAAAAAAAANw/U-pecJYG0Es/s200/070620_130937.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5225095396903959922" /&gt;&lt;/a&gt;人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心を持って生きていくよりははるかにましな生き方だと思うけれども、何から何まで自分の意志で決められるものではないことの証拠が、出生において出て来ることを知らなければならないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それなら、私たちが男として、あるいは女として生まれてくるということは、だれが決めたのだろうか。親であるとも言えない。親はもしかしたら、次に生まれてくる子供を、その前の子とは反対の性を考えていたかもしれない。私の知っている人で、六人姉妹の人がいる。親は、今度こそ男であるようにと願ったのに、生まれてきた子供は六人とも女の子だったのである。だから、親の意思によって性別が決まるわけではないことは明らかである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが男か女かとしてこの世に生まれてくるのを決定したのは、人間ではなく、私たちに命を与えてくださる神なのである。性ということだけに限って考えても、そのことはよく分る。毎年生まれてくる赤ん坊は、男女共ほぼ同数であるということは、人間のだれがそんなことをすることができるだろう。丙午（ひのえうま）の年に生まれる女の子は結婚してくれる人がいないといった迷信は、今でもかなりの人が信じているらしく、その年の子供の出生数は極めて少ない。今年四十二歳になる人がそうなのだが、その年は他の年と比べると、極端に少ないのだ。しかし、少ないけれども、それは女性だけではなく、男性の方も少なく、男女の比率はほぼ同数なのである。人間がいくら小細工をしても、神のなさることは依然変ることがないということを、この事実ははっきり示しているのではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、私たちは、この事を厳粛に受けとめる必要があると思う。つまり、私たちは神によって男か女かに召されたのである。このことが分ると、男として召された人はそのことを、女として召された人もそのことを自覚し、神が召してくださった以上、そこには与えられた使命があるのだということを自覚することができ、そこに男の生きがい、女の生きがいを見出すことができると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日なお男女間に差別があることは事実である。それゆえ、女と生まれてきて、損をしたとか、貧乏くじを引いたと感じている女性がいることも事実である。男女間の差別撤廃のために私たち男性が力を尽すことは当然のことだが、それと同時に、女性自身が生きがいを見出す努力をすることも必要だと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女性の生きがいは、女性としての誇りから生まれてくるのではないかと思う。女性でなければできないものがあることの自覚から始まるだろうと思う。その重要なものの一つは、女性が子供を産むということである。どんなに時代が変り、あらゆるものが進歩していったとしても、男性が子供を産む時代は来ない。もちろん、女性だけに子育てを任せてしまうことがよくないことは十分分っているつもりだが、授乳、子育ての中心は母親である女性なのである。だから、女性は幼い頃から母性本能を持っている。ままごと遊びをしている時、女の子はいつも人形を赤ん坊にしつらえ、母親として面倒を見ようとしている。この女性にしかできない仕事の中で最も重要な子育てこそ、次代を背負う子供を育てることになるのである。次の時代などどうなっても構わないと考える無責任人間ならいざ知らず、次の世代の責任を感じる人なら、この世のいかなる仕事よりも重要な子育てに誇りを持たなければならないだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした女性の生きがいは、どこから生まれて来るのかといえば、自分が女性として召されているということの自覚からだと思う。神がこの尊い働きへと自分を召してくださったのだという自覚からである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子育てをだれにでもできる簡単な働きだと考え、それよりも社会に出て、社会に貢献する働きをしたいと考える人が案外多いようだが、私は人間を育成する働き以上に大切な働きはないのだと言いたい。社会で働く働きは、同じ能力を持っている人ならだれでもよいのだが、子育てはそうはいかない。その子供にとって世界広しと言えども母親はただ一人しかいない。その人の愛情がなければ、健全な人格を持った人には育っていかないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神が私たちを男か女に召しておられるということが本当に分ってくると、私たちにはそこから自ずと男の生きがい、女の生きがいが生まれてくる。そして男だけ、女だけの働きと同時に、男と女の協力なしでは出来ない働きがあるのだということも分ってくるはずだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4300740988610770735?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4300740988610770735'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4300740988610770735'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/07/blog-post_20.html' title='男と女'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SINElGn9PXI/AAAAAAAAANw/U-pecJYG0Es/s72-c/070620_130937.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2243115491153205514</id><published>2008-07-13T23:17:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:07:40.857+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='キリスト教'/><title type='text'>キリスト教の葬式</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#shienosonae"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/sihenosonae.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀るのではない。その人の霊は、もうパラダイスにあって、神とのすばらしい時を持っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンでない人は、死んだ人の冥福を祈ったり、成仏するようにと祈ったりする。けれども、クリスチャンは、人が死んだとき、その人の生前の生き方によって、パラダイスかハデス(よみ)かにはっきり分かれてしまい、私たちが何かをすること、その人をパラダイスへ行くようにすることはできないことを知っている。だから、人の死後、冥福を祈ったりしない。葬式は、死んだ人の運命を左右するためのものではなく、むしろ遺族、知人、友人のため、つまり生き残っている人々のためなのだ。その人々がやがて自分の身の上にも起こって来る死に対して、心の備えができるようにという目的がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;死んだ人の運命を左右するのは、今生きている人なのではない。死んだその人自身なのだ。その人が生きていた時、神のご好意として用意されていた救いを受け入れたか、それとも拒絶したかに掛っている。だから、葬式もおのずとそのことを表すことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンにとって、葬式は、最後の証の場でもある。自分がクリスチャンであったということを、他の人に知っていただく良い機会である。だから、そのような準備をあらかじめしておくことが必要だ。葬式に限らず、人が死んだ後は、とかくごたごたが起りがちだ。それは、生前、自分の身辺のことについて、きちっとした整理ができていなかったがためだ。遺産の問題を始め、いろいろな問題が起りがちだ。そういうわけで、問題が起きないように、よく処理しておくことが大切だと思う。それだけではなく、葬式のことについても、はっきり指示しておく必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キリスト教の葬式は、普通、葬式とその前夜行われる前夜式がある。前夜式というのは、仏教式で行われるお通夜とは違い、夜通し眠らずに行うのではない。一定の時間を限って行う。賛美、祈り、聖書朗読、説教が行われる。その後、故人の思い出話をしながら、個人をこの世に送り、天に取り上げられた神に感謝する時を持つのもよいことだと思う。最近では、翌日の葬式に来られない人が前夜式に来るため、葬式よりも多くの参列者があることが多くなっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葬式は、死んだ人をこの世に送り、天に取り去られた神を礼拝する礼拝である。死んだ人を拝んだり、その人が天国へ行けるように祈る行事ではない。その人が生前イエス・キリストの救いにあずかっていたのであれば、当然パラダイスに行ったのであり、今さらそうなることを祈る必要など毛頭ない。むしろ、後に残された遺族を慰め、励まし、またそこに列席する故人の知人、友人などに、やがて迎えなければならない自分の死に対する心の備えをするように勧める時でもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;したがって、葬式は棺に納めた遺体を正面には置くけれども、その周りを生花で飾る。キリスト教の葬式では、造花は使わない。そして、花につける名札も取ってしまう。人間が前面に出て来るのではなく、神が前面に出てくるべきだからなのである。周りの壁は、天国を思わせるように白布で覆い、余計なものはなるべく置かない。後で献花をする場合には、献花台を用意しておく必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葬式の日取りだが、死んでから二十四時間経たないと火葬することはできないので、そのことはあらかじめ承知しておかなければならない。火葬場は普通、友引の日が休日だから、その日に火葬場へ遺体を持って行くことはできない。だから、葬式の直後、火葬場へ遺体を持って行く場合には、友引かどうか調べておかなければならない。葬儀屋に聞けば分ることだ。クリスチャンは、もちろん友引など問題にすることはないのだが、火葬場が休みではどうにもならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、葬式の式次第は全部、司式牧師にお任せしなければならないのだが、その中で弔辞を述べる箇所がある。その時、世間一般では、そこにある遺体に呼びかけるような言い方をするが、クリスチャンの場合、「あなたは・・・」などと言うべきではなく、「○○さんは・・・でした」というように話すべきである。故人はもうそこにはいないのだから。献花をするのは、故人に対する愛惜のしるしであって、それをすることによって、故人の霊を慰めたり、故人に拝礼をすることではない。この件に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#shienosonae"&gt;「死への備え」(いのちのことば社)&lt;/a&gt;を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2243115491153205514?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2243115491153205514'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2243115491153205514'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/07/blog-post_13.html' title='キリスト教の葬式'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3526085686757367831</id><published>2008-07-06T21:06:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:10:04.735+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='死について'/><title type='text'>人は死んだらどうなるか</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SHC3QkW-doI/AAAAAAAAANg/qkAkvg1rJNA/s1600-h/DSC07125.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SHC3QkW-doI/AAAAAAAAANg/qkAkvg1rJNA/s200/DSC07125.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5219873463388239490" /&gt;&lt;/a&gt;人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;霊は、肉体と結合している間は、肉体によって制約され、時間と空間の法則の下にある肉体とともに生きなければならないが、死ぬと肉体から解放され、自由になる。しかし、自由になったからといって、自分のしたいことができるわけではない。地上においてどういう生き方をしたかによって、主イエス・キリストと共にパラダイスに行くか、それとも暗黒と苦しみしかないハデス(よみ)に行くかのどちらかだ。そして、やがてキリストが再び来られて、この世が終りになる時、体が復活して霊的体となり、それが再び霊と結合して、パラダイスにいた人は天国へ、ハデス(よみ)にいた人は永遠に地獄へと入れられてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世にいた時、どのような生き方をしたかが、人間の永遠の運命をこのように二分してしまうとすれば、この世にいる時の生き方は、極めて重大であると言わなければならない。それではどのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行ってしまうのだろうか。人間は、生まれながらエゴイストであり、自分さえよければよいのだという考え方を持っている。聖書では、それを罪人(つみびと)と呼び、罪人のままでは滅び(破滅)に至る運命にある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、神は憐み深いお方で、私たち滅び行く運命にある罪人を救うために、救いの道を用意してくださった。だから、この神のご好意を感謝して受けるなら、私たちはだれでも天国へ行くことができるのであり、それを拒むなら、私たちは地獄へ行かなければならない。神のご好意を素直に受け入れる生き方をするか、それともそれを拒む生き方をするかが、人生の分れ道になってしまうわけである。神のご好意を受け入れるなら、神は恵みによって私たちの罪を赦し、私たちを罪から救ってくださる。だから、このような救いを受け入れる生き方こそ重要なのであって、そのような生き方をするようにと聖書は繰り返し私たちに勧めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人が死を恐れるのは、死の後に裁きがあるからだ。人類が罪に陥って以来、自然死のほかに、罪の裁きという意味が加わった。そのため、死を恐れるようになった。死は確かに不気味だ。しかし、罪が入って来なかったら、不気味というだけで、死に対する恐れはなかっただろう。けれども、今はだれでも死に対する恐怖に恐れおののいている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、この罪の問題が解決しなければ、私たちは死を恐れ続けなければならないのだ。クリスチャンというのは、この罪の問題を解決した人々、つまりキリストによって罪を赦していただいた人々だ。だから、死に対して恐れを抱かなくなった。しかし、クリスチャンにもなお自然死はあるわけで、それは、天国への入り口という意味に変った。朽ちゆく肉体を持ったまま、天国へ入ることはできない。だから、肉体を脱ぎ捨て、やがてキリストが再臨されるこの世の終りの時に、復活して、霊的体が与えられ、天国に入ることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンが死を恐れない理由、および死に際してノンクリスチャンのように悲しまない理由がここにある。もう一度、天国でもっと確実な方法で愛する人と会うことができるからだ。この世の生は短く、一時的だが、天国での生は永遠に続く。クリスチャンは、この永遠の生への備えをしている者たちなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからと言って、クリスチャンは死を喜んで迎えるというのも、必ずしも当を得ているとは言えない。この地上におけるしばしの別れでさえも、寂しく悲しいものなのだから、ましてこの世ではもう再び会えない死出の別れを、寂しくまた悲しく思わないわけがない。しかし、クリスチャンの死別は、それが永遠の別れではなく、再会の希望のある別れだから、そこには平安があり、また期待がある。そういう意味で、喜びもまたあると言うことができる。ただ死ぬのが嬉しいというのとは違う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、クリスチャンは、死に際して決してあわてることがない。日ごろ親しく交わっている神のみもとに行くのだから、そういう意味では、あわてるどころか喜びで一杯だ。私たち人間は、遅かれ早かれ、この世界の創造主である神の御前に立たなければならない。だから、だれも皆、神に会う備えをしていなければならない。それができているのがクリスチャンである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうわけで、クリスチャンの葬式は、死んだ人をあがめたり死んだ人の霊を慰めるのではなく、その人をこの世に送り、また取られた神をあがめる礼拝なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3526085686757367831?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3526085686757367831'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3526085686757367831'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/07/blog-post.html' title='人は死んだらどうなるか'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SHC3QkW-doI/AAAAAAAAANg/qkAkvg1rJNA/s72-c/DSC07125.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7566793605474667883</id><published>2008-06-29T21:42:00.006+09:00</published><updated>2009-02-09T02:18:49.887+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='死について'/><title type='text'>死とは何か</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SGeFyq7aAGI/AAAAAAAAANY/dXoL9RoYC98/s1600-h/080611_172235.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SGeFyq7aAGI/AAAAAAAAANY/dXoL9RoYC98/s200/080611_172235.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5217285798895419490" /&gt;&lt;/a&gt;死は何かと聞かれれば、生命活動の停止のことだと答えることができると思う。ところで、ただそれだけではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書を見ると、「死」と言う場合、三つの死がそこに表わされている。第一は、「肉体の死」で、これはだれにでもよく分る。普通「死」と言えば、このことである。ところで、聖書では、それとは別の死を述べている。その一つは、「霊的死」である。これがなかなか分りにくいのだが、聖書は次のように述べている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたがたは、以前は、自分の持っている罪のために、神から離れ、道徳面で無力な死んだ存在であった。」(エペソ2:1)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;「道徳面で無力な死んだ存在」とはどういうことかと言うと、善いことが何であるかが分っていても、それを行なうことができなくて、悪いことを行なってしまうということだ。たとえば、学校でほかの人が試験の時にカンニングしている時、それが悪いとは思いつつも、自分もやってしまうということを考えてみると、よく分ると思う。つまり、この世の流れに流されてしまうのが、その特徴であると言うことができるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;川の流れを考えてみたらよく分る。命のあるのものは、どんなに流れが急であっても、流れに逆らって上流に行くことができる。鮎でも鯉でも鮭でもみなそうだ。ところが、命のないものは流されていってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世においても、霊的命のあるなしは、その流れに抗して立ちうるか、それとも流れに流されるかによって決ってくる。学生時代この世の流れに流されつけてきた人々は、社会に出ると、同じような生き方をしてしまう。職場ぐるみで不正がなされている時、「ノー」と言うことができないため、後でその不正がばれた時、その不正をした人たちの中に入ってしまうことになるのである。その時になって後悔してももう遅いのである。これが、霊的に死んでいる人の姿であると言うことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、もう一つの死がある。それが「永遠の死」なのである。死ということを存在の絶滅と考えている人にとって、永遠の死とは永遠に存在を失うことだと考えやすいのだが、そうではなく、永遠に存在し続けるのだが、祝福の源である神から永遠に切り離されることなのである。これほど恐ろしいことはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世においては、生きていくのに苦しくなると、自殺をしたり、あるいは発狂することがある。しかし、この永遠の死というのは、自殺することもできず、発狂することもできない。苦しみを永遠に味わい続けなければならないのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書が「命」とか「死」と言う場合、それは単に生命活動の有無を意味しているのではない。命は神の祝福を表わし、死は呪いを意味する。だから、永遠の死とは、永遠に呪われ続けるということであり、永遠の命とは、永遠に神の祝福を受け続けるということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初の人アダムが罪を犯したことによって人類に死がもたらされたと聖書は教えている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「一人のアダムによって罪がこの世界の中に入って来、罪の結果、死が入って来た。そしてすべての人が罪を犯したので、死は全人類に広がっていった。」(ローマ5:12)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;それでは、アダムが罪を犯さなかったら、アダムは永遠に生きることができたのであろうか。そんなことはない。神の披造物には、皆初めがあると共に終りがある。つまり、罪を犯さなくても、自然的死はあったはずである。アダムが罪を犯したことによって死が入って来たという場合、その死は罪の刑罰という意味での死であった。すべての人が死を恐れるのは、その死のことなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンは罪赦されたことを自覚している人々である。それなのに、なぜクリスチャンも死ぬのかと思う人がいるかもしれない。それは罪の刑罰としての死なのではなく、自然的死にほかならない。罪の刑罰としての死はもはや取り去られた。だから、クリスチャンにとって、死は肉体から解放されて、天国へ行く門口という意味になったのである。そういうわけで、クリスチャンはもう死を恐れない。恐れないどころか、天国へ行って、愛する主イエス・キリストのみもとにいつまでもいることができる契機なのである。これはどすばらしいことはないわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンはもはや死を恐れない。この世において与えられている使命を果すため、一生懸命毎日やっているが、主が「もうそれで十分だから、こちらに来て、休みなさい」と仰せられ、天国へ招いてくだされば、喜んで主のみもとに行くまでである。いつ死んでも、天国へ行くことが確かであるので、今の時を力一杯生き、使命を果すことができるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;死んだらだれでも天国へ行けるのではない。罪を持ったまま天国へ行くことはできない。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。」(マタイ7:13)&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7566793605474667883?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7566793605474667883'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7566793605474667883'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/blog-post_29.html' title='死とは何か'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SGeFyq7aAGI/AAAAAAAAANY/dXoL9RoYC98/s72-c/080611_172235.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7812877184495379493</id><published>2008-06-22T21:10:00.007+09:00</published><updated>2009-02-09T02:11:40.271+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間'/><title type='text'>人間をどう見るかが鍵</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SF5GZ2Mnt0I/AAAAAAAAANQ/IaPxZmtUBuA/s1600-h/080514_103328.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SF5GZ2Mnt0I/AAAAAAAAANQ/IaPxZmtUBuA/s200/080514_103328.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5214682828400736066" /&gt;&lt;/a&gt;以前、ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中に彼が記している言葉を引用したことがあった。「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました。」こういう言葉を聞くと、カチンとくる人がいるかもしれないが、実はここのところが、本当に分らないと、クリスチャンにはなれないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんな宗教でも、一応まともな宗教なら、善いことをするようにと教えるはずだ。オウム真理教のように、無差別に人を殺すことを教えるようなものは、もはや宗教という名にも値しないと言ってよいだろう。宗教というものは、実存的な問題(苦しみ、エゴイズム、死などほかの人に代ってもらうことのできない問題)を扱うものである。損をするとか得をするなどというようなことは、宗教が取り扱う事柄ではない。しかし、とにかく、まともな宗教なら、どれも皆、善いことを行なうようにと教えられるはずだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、そのように教えるということは、そのように教えてさえおけば、人間はだれでもそれを行なうことができるはずだという人間観がそこにあるからである。しかしながら、はたして人間は善いことを知ったから、それを自分の力で行なうことができる者なのであろうか。そのことを無視して、問題の解決ははたしてあるのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;近代における文学を見れば分るように、ごく普通の人がごく普通に行動していって、最後は破滅になってしまうということから分るように、人間は善を知っていても、それを行なうことができない者なのである。それをエゴイストと呼んでもよいだろう。エゴイズムを持っていない人などいないのだから、そこに問題があるのだ。ほかの人を愛さなければならないということは分っているのに、最終的には、ほかの人の幸福よりも自分の幸福を選んでしまう。なんと醜い自分であることか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書では、この醜く、自分さえよければ他の人などどうでもよいと考える人間を罪人(つみびと)と呼んでいる。つまり、善いことを教えられていても、それを行うことができない人間のことである。次のように言われている通りである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「良心の願いに従いたいという思いは、私のうちにあるのだが、それを実行することができない。私は良心の願いに従うことができず、それと反対のことばかりをしてしまう。・・・私は何という哀れな存在なのだろう。分裂してしまっていて、自分の力では決して善いことができなくなってしまった。死んだようなこの私を、一体だれが救い出してくれるだろうか。」(ローマ7:18-19、24)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;このような人間のことを、聖書では罪人(つみびと)と呼んでいる。だから、いわゆるこの世の法律に違反した犯罪人のことではない。それなのに、なぜ罪人(つみびと)と言うのかと言うと、自分の力では自分の今の姿を改善することができなくなってしまった道徳的破産者だからである。それは、神の定められた律法違反者なのである。人の作った法律に違反すれば犯罪人であるのだが、神が定めておられた律法に違反すれば、罪人(つみびと)となる。いずれも共通していることは、違反者であるということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人の作った法律の場合でも、それに違反すれば必ず罰せられる。それから救われる道は償いがなされるということである。それは神の律法違反の場合も同じである。償いがなされない限り、罰せられるのは当然である。ところで、神の律法違反の場合、それに下される刑罰は死なのである。そして、それを償うために払われる値もまた死にほかならない。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである。」(ローマ6:23)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;本人が償いをしようとしても、死んでしまえば、救いはそこにない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、救われる道としては、だれか第三者の人が身代りに死をもって償う以外にはないことになる。ところで、すべての人は一人の例外もなく罪人だから、自分自身の刑罰としての死を受ける以外にはない。だからと言って、アダムにあって一体の人類以外の者が身代りになることは意味がないわけだから、ここに私たちを罪から救うことのできる人というのは、アダムの子孫として生まれて来た人であり、同時に罪のない人以外にはないことになる。その二つの相矛盾する条件を満たす救い主こそ、神が人となってこの世に来られた神の御子イエス・キリスト以外にはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;永遠の神の御子は、私たちを罪から救うために、処女マリヤの胎内に罪のない人間として宿られた。なぜ救い主は成人した形でこの世に現われなかったのかと言うと、私たちは母の胎内に宿るところから罪人として存在するので、救い主はそこから罪のないお方としてこの世に存在される必要があったのである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「神は、罪を知らないお方キリストを、私たちの罪の身代りに十字架上で罰せられた。それは、私たちがキリストを信じることによって救われるためである。」(2コリント5:21)&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7812877184495379493?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7812877184495379493'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7812877184495379493'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/blog-post.html' title='人間をどう見るかが鍵'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SF5GZ2Mnt0I/AAAAAAAAANQ/IaPxZmtUBuA/s72-c/080514_103328.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2119951480405084550</id><published>2008-06-17T23:33:00.009+09:00</published><updated>2008-06-18T00:09:50.720+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='祈りについて'/><title type='text'>祈りについて4</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/hontounoinori.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;祈りが神との会話であるなら、神とお会いしないまま祈り始めても、それは本当の祈りとは言えないだろう。神の臨在を覚えるまで待つことだ。この体験をするところから、実は祈りが始まるわけで、これを体得しなければ、祈りを体得することはできない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神の臨在を覚えるために、私は賛美することを奨める。この賛美は、信仰の体験を歌った賛美よりも、神を直接あがめる賛美(プレイズとかワーシップと呼ばれるもの)がよい。それを心から賛美することだ。一回だけでなく、その賛美の歌詞が自分のものとなるまで何回でも繰り返し歌うことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心から賛美していると、雑念は去り、悪魔もそこにいたたまれなくなり、賛美のうちに住まわれる主がご自身を現してくださるのだ。その時、その主に話し掛けるのである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「私の魂は、ただ神を待ち望む。」(詩編62:1)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;神を待ち望むところから祈りは始まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;祈りの勇者は、祈り始めると、すぐ神との交わりの中に入ることができる。しかし、信仰生活の初歩にある人は、なかなか神との交わりの中に入ることができない。時間がかかる。そういう人は、少し時間を取って、徹夜するくらいの意気込みで始めることが必要だ。祈りは口先だけで何かを言うことではない。神との交わりである。だから、神の臨在を覚えるまで待ち望むことが必要だ。そして訓練していくことによって、短時間で主との交わりに入ることができるようになる。そうなるまでに多くの時間を使わなければならないことになる。しかし、たとい祈りに入るまでに多くの時間を使ったとしても、本当の祈りが持てれば、それは本当にすばらしいことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「静けき祈りの時はいと楽し」という賛美歌があるが、これは元々"Sweet hour of prayer..."という歌で、直訳すれば、「祈りのすばらしい時よ」ということになる。この賛美歌の作者は、祈りのすばらしい時、それは神との本当の交わりの時だと歌っているのである。これを一度でも経験したら、そのとりこになってしまい、これから離れることができなくなってしまう。残念ながら、多くのクリスチャンはこれを知らない。だから、信仰生活が無力なのだ。喜びがなく、力がない。信仰生活の力と喜びの源泉は神にあるからだ。簡単に信仰をやめたり、教会から離れたりするのは、このすばらしい祈りの時を味わったことがないからだ。このすばらしい味を一度でも味わったら、信仰がバックスライドしたり、冷たい愛のない態度を取るはずがない。さらに詳しく知りたい方は、拙著&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"&gt;「新版・ほんとうの祈り」(羊群社)&lt;/a&gt;を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2119951480405084550?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2119951480405084550'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2119951480405084550'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/4.html' title='祈りについて4'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-549627047331117458</id><published>2008-06-14T22:37:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:18.901+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実10 - キリストの救い主性</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SFPLPK4VPFI/AAAAAAAAANI/8h_eaXLDTxg/s1600-h/DSC07032.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SFPLPK4VPFI/AAAAAAAAANI/8h_eaXLDTxg/s200/DSC07032.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5211732655276899410" /&gt;&lt;/a&gt;私たちは、皆生れながらにして罪人である。このことは、近代における文学が追求している人間の破局性や、その破局性は教育などによっては決して改善されうるものではないということを見てきた。私たち人類は一人残らず罪人なのである。だから、毎日のように人殺しが行われているし、社会のどこにおいても問題だらけなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前回述べた通り、私たちの罪を身代りに償ってくれる人がいるとしたら、その人自身罪を持っていない人でなければならない。そうでなければ、自分の罪の償いとして死ななければならないからである。自分の罪のために死んでしまうのであれば、ほかの人の罪の償いなどできないではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すべての人類はアダムの子孫として罪人なのだから、アダムの子孫として生れてきた人は、だれ一人として罪を持っていない人などいないのである。それでは、一体だれが私たちの罪を身代りに背負って、その罪の償いをすることができるだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;火星人か。そんな人なら、アダムの子孫として一体である人類とは何の関係もないから、何の役にも立たないことは明らかだ。それならば、最初に人間が造られたた時、罪のない人間として造られたのと同じように、罪のない人間を土からもう一度造ればよいのであろうか。それも、アダムにあって一体の人類とは何の関係もない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、神は御子イエス・キリストを人間の姿を取って、この世に誕生させられたのである。御子イエス・キリストがなぜ処女降誕されたのかという理由がそこにある。処女だから罪がないというのではない。人間マリヤの胎内に、神が特別に働かれて、罪のない神の御子を宿らせられたのである(ルカ1:35)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの人は、処女降誕を信じがたいと言うが、処女降誕でない救い主こそ信じることができないと言いたい。アダムの子孫として生れながら、罪のないお方であるには、この処女降誕以外のいかなる方法があったろうか。だから、イエス・キリストこそ、私たちの罪を償う唯一の有資格者であるということができよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス・キリストの十字架上の死こそは、私たちが払わなければならなかった罪の刑罰を身代りに支払ってくださったものなのである(2コリント5:21)。だから、ここにこそ本当の救いがある。人間が罪人であるなら、ここにしか救いはない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-549627047331117458?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/549627047331117458'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/549627047331117458'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/10.html' title='罪の現実10 - キリストの救い主性'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SFPLPK4VPFI/AAAAAAAAANI/8h_eaXLDTxg/s72-c/DSC07032.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2942870704566283720</id><published>2008-06-10T22:04:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:19.271+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='祈りについて'/><title type='text'>祈りについて3</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SE6Ace090XI/AAAAAAAAANA/C2MdYJG8mu0/s1600-h/DSC07076.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SE6Ace090XI/AAAAAAAAANA/C2MdYJG8mu0/s200/DSC07076.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5210243045714153842" /&gt;&lt;/a&gt;祈りにおいて大切なことは、本当に神との会話になっているのかということではないかと思う。神との会話になっていない祈りであれば、それは独り言にすぎないことになってしまう。つまり、から回りの祈りなのである。それでは、いくら祈っても何の手応えもなく、自分自身何も変ることはない。それは、むなしい祈りであって、時間の浪費でもある。信仰生活において力をまだ一度も体験していないとしたら、おそらく祈りが問題なのだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう人の祈りは、いつしか形式的なものになり、信仰生活も形骸化していって、何かあった時、何の力もない無力な生活であるだろう。それは、本当の信仰生活ではない。何か大変なことが起っても、信仰によってそれを乗り越えることができず、形の上だけの信仰生活を送っているにすぎない。そういう人は、神が生きて私たちの生活に働いてくださるのだということを知らないから、何かがあっても、神によって解決していただこうという心が起きないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば、自分の子供が交通事故に遭った時、まず祈って神の助けを頂こうとするのではなく、すぐ119番に電話をして救急車を求めたり、人の助けを得ようと奔走するかもしれない。もちろん、一刻一秒を争う時、119番にすぐ電話を掛けるのがいけないわけではない。しかしその時でも、神の助けを求めて祈りつつ電話をするのと、神のことよりも救急車の助けを第一に考えてしまう、日ごろの信仰生活がそこで問われるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;祈りを分類すると、次のようになる。賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くこと。ところで、これらの祈りが、それぞれ本当の賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くことになっているためには、大事な一つの前提条件がなければならない。それは、神の御前に出て、神とお会いしているということだ。そこで、私は祈りにおいて最も大切なものは、神とお会いするために、神を待ち望むことだと申し上げたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神とお会いしないうちに祈り始める人は、独り言の祈りだが、独り言の賛美や、独り言の感謝や、独り言の告白がいかに多いことか。神がそこにおられないのに、神への賛美をささげている。多くの人が礼拝でささげる賛美もこれではないだろうか。曲だけを気持よさそうに歌っている人、賛美の歌詞の字づらをただ追っている人などは、まさしくこれに属するのではないだろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2942870704566283720?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2942870704566283720'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2942870704566283720'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/3.html' title='祈りについて3'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SE6Ace090XI/AAAAAAAAANA/C2MdYJG8mu0/s72-c/DSC07076.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1855509856648076160</id><published>2008-06-07T21:44:00.005+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:19.425+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実9 - 罪の性格</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEqPY8Cs8mI/AAAAAAAAAM4/6zK2U9v2Jgs/s1600-h/20080603340.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEqPY8Cs8mI/AAAAAAAAAM4/6zK2U9v2Jgs/s200/20080603340.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5209133577604493922" /&gt;&lt;/a&gt;近代における文学が追求している人間性というものはなぜ破局性を持っているのかと言うと、それはエゴイズムの問題なのだと言った(&lt;a href="http://tadabito.blogspot.com/2008/05/7-3.html"&gt;文学が示している人間の破局性(3)&lt;/a&gt;)。またその人間の破局性は、決して教育などによって変えられるものではないとも言った(&lt;a href="http://tadabito.blogspot.com/2008/05/8.html"&gt;教育によって改善できるか&lt;/a&gt;)。人間は生れながらにして、この破局性を身に帯びている。これを、聖書では罪と言い、人間が罪人であるとは、そのことを言うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、罪人と言うと、多くの人はこれに抵抗を感じる。とういうのは、罪人という言い方は、犯罪人を連想するからだと思う。しかしながら、罪人と犯罪人とは全然違う。犯罪人というのは、法律を犯す人だから、法律によって罰せられ、時と場合によっては刑務所に行き、前科者と呼ばれなければならない。それに反し、罪人はごく普通の人である。けれども、よく考えてみれば分るように、私たちの心の中には、善からぬ考えがある。主イエスは、憎しみが人殺しの罪を起し、貪りが盗みや姦淫の罪を起すと教えておられるように、私たちの心の中には、人殺し、盗み、姦淫の予備罪とでも言うべきものがある。そういう事態に陥らなかったがために、犯罪人にならなかったにすぎないのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、罪人と犯罪人とは決して同じではないけれども、全然別だとも言いきれない。法律では、こう言う考え方をするものである。罪というものは、罪を犯した人がその償いを完了するまでは、その人に対して力を持って迫ってくる。そういうわけで、だれかに対してひどいことを言ったり、してしまったような場合、どうしてもそれが心に刺さっていて眠れないことがあるだろう。その相手の赦しを得るまで、心に平安はないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、聖書が教えているところでは、罪が支払わなければならない値は死であるというのだから(ローマ6:23)、これでは、私たちの助かる見込みはない。だから、本人ではなくだれか第三者の人が私の身代りに死という償いの値を支払ってくれなければ、私たちの助かる見込みはゼロということになってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな人がいるだろうか。しかしいたのである。それこそイエス・キリストにほかならない。「しかし、私たちは正しい人間でも、だれかに恩顧を与えているような人間でもなく、罪人にすぎないのに、この罪人のために、キリストは死んでくださった。このことによって、神は私たちに対する愛をいかんなく現されたである。」(ローマ5:8 現代訳)。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1855509856648076160?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1855509856648076160'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1855509856648076160'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/9.html' title='罪の現実9 - 罪の性格'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEqPY8Cs8mI/AAAAAAAAAM4/6zK2U9v2Jgs/s72-c/20080603340.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-298112294152767007</id><published>2008-06-04T02:07:00.005+09:00</published><updated>2008-06-04T02:18:04.584+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='祈りについて'/><title type='text'>祈りについて2</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/hontounoinori.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;祈りというものは、私たちの霊の深いところからの自然の発言なのだが、本当の祈りというものは、だれにでも自然に出来るものなのか、それとも、ある特別にすぐれた人とか、ある特別な賜物を与えられている人でなければ出来ないものなのだろうか。聖書はこう教えている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ話している時に、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;祈りは霊の呼吸であると言われる。これは私たちが普段している呼吸から祈りを考えるように促している。私たちに必要な空気は私たちの周りにあって、大気の圧力として私たちの肺の中に入ろうとしている。だから、私たちは呼吸器を開きさえすればよいのだ。むしろ、呼吸を止める時には努力を必要とする。そして、空気が肺の中へ入って来れば、私たちの体は新しい命に溢れるようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょうどそれと同じように、私たちの霊に必要な神は、私たちの問題をご存じであり、私たちを助けようとして、すぐそばにおられるのだ。だから、私たちが心を開きさえすればよいわけである。神は私たちを助けることを願っておられ、拒まなければ、どこにでも入って来られ、渇ききった心に潤いを与え、疲れた心に休みを与え、どんな必要も満たしてくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように、祈りにおいては、私たちの熱心が神を動かすのでもなければ、私たちの力が神を通してほかの人を動かすのでもない。祈りにおいて大切なことは、私たち自身の無力さの自覚である。自分の問題に対して、自分ではどうすることもできないのだという自覚、つまり自分の弱さの自覚が必要なのである。強い者が祈りの力を行使できるのではない。自分の力のなさ、弱さを自覚している者でなければ、どうして神の助けを必要とするだろうか。そして、それがまた信仰者の根本的な姿勢でもあると言うことができる。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「健康な人には医者はいらないが、病人には医者がいります。・・・わたしは自分で正しいと考えている人を招こうと思って来たのではなく、罪人であることを自覚している人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;助けを必要とする病人だけが医者の所に来るのと同様に、霊の助けを必要としている罪人だけが、霊の医者であられる神のみもとへ行くのである。そして神のもとへ行くこと、これが信仰にほかならない。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"&gt;「ほんとうの祈り」(いのちのことば社)&lt;/a&gt;を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-298112294152767007?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/298112294152767007'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/298112294152767007'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/06/2.html' title='祈りについて2'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4128639224684596878</id><published>2008-05-31T23:51:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:19.546+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実8 - 教育によって改善できるか</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEFpGq_98LI/AAAAAAAAAMw/7G61tLjoX1A/s1600-h/080427_101907.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEFpGq_98LI/AAAAAAAAAMw/7G61tLjoX1A/s200/080427_101907.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5206558207559725234" /&gt;&lt;/a&gt;人間をどう見るかということは、文学の分野だけでなく、法律の分野でも同じことが言える。法律において、人間をどう見るかということは、法哲学における人間観でも明らかである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;法律は皆同じような見方をしていると思っている人がいたら、それは大間違いである。人間をどう見るかによって、刑法は全く変ってしまう。たとえば、今の日本の法哲学は、大体においてヒューマニズムの人間観をもって見ている。その証拠に、教育刑という考え方を持ち込んできている。つまり、刑務所において善いことを教えておけば、釈放された後、皆善人になれるという考え方である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、はたして現実はどうであろうか。初犯刑はその大半が累犯刑に進んでいっている。これは、教育によっては、人間を改善することはできないということをあかししてはいないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、教育が有害無益であるなどと言っているのではない。教育の重要性については十分知らなければならないことである。しかし、教育には限界があることも知る必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教育によって、人間の性格を変えることはできない。犯罪を犯した人の性格を変えて、犯罪を犯さないようにすることはできないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教育というものは、文化的遺産の継承を通し、人格と人格の触れ合いを通して、人格形成を行うことであって、それ以上の何ものでもなく、それ以下の何ものでもないわけであるから、人間の性格を変えるということは、教育の本来の目的ではない。ところが、今日の刑法における考え方としては、教育刑と称して、人間の性格は変えられると誤信して、多大な税金をこのことのために投入している。これは、税金の無駄遣いにほかならないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、教育によって人間を変えることができると考えるのは誤解である。人間の持っている問題は、教育などによって変えられるものではない。これは、教育などによって変えられるものではなく、心理学者のウイリアム・ジェームスが「回心の種々相」の中で述べているように、回心、つまり生れ変わるということ以外のいかなる方法によっても変えることはありえないのである。それが、聖書で言う「罪」の本質なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4128639224684596878?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4128639224684596878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4128639224684596878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/8.html' title='罪の現実8 - 教育によって改善できるか'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SEFpGq_98LI/AAAAAAAAAMw/7G61tLjoX1A/s72-c/080427_101907.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7207153175174314959</id><published>2008-05-28T01:24:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:19.894+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='祈りについて'/><title type='text'>祈りについて1</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDw4TrAlIjI/AAAAAAAAAMo/igvnfpozsVo/s1600-h/DSC07137.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDw4TrAlIjI/AAAAAAAAAMo/igvnfpozsVo/s200/DSC07137.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5205097179947278898" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記したり、インターネットのブログで発表したりするようになるだろう。それでも不満足な場合には、一人で物思いにふけるようになり、それを一人言のようにして言うこともあるだろう。人が自分の思いを言い表さずにいられないのは、人格的存在として造られているからである。人格的存在は、いつもほかの人格的存在を必要とし、それと交わらないではいられないのだ。ところが、一人の人には一つの人格しかないから、人はだれでもほかの人を必要とするのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちの霊は、すべての思いを言い表すためには、どうしても完全な人格を求める。自分の悩み、悲しみ、苦しみ、また喜び、楽しみなど、すべてをありのままに注ぎ出して語るためには、その相手が偉大な存在でなければならないのである。このような存在に対する私たちの霊の思いの吐露、人格的交わりが祈りなのである。私たちは元々弱い者だから、偉大なお方である神に依存して生きる存在として造られている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、祈りは人間の最も深く、聖い心からの声であると言うことができる。どんな宗教でも、その最終的に行きつくところは祈りであると言われるが、それは、このような意味から理解することができるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、キリスト教の祈りというものも、そうした人間の側からの要求の表われ、また思いの行きついたところ、つまり極致にすぎないものなのだろうかと言うと、必ずしもそうではないのである。聖書の教える祈りというものは、私たちの霊が神の霊と交わることにほかならない。そうしないでは生きていくことができないように造られている私たちの霊が、造り主であり、天の父であるお方と交わる交わりなのである。だから、祈りとは、しなければならないものではなく、しないではいられないものにほかならない。そういうわけで、クリスチャンが祈らないと、霊的呼吸困難に陥ってしまうのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7207153175174314959?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7207153175174314959'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7207153175174314959'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/1.html' title='祈りについて1'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDw4TrAlIjI/AAAAAAAAAMo/igvnfpozsVo/s72-c/DSC07137.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7597493440641795780</id><published>2008-05-24T22:24:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:20.129+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDgbprAlIiI/AAAAAAAAAMg/5UptvMzCoFM/s1600-h/DSC07080.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDgbprAlIiI/AAAAAAAAAMg/5UptvMzCoFM/s200/DSC07080.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5203939772160352802" /&gt;&lt;/a&gt;芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性の完全な喪失ということになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「僕には人生の目的が何であるかわからない。友達とも、人生の目的は何かということで議論したが、皆の出し合った意見の中で、心から納得できるものは一つもなかった。自分は現在何のために勉強しているのかさっぱり分らない。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「人生て何だろう。人生には果して目的があるのだろうか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてきたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまで生きている、ただそれだけのことではないのか。もしもそうだったら、何もこんなに苦しみながら死を待つ必要はない。さっそく三原山かクリスマス島へでも行った方がよい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この作品の中で、罪のアトニム（反対語）ごっこという遊びをするのだが、その会話の中で、罪の反対語がついに見付からなかったことだ。罪の反対語として法律を持ち出したり、善を持ち出したり、神を持ち出したり、救いを持ち出したり、愛を持ち出したり、光を持ち出して来て、結局分らないのだ。罪の実体が分らなかったというのが、太宰治の本当のところだったように思われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太宰治や坂口安吾や織田作之助という一連の作家の文学のことを、可能性の文学と呼ぶ。それは、彼らの作風が、一様に落ちる所まで落ちて、そこからどこまで上がって来ることができるかに、人間の実力の可能性があるということを問題にしているため、このような呼び方がされる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、この可能性の文学と称せられる一連の文学者は、どういう足どりをたどったろうか。太宰治はついに心中をしてしまうし、坂口安吾は、催眠薬中毒のため東大の神経科に入院してしまうという具合で、最後は皆破滅で終っている。このことは、人間のうち側にあるものの破局性を示しているとは言えないだろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7597493440641795780?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7597493440641795780'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7597493440641795780'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/7-3.html' title='罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SDgbprAlIiI/AAAAAAAAAMg/5UptvMzCoFM/s72-c/DSC07080.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7568795992540792982</id><published>2008-05-20T22:12:00.005+09:00</published><updated>2008-05-20T22:20:48.811+09:00</updated><title type='text'>聖書について4</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seisho.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;私は、翻訳原則を変えて、もう一度翻訳を始めた。いくつかの書は、すでに古い翻訳原則によるものではあったが、翻訳を終っていた。だから、比較的容易に新しい原則に変えて、手直しすれば、それで済んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は元来、短距離型の人間で、長距離はにが手であった。しかし、新約聖書の場合、使徒の働きまで訳し終った時、分量から言うと、全新約聖書の半分以上は訳したことになるのである。思わずこれはいけると思った。というのは、ローマ人への手紙、コリント人への手紙1、2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロ二ケ人への手紙、テモテへの手紙1、2、テトスへの手紙は、古い翻訳原則によってではあったが、翻訳が出来ていたからである。こうして、1978年に、新約聖書の翻訳は終った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これを出すと、大きな反響が起った。ある人は、こんなことを言ってきた。「私はもう年寄です。私の目の黒いうちに、ぜひとも旧約聖書を出していただきたいと思います。」旧約聖書は、分量からすれば、新約聖書の三倍もある。その人の要望にはぜひとも応えてあげたいが、とても出来るものではないと思った。創世記、出エジプト記、ヨシュア記などは、すでに古い翻訳原則で訳してあったので、遅々としてではあったが、まあまあの速さで進められていった。毎日出来るだけ時間を取るようにして、翻訳を進めていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1983年の1月に、それまで日本プロテスタント聖書信仰同盟の実行委員長をしていたのを辞めることになった時、急に時間が取れるようになり、急ピッチで翻訳を進めることができ、その年の3月に翻訳は全部完成してしまった。そうなると、どうしてもその年のうちに出したいと思うようになった。しかし、こんなに分厚いものを突然印刷屋に持って行っても、引き受けてくれる所はなかなか見つからなかった。けれども、引き受けてくれる所が現われ、その年の秋に旧新約聖書を一巻本として出すことができた喜びは何にも代えがたいものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が翻訳に手を付けてから三十年余り経つ。私は改訂したい箇所があると、すぐ赤で訂正し、付箋を付けておく。こうして、改訂すること九回、今日第十版を出している。かなりの箇所が改訂されているので、十版を見ると、以前の版よりはるかに分りやすくなっていると思う。この&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"&gt;「現代訳聖書」&lt;/a&gt;は、日本人のための私のライフワークでもある。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7568795992540792982?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7568795992540792982'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7568795992540792982'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/4_20.html' title='聖書について4'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4698782791358935006</id><published>2008-05-18T07:09:00.007+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:20.431+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実6 - 文学が示している人間の破局性(2)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SC9X4634o7I/AAAAAAAAAMY/NBlMQss-wUQ/s1600-h/DSC07100.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SC9X4634o7I/AAAAAAAAAMY/NBlMQss-wUQ/s200/DSC07100.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5201472730024158130" /&gt;&lt;/a&gt;夏目漱石の「こころ」という作品が、画期的な意味を持つものであるとするならば、その後、そうした人間、あるいは自我というものをそのまま延ばしていった時、どういうふうになるかということを追求していった作家として、私は芥川龍之介を挙げることできると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;芥川の最後の作品であり、文字通り遺稿となった「西方の人」「続西方の人」は、言うまでもなく彼のキリスト論であると言うことができる。彼の生涯を見てみると、ある時期にはキリスト教に傾き、ある時期には仏教に傾き、大きく揺れ動いている。彼にとっては、キリスト教が関心の対象になっていたのではなく、聖書を通して伝達されるキリストが問題であったのである。彼はこう記している。「わたしはやっとこの頃になって四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云う人を愛した。クリストは今日の私には行路のやうに見ることは出来ない」（「西方の人」）という芥川のキリストに対する愛がどのようなものであったかは、もちろん、単純に受け取ることはできないとしても、彼の意識が、キリスト教という宗教に向けられていたのではなく、イエス・キリストに向けられていたことだけは疑うことができないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「西方の人」のキリスト論は、正統的な信仰告白の立場から見ると、それは言語道断というほかないかもしれないが、しかし、芥川が近代日本文学の運動を、ほとんどその絶望にまで突き詰めたところで、主イエス・キリストというお方の前に出たということは極めて重要なことである。しかし、芥川の「西方の人」には、キリストとお会いするという信仰的モチーフが欠如している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;芥川が書いた「西方の人」「続西方の人」というのはイエスのことである。しかし、彼は1927年７月24日の朝、薬を飲んで自殺してしまった。夏目漱石の場合、作中の人物の死を持って終らせることができたものの、芥川の場合、自ら死んでいる。しかも、その枕もとにはたった一冊の聖書が置かれてあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;芥川は、「わたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている」とはっきり書いている。それなのに芥川の場合の問題は、彼が書いた「西方の人」の中のイエスに対する見方にひそんでいる。芥川にとって、イエスは宗教的天才、天才的ジャーナリストでしかないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4698782791358935006?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4698782791358935006'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4698782791358935006'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/6-2.html' title='罪の現実6 - 文学が示している人間の破局性(2)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SC9X4634o7I/AAAAAAAAAMY/NBlMQss-wUQ/s72-c/DSC07100.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8775708416624504768</id><published>2008-05-14T02:18:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:20.493+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='聖書について'/><title type='text'>聖書について3</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCnQdK34o6I/AAAAAAAAAMQ/28lnqRtbYKI/s1600-h/DSC07073.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCnQdK34o6I/AAAAAAAAAMQ/28lnqRtbYKI/s200/DSC07073.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5199916444329485218" /&gt;&lt;/a&gt;私が奇しくも聖書翻訳に携わるようになった経緯はこうである。第二次世界大戦直後の日本では、自力で聖書を印刷し、製本することはできなかった。いきおいアメリカ聖書協会が作って、送ってきてくれたのである。その聖書は、もちろん戦前に作られた文語訳聖書の写真版なのだが、残念なことに、戦後の教育を受けた者には読むことが難しかった。というのは、戦後の教育では、文章を書く場合、助詞を除き、表記法は発音通りにすることになった。つまり、「幸い」は、「さいわい」である。ところが、戦前の日本語表記法はこれとは異なり、この文語訳聖書では「さいはひ」と書いてある。「憐み」も「あはれみ」であり、「あわれみ」ではない。「効力」も「かうりょく」であって、「こうりょく」ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これではだめだと思ったので、早速、私訳をし始めた。もちろん、口語訳である。そうしているうちに、日本聖書協会より「口語訳」が出された（1956年）。これは、かなりひどい訳ではあったが、当時使える聖書としてはこれしかなかったので、使わざるをえなかった。これがひどい訳であるということは、聖書の原文を勝手に変えて訳したり、キリストの権威をあえて認めようとしなかったりしていた。そこで、日本プロテスタント聖書信仰同盟では、日本聖書協会に質問状を提出したにもかかわらず、一向に返答はなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうこうしているうちに、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々の中から新しい聖書翻訳の気運が高まり、アメリカのロックマン・ファウンデーションの協力を得て、「新改訳聖書」を出すことができた（1970年）。私もその時、翻訳者の一人として加わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、日本聖書協会では、カトリックと「共同訳聖書」を作るということに先立ち、アメリカ聖書協会翻訳主任のユージン・ナイダ博士を招いて、「ダイナミック・エクイバレンス」なる翻訳理論の説明会を開き、私もそれを聞いたのだが、従来の翻訳原則が頭にこびりついているため、全く受け入れられなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、リビング・バイブルの序文にケネス・テイラー博士が、このような意味のことを書いておられた。「新約聖書で旧約聖書から引用する時、原文とはかなり違った引用の仕方をしている。このようなことが許されるなら、このリビング・バイブルもありうるはずだ。」この時、私は「ダイナミック・エクイバレンス」の翻訳理論が分ったのである。しかし、リビング・バイブルは厳密には翻訳ではないが、私は新しい翻訳原則で原文から翻訳しようと思った。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8775708416624504768?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8775708416624504768'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8775708416624504768'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/3.html' title='聖書について3'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCnQdK34o6I/AAAAAAAAAMQ/28lnqRtbYKI/s72-c/DSC07073.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3594703460936483310</id><published>2008-05-11T01:10:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:20.766+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実5 - 文学が示している人間の破局性(1)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCXKcO2NueI/AAAAAAAAAMI/egd1HQ5tcIE/s1600-h/DSC07155.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCXKcO2NueI/AAAAAAAAAMI/egd1HQ5tcIE/s200/DSC07155.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5198783931239741922" /&gt;&lt;/a&gt;中世に文学は、神の御前に人間を設定して、その人間がどういう動きをするのかを描いている。しかし近代の文学になると、神を信じる人は必ずしも多くはないので、神との関係において人間を考えるのではなく、人間のうちにあるものをそのまま延ばしていくとどういうことになるのかということをテーマにしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことに日本の近代文学で、その意味から特異な存在として、画期的な位置を占めるのは夏目漱石であると思う。彼の「こころ」という作品があるが、その主人公である「先生」が「私」に語りかける印象深いところがある。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたは未だ覚えているでしょう。私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないと云ったことを。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。あの時貴方は私に昂奮していると注意して呉れました。そうして何んな場合に、善人が悪人に変化するのか尋ねました。私がただ一言金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔を記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時伯父の事を考えてゐたのです。」 &lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;これは、先生という主人公が伯父さん一家にうまくだまされて、伯父さんがその娘と自分を結婚させることにより、自分が父親から受け継ぐはずの財産を取ろうとしていることを知るのである。「アカの他人は信用できない。しかし伯父さんだけは信用できると思っていた」その気持ちが、伯父さんにそむかれて、彼はショックを受けるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は東京の下宿の隣部屋に親友Kを住まわせるのだが、そのKと下宿の娘さんが親しくするのに、心の中で何か穏やかならぬものを感じ始めるようになる。それからしばらくすると、Kからその娘さんに対する愛の告白を聞かされる。彼の心はますます平穏さを失っていく。そして下宿の小母さんに「お嬢さんを下さい」と言うのだが、小母さんからは、「あなたのお友だちにはあなたの方からよく話して下さいよ」と言われるのだが、到底話せない。ある日、お茶飲み話の時か何かに小母さんが、Kにその話をしてしまう。そしてKは思い詰めて、自分の部屋で自殺をしてしまうのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アカの他人も、伯父さんも信用できないところから、今度は自分さえも信頼することができなくなっていくのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3594703460936483310?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3594703460936483310'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3594703460936483310'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/5-1.html' title='罪の現実5 - 文学が示している人間の破局性(1)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SCXKcO2NueI/AAAAAAAAAMI/egd1HQ5tcIE/s72-c/DSC07155.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6091580722410440378</id><published>2008-05-07T12:40:00.003+09:00</published><updated>2008-05-07T12:52:27.033+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='聖書について'/><title type='text'>聖書について2</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seisho.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;聖書は良い本だけれども分りにくいと言われる。毎年わが国では数百万冊の聖書(分冊をも含めて)が人々の手に渡っているというのに、その約九割は読まれていないというのだ。どこにその原因があるのだろうか。それは、読んでも分らないのだと言われているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、どうして読んでも分らないのかと言うと、どうやら翻訳に問題があるらしい。もちろん聖書が本当に分るためには、信仰を持って読まなければならないわけだが、実はそこまで行かないところで、さっぱり分らないのだ。それは、聖書が書かれた時代の風俗や習慣が、今日私たちが生きているわが国のものと全く違っているのに、そのような歴史的、社会的、文化的な違いをほとんど考慮に入れずに訳しているところにあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従来使われていた聖書翻訳の原則は、「原語に忠実」、一点張りだった。「原語に忠実」で何が悪いのかと思う。しかし、原語に忠実だけではだめなのである。むしろ、歴史、社会、文化の違いを考慮に入れた、「原文の意味に忠実」ということが重要なのだ。これは、アメリカ聖書協会の翻訳主任であった言語学者ユージン・ナイダ博士によって提唱された「ダイナミック・エクイバレンス」という翻訳理論である。そしてこれは、キリスト教界においてだけでなく、一般に使われている翻訳理論でもある。キリスト教界では、現にウイックリフ聖書翻訳協会の宣教師がこの翻訳理論を使って、世界各地で聖書を翻訳している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書というものは、元来、それを読むだけで分るものであったはずだ。読むだけでは分らず、その説明文が必要であったとしたら、それをも加えたものを、神は私たちにお与えになったはずである。しかし、神が私たちの救いについての御心を示してくださったのは、あの六十六巻の聖書だけなのだ。だから、当然のこと、聖書はそれ自体、神の御心を明瞭に示していたと言うことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それなのに、今日私たちが聖書を読んでも、読むだけではよく分らないのは、翻訳に問題があることに気付いたのである。「原語に忠実」という翻訳原則を変え、「原文の意味に忠実」という翻訳原則に変えて訳した。とにかく読むだけで分る聖書として、三十年余りの歳月を費やして訳した。それが&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"&gt;「聖書」(現代訳、現代訳聖書刊行会)&lt;/a&gt;である。この翻訳原則に従って訳された聖書に、欧米ではもう何種類も出ていると言うのに、わが国では、この通称&lt;a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"&gt;「現代訳聖書」&lt;/a&gt;一種類のみであることは寂しい限りである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6091580722410440378?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6091580722410440378'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6091580722410440378'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/2.html' title='聖書について2'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7131555190092318136</id><published>2008-05-03T22:18:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:20.985+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実4 - 欲望に彩られている人生</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBxnyYvASjI/AAAAAAAAAMA/nop24mZlzZw/s1600-h/DSC06978.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBxnyYvASjI/AAAAAAAAAMA/nop24mZlzZw/s200/DSC06978.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5196142185409432114" /&gt;&lt;/a&gt;ほとんどの人は何らかの欲望を持って生きている。人間が持っている欲望は、食欲、睡眠欲、性欲といった、いわば動物的な欲望と、ただ一つ人間にだけある、認められたいといった重要感の満足につながる欲望がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、こうしたものだけで、はたして人間が生きる喜びを味わうことができるだろうか。今日、あたかもほとんどの人がそこにしか関心がなくなってしまったかのように、どの小説も性風俗の克明な描写にうつつを抜かしているが、そのようなことで、はたして私たちは本当に満足できるのだろうか。確かに、私たちの欲望はそれによって満たされるが、その時、私たちは嫌というほど魂の飢え渇きを覚えないではいられない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間として生きることに喜びを見出すためには、自分が今生きていることに満足できなければならない。「生きがいの欲求」について、最も深く追究したアメリカの心理学者キャントリルは次のように言っている。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに『成功』であるように見えても、もしあなた自身が経験の『高揚』を感じなければ、それはあなたにとって成功ではない。それゆえ、時折われわれから見ると成功したように見える人が自殺をし、世間が『偉大』であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしいと言ってわれわれを驚かせるのである。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;それでは、自分が今ここにこうして生きているということに、私たちはどうしたら満足できるだろうか。普通私たちは、いつも何かによって、満足がおびやかされている。不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみといったものがそれだ。だから、それらを取り除いておく必要がある。しかしその原因は一様ではないので、いくら原因になりそうなことが起こっても、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の持ち方の方が大切であると言うことができよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、生きていることに満足を与えるということは、生命の流れをスムースにすることなのだから、それを助けるものとしては喜びを挙げることができるだろう。つまり、いつも心に喜びを抱き、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の態度が一番基本的なことである。この欲求不満の処理がうまくいかなかったがために、ノイローゼになる人は決して少なくないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7131555190092318136?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7131555190092318136'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7131555190092318136'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/05/4.html' title='罪の現実4 - 欲望に彩られている人生'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBxnyYvASjI/AAAAAAAAAMA/nop24mZlzZw/s72-c/DSC06978.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7763499486488706768</id><published>2008-04-30T08:22:00.004+09:00</published><updated>2008-04-30T08:32:18.116+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='聖書について'/><title type='text'>聖書について1</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#seishonokenni"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seishonokenni.jpg" border="0" alt="" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンと称する人々の中にも、聖書についての考え方は必ずしも一様ではない。聖書を誤りのない神の言葉と信じる人もいれば、聖書は約40人の人によって書かれたもので、書いた人のそれぞれの信仰がそこに表わされているから、相互に矛盾があってもやむをえないと考えている人もいる。後者の人々にとって、聖書は参考意見以上の何ものでもないから、信仰生活において何を基準にしていったらよいのかということになると、回答はまちまちである。それぞれの神学者の言うことを拠り所とするほかないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに反し、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、聖書に信仰と生活の基準を見出し、それに従って生きていくことになる。私はこの立場に立つ。この二つの立場のうち、なぜ私がこの立場に立つのかと言うと、それが主イエス・キリストの立場であり、主イエスの聖書観だからである。主イエス・キリストはこのように言っておられる。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「わたしは、律法や預言者と呼ばれる旧約聖書の教えを不要なものとするために来たのだとは思わないでください。むしろ、わたしは旧約聖書を行うために来たのです。確かに、旧約聖書のすべては、たとい天地が滅んだとしても、必ず実現されます。それほど確かなものです。」(マタイ5:17-18)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;それだけではなく、新約聖書の記者たちは旧約聖書を引用している時、「神がこう言っておられる」という意味で使っている。必ずしも神が語っているところでない箇所を引用している場合も、「神は・・・仰せられた」(ヘブル1:5-13）と述べている。つまり、主イエス・キリストと共に、聖書記者たちは皆、聖書を神の言葉と信じていたと言うことができるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書が誤りのない神の言葉と信じた人々がキリスト教会の歴史の中核を形成してきた。古代の多くの教父たち(キリスト教会の指導者たち)を初め、宗教改革者たち、近代における多くの外国宣教師たちは皆そうであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、何か問題が起ると、神の言葉である聖書に解答を求めて、解決することができ、勝利者として歩むことができる。これほどすばらしいことはない。死の恐れの問題も、人として生きる喜びについても、聖書から解答が与えられる。聖書が神の言葉であるということを信じる根拠について、さらに深く知りたい方は、拙著「聖書の権威」(羊群社)を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7763499486488706768?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7763499486488706768'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7763499486488706768'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/1_30.html' title='聖書について1'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5258283012592690942</id><published>2008-04-26T23:27:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:21.130+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実3 - 悔いのない人生</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBM89YvASiI/AAAAAAAAAL4/ATURnVFP_LI/s1600-h/080420_161936.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBM89YvASiI/AAAAAAAAAL4/ATURnVFP_LI/s200/080420_161936.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5193561820597602850" /&gt;&lt;/a&gt;私たちの人生はたった一度しかないもの、やり直しのきかないものだ。このたった一度しかない人生を、私たちはどのように送るべきだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの若い人たちの願いは、きよく、正しく、美しく生きたいということだろう。若い人たちは正義にあこがれ、純粋を求め、真実でありたいと望んでいる。これがまだ世間に出て汚れていない人たちの姿である。しかし、この人たちが世の中に出て、何年、何十年とたっていくと、ほとんど一人の例外もなしに不純になり、醜くなり、うそと偽りで固めた人生へと陥ってしまう。それはなぜなのだろうか。一生涯、きよく、正しく、美しくありたいという願いを貫いていくことはできないものなのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わが国では、きよさ、正しさ、美しさというものは無力なもの、それに反して力のあるものは、多少、不純でも醜くても、汚れていても仕方がないものという考え方が一般的だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;きよく、正しく、美しくありたいという願いを生涯貫き通す道は決してないわけではない。一時、「三十以上の人は信用するな」という言葉がはやったことがあったが、三十歳以上、つまり中年以後の大人だけが不純なのだというのだろうか。そのように言う青年たちの心の中に、すでに不純の種は蒔かれているのである。若い人たちは、まだ発芽していないのを見て、自分たちのうちに正義や真実や純粋だけしかないと思い込んでいるけれども、やがてその不純の種が発芽し、花が咲き、実を結ぶのである。このように、若い時には、きよく、正しく、美しくありたいとあれほど熱望していた思いが、いつしか消えて、現実派となり、醜くなり果てていくのではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことが分ると、決して自分の力で、きよく、正しく、美しくありたいという願いを一生涯貫き通し、実行できるなどとは言えないことが分る。私たちを不純にし、醜くし、堕落させてしまうものを取り除くことは、自分の力ではできない。というのは、それが罪だから。罪は、それを犯した人が自分でそれを取り除くには、その罪の償いがなされなければならない。罪はいつでもそれを犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。その償いが終るまで、その力は決して失われることはないからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5258283012592690942?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5258283012592690942'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5258283012592690942'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/3.html' title='罪の現実3 - 悔いのない人生'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SBM89YvASiI/AAAAAAAAAL4/ATURnVFP_LI/s72-c/080420_161936.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7248213541498071567</id><published>2008-04-23T00:35:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:21.358+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 8/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SA4GaIvAShI/AAAAAAAAALw/4B7NGK69W08/s1600-h/080415_175317.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SA4GaIvAShI/AAAAAAAAALw/4B7NGK69W08/s200/080415_175317.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5192094466495760914" /&gt;&lt;/a&gt;ある胃潰瘍の患者と会った時、彼がその雇主をものすごく憎んでいることが分った。彼が働いている店の主人は、ひどい男で、労働法に引っかからないようにして彼を苦しめるというのだ。そのため、彼は主人を憎むようになり、その憎しみが心の中に積り積って、彼の体を悪くしたことが分った。医者も彼の胃潰瘍の原因が精神的な抑圧によるものだと言ったそうだ。激しい憎悪がついにこの人の胃に潰瘍を作ってしまったわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼に会った時、私はこう言った。「あなたの立場に立って考えてみると、本当にお気の毒です。しかし、あなたの解決はただ一つしかありません。それは、仕返しをしようと思わないことです。聖書にはこう教えられています。『主は仰せられる、「仕返しはわたしのもの。わたしが報いをする。」』(ローマ12:19)。あなたの憎しみを神にお任せし、あなたの精神的な負担を軽くされることです。あなたの胃潰瘍の本当の原因は憎しみなんですから、胃潰瘍になった個所を、手術して取り去っても、心因を取り除かなければ、決して根治はできませんよ。あなたの憎しみ、仕返しを神様に任せてしまうことです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その人はこう言うのだ。「どうしてそんなことができるんですか。」そこでわたしはその人にこう言った。「その相手の人を憎む代りに、その人のために祈り、その人が祝福されるように神様に願うことです。」彼はそれを聞くと、驚いた様子で私の方を見た。「そんなことができるもんですか。あんな奴のために祝福を祈れって言うんですか。そんなことができるくらいなら、こんなに苦しむもんですか。」彼は吐き出すように、こう私に言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はさらに言った。「それ以外の方法では、決して治りませんよ。この愛の力によって相手を打ち負かすというこの方法こそ、最も正しい医学的な方法なのです。精神医学においては、実はこの方法しかないんですよ。「善によって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)という聖書の御言葉をご存じですか。敵に対して、あなたが善意を持ち始めると、あなたの心から恨みや憎しみが消えて、心には平安が与えられるのです。あなたの心から緊張がなくなると、もう二度と胃潰瘍によって苦しめられることはないでしょう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この人は、自分でいろいろ考えたすえ、もう一度私の所へ来て、「どうしても治りたいので、聖書が教えている『自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい』(マタイ5:44)を実行したい」と言って来られた。そして、ついに胃潰瘍の苦しみから解放されることができた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7248213541498071567?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7248213541498071567'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7248213541498071567'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/88.html' title='健康について 8/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SA4GaIvAShI/AAAAAAAAALw/4B7NGK69W08/s72-c/080415_175317.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6404392414977052328</id><published>2008-04-20T00:05:00.006+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:21.562+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAoR1DII-dI/AAAAAAAAALo/7kURlwzMEbQ/s1600-h/080415_175220.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAoR1DII-dI/AAAAAAAAALo/7kURlwzMEbQ/s200/080415_175220.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5190981123568105938" /&gt;&lt;/a&gt;今日どれほど多くの人が生きる喜びにあふれて生きているだろうか。この生きる喜びというのは、生きていること自体についての喜びだから、いわゆる官能的な喜びとか快楽などとは性質の違うものである。今日多くの人々が、人生にも仕事にも家庭にも喜びを見いだすことができず、快楽にそれを見いだそうとしていることは悲しむべきことである。確かに、快楽もまた生命力の発現であり、賛歌であるわけだが、人間が人格的な存在である以上、その人格から切り離された満足は、いわば線香花火のようにはかないもので、束の間の華々しさでしかない。人格の大切な部分が満たされないままの満足というものは、必ず後に苦いものが残る。「快楽尽きて哀愁を知る」のである。快楽の後の言いようのない倦怠感と空虚感を一度でも味わったことがあるのであれば、そのことは実感として分ることだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生きる喜びというものは、いつでも未来に向かって明るい光であって、そこに希望と信頼の心があるものだ。そのような意味で、あなたは生きているということに喜びを持っておられるだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、本当の喜びというものは、利他的な要素を持っている。だから、生きる喜びを持っている人は、ほかの人に対して恨みやねたみを感じにくく、むしろ寛大であることができる。たとい自分よりも幸福な人がいるのを知っても、その人に対して憎しみを抱くようなことがない。というのは、生命が充実しているからである。むしろ、自分がこのように生きる喜びにあふれていることを、当然のこととして受け取ってもよいものかどうかとまどうことさえあるくらいである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生きる喜びというものは、人生の困難に耐えることができ、困難があっても、それでへこたれてなどしまわず、かえって生きがいを覚えるものである。どんな人でも、自分が何かに向かって前進していると感じるなら、その努力や苦しみも、やりがいのあるものとして受け止めることができ、むしろ生命の充実感を味わうことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような充実感をあなたは持っておられるだろうか。人間として生きるというこの重要な問題は、必ず一度は考えてみなければならない問題である。これを避けて通ることは、人間として生きることを避けていることにほかならない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6404392414977052328?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6404392414977052328'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6404392414977052328'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/2.html' title='罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAoR1DII-dI/AAAAAAAAALo/7kURlwzMEbQ/s72-c/080415_175220.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4714385854130391828</id><published>2008-04-16T00:41:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:21.766+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 7/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SATN_m7kTQI/AAAAAAAAALg/zGatNXnn1J4/s1600-h/080327_143549.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SATN_m7kTQI/AAAAAAAAALg/zGatNXnn1J4/s200/080327_143549.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5189499163303496962" /&gt;&lt;/a&gt;フランスのハンス・レリー教授が、1954年に、フランスの生物学会に、今日レリー現象と呼ばれるものを発表したことがあった。これは、チフス菌を使って実験したのであるが、彼は細菌の感染や発病は、自律神経の刺激によってはじめて起るもので、もしも自律神経が不動の状態であれば、細菌感染による発病はないはずだというものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それまでは、腸チフスにせよ、結核にせよ、ヂフテリーにせよ、百日咳にせよ、こういう伝染性の病気は、それぞれにチフス菌、結核菌、ヂフテリー菌、百日咳菌によって起るものだと考えていたのだが、レリー学派の研究によると、このような病気は、特別に異なった病原菌によらなくても、自律神経の刺激によって起される病理現象だと言うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らの実験によると、チフス菌によらなくても、チフス菌が刺激する自律神経の個所をピンセットでつまんだだけで腸チフスと同じような症状が起ったと報告している。だから、レリー学派の研究によると、細菌そのものの作用は、自律神経を刺激するだけの役割しか果していないということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;レリー学派の研究によると、人体にはクロールプロマジンという自律神経遮断剤があって、病原菌が体内に進入してくると、すぐにこのクロールプロマジンが自律神経を守るというのだ。たといあの猛毒な黄燐（それを主成分としたものが、「ねこいらず」である）さえも無害にしてしまうと報告している。黄燐というのは、肝臓を黄色にして脂肪肝にしてしまう猛毒を持っているのだが、クロールプロマジンで自律神経を遮断しておくと、全然影響がないというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新約聖書の中の「使徒の働き」において、パウロがローマに捕えられて護送されて行った時のことが記されている。その中にこういう個所がある。パウロがマルタ島でたき火に当っていた時、くべた柴の中から出て来た毒蛇にかまれた時のこと、その土地の人々はパウロがその毒のために倒れてしまうに相違ないと思って見ているのだが、パウロは毒蛇にかまれながらも、倒れることも死ぬこともなかった。それは、彼がローマを見るまでは決して死ぬことはないと確信していたからである。しかも、その彼の確信は、単なる彼の思い込みによるものではなく、聖霊の神によるものであったのである(使徒28:1-6、19:21、27:24)。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4714385854130391828?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4714385854130391828'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4714385854130391828'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/78.html' title='健康について 7/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SATN_m7kTQI/AAAAAAAAALg/zGatNXnn1J4/s72-c/080327_143549.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8405228020538862302</id><published>2008-04-12T22:17:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:22.024+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='罪の現実'/><title type='text'>罪の現実1 - 失われてゆく純粋さ</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAC3qMXtgCI/AAAAAAAAALY/P3cpNCCoc24/s1600-h/080411_102229.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAC3qMXtgCI/AAAAAAAAALY/P3cpNCCoc24/s200/080411_102229.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5188348706233876514" /&gt;&lt;/a&gt;私たちは一人前の大人になっていくにつれ、大切なものを失っていっていることにどれだけ気付いているだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;有名な女流文学者パール・バックが彼女の経験を述べている本がある。彼女の少女時代の夢は、自分の家が子供たちで一杯になることだったそうだ。ところが、後になって結婚すると、彼女には後にも先にもたった一人の娘しか生れず、こともあろうに精神障害児だったのだ。そのことを知った時の心境を彼女はこう記している(「母よ嘆くなかれ」)。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「避けることのできない悲しみ、どんなにしてこの悲しみに耐えることができるかを学ぶのは、やさしいことではありませんでした。今日になってこそ、それをよく振り返ってみることができますが、それまでにいたるのは、きびしい越えがたい道でした。両親よりも長生きするかもしれない子供の生命を、どうしたら守れるかという問題にくわえて、私たち自身のみじめな生活を一体どうしたらよいだろうかという問題まで、のしかかってくるからです。人生のすべての明るさも、親としての誇りもなくなってしまうのです。・・・しかし多くのことを私は娘から学びました。とくに、娘は私に忍耐することを教えてくれました。・・・私が歩まなくてはならなかったこの最も悲しみに満ちた道を歩む間に、私は人の精神はすべて尊敬に値するということを知ったのでした。すべての人間は平等であり、そしてまた人間として同じ権利を持っているということをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でした。・・・私はどんな人でも、人間であるかぎり、他の人々より劣等であると考えてはいけないと、そしてすべての人はそのいるべきところと安全を守られなくてはならないと思うようになりました。・・・娘はまた知能が人間のすべてではないことも教えてくれたのです。娘の性質の中には、何か不思議な真実なものがあって、あらゆるうそがはっきり分るようでした。そして、どんなうそも彼女は決して許しませんでした。何かすぐれた純粋さを、娘は持っておりました。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;今日、私たちの間には、真実とか純粋というものが失われ、損をするか得をするかという損得勘定しか優先しない恐るべき功利主義を見るのは何とも悲しいことではないだろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8405228020538862302?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8405228020538862302'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8405228020538862302'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/1.html' title='罪の現実1 - 失われてゆく純粋さ'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/SAC3qMXtgCI/AAAAAAAAALY/P3cpNCCoc24/s72-c/080411_102229.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6114999359705573528</id><published>2008-04-08T22:02:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:22.253+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 6/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_tujHUQnCI/AAAAAAAAALQ/DY5iJP8dwCw/s1600-h/080327_144522.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_tujHUQnCI/AAAAAAAAALQ/DY5iJP8dwCw/s200/080327_144522.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5186860945385757730" /&gt;&lt;/a&gt;前回、看護師に腹を立て、彼女を憎んでいた一人の病人の話をした。その病人が、聖書の教えである「あなたの敵を愛しなさい」という教えに従い、その看護師を憎むことをやめたとたん、病気は治ってしまったと言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、ある人はこんなことを言ってきた。「憎しみを自分で取り去るなんてことはそんなに簡単に出来ることではないでしょう。そんなことをするよりも、コーチゾンというような薬を注射するなり、内服するなりした方が、よっぽど手っ取り早いのではありませんか。」確かに効き目は早いかもしれない。しかしながら、これは一時的なことであって、それをやめると、俄然病気は悪化してくるのだ。そのため、このごろでは良心的な医師は、なるべくそのようなものは使わないようにしている。これは、医療的にコーチゾンをやっても、嫌な看護師の顔を見れば、それはストレスになり、結局ストレスそのものは依然として加わり続けるわけだから、コーチゾンをやめた時には、目も当てられない病状になってしまうのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、セリエ学説が正しいものであるとすると、ほとんどすべての病気は、心に本当の平安が与えられれば治ってしまうものであるということになる。そして、感情の刺激になり、ストレスを起す原因となるような外的事情や環境をすべて取り除いてしまえば、どんな病気でも治るはずだ。けれども、そんなことは全く不可能なことで、結局こうした問題の解決は、外的事情や環境がどうであろうと、そういう嫌な情況に打ち勝つ信仰による以外にはないということになるだろうと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間はだれでも弱い。だから、周囲の外的事情や環境に左右されがちである。私も全く同じで、私が病弱であったのは、そうした理由からであったと思う。しかし、クリスチャンになり、信仰を持つようになると、元気になっていった。周囲の外的事情がどうであろうと、信仰によって健康になっていった。健康を保持するための四つの原則がよく分り、これを励行してから変った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は今でも玄米菜食をし、よく寝、週に二回ぐらい水泳をしている。体は疲れたら寝れば回復するが、精神的な問題に当面した時は、神のみもとに行って、重荷を下すことにしている。こうして、いつも心に平安と喜びを持って生きているので、八十歳の今も元気で現役として働いている。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「心の健康・体の健康」（恩寵社）を参照されたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6114999359705573528?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6114999359705573528'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6114999359705573528'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/68.html' title='健康について 6/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_tujHUQnCI/AAAAAAAAALQ/DY5iJP8dwCw/s72-c/080327_144522.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7595109301744866462</id><published>2008-04-06T04:00:00.005+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:22.472+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか9 - 罪意識を持っているから(2)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_fN-nUQnBI/AAAAAAAAALI/GkxGUAgxuAo/s1600-h/080329_110600.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_fN-nUQnBI/AAAAAAAAALI/GkxGUAgxuAo/s200/080329_110600.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5185839971529956370" /&gt;&lt;/a&gt;私たちは自分に対する深刻な嫌悪の泥沼からどうやって這い上がってくることができるだろうか。自分に対する嫌悪の念から自分を憎む余り、自殺するかもしれない。またある人は、酒やタバコや薬物の中に身を置いて、それをごまかそうとするかもしれない。またある人は、人間なんてどうせこんなものなのさと考えて、すべてを浅くごまかしながら生きて行くかもしれない。またある人は、自分で発見した自分の姿をそっと隠し、再び仮面を付けて生きていくかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;けれども、自分の厳しい現実の醜い姿を、そのままありのままに受け入れざるをえない。そういう生き方をする人もいると思う。しかしいずれにしても、そういう時に取る態度が私たちの人生を決定的なものとしてしまうことを覚える必要がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある人は、自分が過去においてしたある事のために、罪意識を覚えるかもしれない。ある一人の人のことだが、この人は第二次大戦の時、中国へ行って、そこでただ一度だけ人殺しをした。 彼は斥候に遣わされて行き、ふっと姿を現わしたら、向こうにも斥候らしい兵隊が姿を見せた。殺すか殺されるという土壇場で、その人は銃で敵方の斥候を撃ったのだ。自分の見ている前で相手は倒れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は戦争が終り、復員して帰って来た。しかし帰っては来ても、人を殺したという思い、心の中の罪意識を、どうすることもできなかった。ほかの人は彼にこんなことを言ってくれた。「あなたが悪いのではない、戦争が悪いのだ。」また別の人は彼にこんなことも言ってくれた。「あなたよりももっと多くの人を殺している人がいくらもいるんじゃないか。あなただけではないんですよ。」いくらほかの人からそのようなことを言われても、心に平安は来なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その人は、普通の仕事に就くことができず、奉仕的な仕事に就いた。けれども、そんなことによって、自分の過去を償うことはできなかったのである。主イエス・キリストによる罪の赦しの宣言を得るまで、彼は本当の人生を回復することはできなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは罪意識を持ったままであれば、幸福になることはできない。多くの女性が堕胎をし、それが殺人行為だということが分っているだけに、水子供養をしたりするが、そんなことによって良心の呵責が取り除かれることはありえないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7595109301744866462?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7595109301744866462'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7595109301744866462'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/9-2.html' title='人間はなぜ幸福でないのか9 - 罪意識を持っているから(2)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_fN-nUQnBI/AAAAAAAAALI/GkxGUAgxuAo/s72-c/080329_110600.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3474422719459603652</id><published>2008-04-01T21:57:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:22.676+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 5/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_I2O3UQnAI/AAAAAAAAALA/rkw0UbKBE1Q/s1600-h/080327_144438.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_I2O3UQnAI/AAAAAAAAALA/rkw0UbKBE1Q/s200/080327_144438.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5184265750051855362" /&gt;&lt;/a&gt;1946年に、カナダのハンス・セリエ教授がストレス学説を発表した。それによると、風邪は寒さが誘因となり、風邪のばい菌が感染することによって起ると考えられていたものが、実は寒さやばい菌はストレスを起させる原因としての役割を果すだけで、ある人はそれによって感冒を起し、ある人は扁桃腺炎を起し、ある人は腎臓病を、ある人は喘息を起すというのだ。もちろん、このことはそれまでの医学でも一応は認められていたのだが、それらの風邪や扁桃腺炎や喘息や腎臓病なども、結局は感情の刺激によって起るものだという指摘は、それまでの医学の病因論を根底から揺るがすことになったわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、感情的な刺激はいつでも病気を起させるのだろうか。ここのところはちょっと専門的になり難しくなるので、ごく簡単に説明すると、こうなる。たとえば、体の中にストレスが加わった場合、体はむざむざとそのストレスを起させるものの犠牲になって、病気にかかってしまうものなのかと言うと、そうではなく、そこにはこれを防衛するものがある。それは、副腎皮質ホルモンがが分泌されるわけで、これは脳下垂体から向副腎皮質ホルモンという内分泌物質を出し、それが副腎皮質へ行き、副腎皮質ホルモンを出させるのだ。この脳下垂体に命令を下すのが間脳、つまり自律神経中枢だ。だから、この間脳と脳下垂体さえしっかりしていれば、どんなにストレスが加わっても、びくともしないということになるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうしたことから分ると思うが、病気にならないためにも、また病気が治るためにも、間脳という感情神経中枢が平静であることがどうしても必要なのだ。そうすると、どうやら病気になったり、病気が治ったりするのは、その人の心に平安があるかどうかということになる。それをさらに突き進めていくと、信仰の問題になる。信仰があれば、心に平安が与えられ、そうすれば、病気にかかることもなく、たとえかかっても治りやすいのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある人が病気になり、いくら薬を飲んでもなかなか治らない。よく聞いてみると、いつも自分の所に来る看護師を憎んでいたのである。彼女が不親切だったからである。ところが、聖書の中に、「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:27)と教えられていることを知って、今まで憎んでいたその看護師を憎むのをやめようと思い、そのことを決心したら、とたんに病気は治ってしまったという話がある。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3474422719459603652?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3474422719459603652'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3474422719459603652'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/04/58.html' title='健康について 5/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R_I2O3UQnAI/AAAAAAAAALA/rkw0UbKBE1Q/s72-c/080327_144438.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7945478389694863970</id><published>2008-03-30T08:16:00.005+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:23.224+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか8 - 罪意識を持っているから(1)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-7RSnUQm_I/AAAAAAAAAK4/uCsKyXMiVek/s1600-h/080328_1608~01.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-7RSnUQm_I/AAAAAAAAAK4/uCsKyXMiVek/s200/080328_1608~01.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5183310338871827442" /&gt;&lt;/a&gt;私たちの心の中に罪意識があると、私たちは本当に幸福であることはできない。カナダの精神医学者ペンフィールドは、大脳を手術している患者に対して、ある実験をした。そして、「人間の大脳皮質の中には、過去の一切の経験が、ちょうどテープ・レコーダーに録音されているように、正確に記録されている。もしもある個所に刺激を与えると、その時の感情をそのまま伴って、それを思い出すようになる」と言っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もしも私たちが何かのはずみで、その大脳皮質に刺激が加えられるようになると、ちょうど昔こわれたレコードが同じ箇所を繰り返し鳴らしたように、思い出したくないその出来事が、その時の感情を伴って思い浮かんでくるようになるというのである。本当に恐ろしいことである。そのために、ついに生きていくことができなくなって、自殺する人もいるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは普通、罪意識ということを考える時に、どういうふうにして罪意識を持つのだろうか。いろいろな場合があると思うけれども、普通私たちがなんでもなく過している時には、自分には何らかの値打ちがあるとか、あるいはだれかが自分に対して期待している期待に、ある役割を果している、というようなひそかな自信を持って生きているものである。だから、生きていけるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の家族が愛してくれている、だから、自分は愛される値打があるのだ、というようなひそかな自信を持っている。ところが、何かのはずみでその自信を失ってしまった時、たとえば、病気になった時とか、失業してしまった時とか、あるいは何か失敗をしてしまったというような時、家族のだれも今までのように自分を見てくれない、職場でも学校でも今までのように自分を見てくれない。それで、今まで持っていた自信がガタガタと音を立ててくずれていって、一人ぼっちになってしまう、という孤独の中に取り残された時、私たちは自分のうちにあった生存目標を失い、ただいたずらに過去を顧みて、悔恨の念に埋もれていくものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その時、今まで気付かなかった、自分のありのままの姿に気付く。罪の問題にこうして私たちはぶつかっていく。自分がこんなに醜い者であったのかという自分の本当の姿をそこに見出す時、私たちは自分の前に自分が立つ瀬がなくなってしまうのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7945478389694863970?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7945478389694863970'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7945478389694863970'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/7-1.html' title='人間はなぜ幸福でないのか8 - 罪意識を持っているから(1)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-7RSnUQm_I/AAAAAAAAAK4/uCsKyXMiVek/s72-c/080328_1608~01.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3734979035828257245</id><published>2008-03-26T03:31:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:23.503+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 4/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-lHD3UQm-I/AAAAAAAAAKw/JE1Tb4iPQNA/s1600-h/070405_141449.JPG"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-lHD3UQm-I/AAAAAAAAAKw/JE1Tb4iPQNA/s200/070405_141449.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5181750977980570594" /&gt;&lt;/a&gt;1984年9月19日の日本経済新聞の朝刊は、当時国立がんセンターの疫学部長をしておられた平山雄博士が9月18日にまとめた疫学調査の結果の発表について報じていた。これは、生活習慣とがん発生率の関係について総合的に調べた調査であって、世界においても初めての疫学調査であった。ここで、非常に注目されるべきことは、緑の野菜ががんの予防にも消去にも大きな効果があるということである。これは、緑の野菜の中にある葉緑素にその効果があるということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、その葉緑素とはどういうもので、どういう働きをするのだろうか。葉緑素というのは、植物の中に存在する、人間で言えば血にあたるものである。それは、植物と人間におけるそれぞれの役割が極めてよく似ているということと、この両者の化学構造が良く似ているということから、そのように言える。それだけでなく、葉緑素は、血液を新しく造り出す素材として極めて有効であるという研究がドイツのビュールギーとその門下の研究者によってなされたことが、この両者の関係を深めるのに役立った(1932年)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葉緑素も血色素も、どちらもポルフィリン核構造をしていて、ただ違うのは、葉緑素の方は、中心原子がマグネシウムであるのに対して、血色素の方は鉄であるという点である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葉緑素と血色素は構造が似ているだけでなく、その働きもよく似ている。葉緑素が行なっている光合成は、炭酸ガスと水を使って糖を作り出すわけだが、血色素が重要な働きを担っている体細胞の中の組織呼吸とはちょうど逆で、ここでは糖を水と炭酸ガスに分解し、その過程でエネルギーを引き出す働きをする。このことから分ることは、この両者は補い合うように出来ているということである。つまり、血色素づくりの母核としての物質、これが葉緑素であるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葉緑素は、疲労のために動かなくなった神経や筋肉、心臓の働きを回復させる働きをし、また理想的な制菌剤でもある。またがんにも効く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;葉緑素のポルフィリンは、人間の腸の壁を通して赤血球という赤い色素のヘモグロビンのポルフィリンに移行して行く。このヘモグロビンのポルフィリンは、体細胞の生存、とくに組織呼吸に主役を演じているヘミン酸素のポルフィリンとして受け継がれていく。だから、葉緑素の作用は全身的なものになり、緑の野菜を多く採る人は、がんになりにくいし、がんになっても治癒しやすいのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3734979035828257245?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3734979035828257245'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3734979035828257245'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/48.html' title='健康について 4/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-lHD3UQm-I/AAAAAAAAAKw/JE1Tb4iPQNA/s72-c/070405_141449.JPG' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6298970464965387676</id><published>2008-03-23T01:35:00.002+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:23.717+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか7 - エゴイズムがあるから(2)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-U2B3UQm9I/AAAAAAAAAKo/rPPSrUqhq0w/s1600-h/DSC06660.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-U2B3UQm9I/AAAAAAAAAKo/rPPSrUqhq0w/s200/DSC06660.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5180606352016317394" /&gt;&lt;/a&gt;芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」という作品を書いて、人間のエゴイズムの問題をえぐり出すようにして描いている。自分だけが助かればよいという人間のエゴイズムが、いかに恐ろしいものであるかということを、この作品は私たちに訴えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある日のこと、お釈迦様が極楽の蓮の池のふちをふらふら歩いていて、ふと下を見ると、蓮池の下の地獄で、かん[牛偏に建]陀多(かんだた)という男が、ほかの罪人と一緒にうごめいているのが目に留まった。このかん陀多という男は殺人をしたり放火をしたりした極悪人なのだが、それでも一つだけ善行をしたことがあった。それは、ある時、深い森の中で、小さな一匹の蜘蛛が路ばたをはっているのを見かけたのだが、かん陀多はその時、足を上げて踏みつぶそうとしたのに、ふと、これも小さいながら命あるものに違いないから、と思い返して、その蜘蛛を助けてやったことがあった。お釈迦様はそのことを思い出して、かん陀多を地獄から助けてやろうと考え、極楽の蜘蛛の糸をそっと地獄へ下ろしてやる。地獄の苦しみの中からその蜘蛛の糸を見つけたかん陀多は思わず手を打って喜び、その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐって登って行った。そして、やっと地獄から抜け出すことが出来そうになった時、ふと下を見ると、数限りもない罪人たちが、自分の登ってきたあとをつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一心によじ登ってくるのだ。自分一人でさえ切れそうな細い糸なのに、そんなに沢山の人がすがりついたら、きっと糸が切れてしまうにちがいない。そうすれば、折角ここまで登ってきた自分までもが、また元の地獄に落ちてしまわなければならない。とそう思ったかん陀多は、大声を出して叫ぶのだ。「こら、罪人ども、この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ。」すると、そのとたんに蜘蛛の糸はプッツンと切れて、かん陀多は再び地獄の底に落ちてしまったというのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「自分さえ」というエゴイズムこそ、私たちの人間のありのままの姿ではないだろうか。初めのうちは対人関係の中で相手が悪いと言ってほかの人を責めるのだが、そのように相手を責め、自分への責任を回避しようという責任転嫁と自己弁護の中に、自分のエゴイズムがのぞいているのではないだろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6298970464965387676?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6298970464965387676'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6298970464965387676'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/7-2.html' title='人間はなぜ幸福でないのか7 - エゴイズムがあるから(2)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R-U2B3UQm9I/AAAAAAAAAKo/rPPSrUqhq0w/s72-c/DSC06660.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-4970594175347003148</id><published>2008-03-19T01:36:00.002+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:23.838+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 3/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9_x8pPrTSI/AAAAAAAAAKg/otxA1sCHgTY/s1600-h/DSC06611.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9_x8pPrTSI/AAAAAAAAAKg/otxA1sCHgTY/s200/DSC06611.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5179124120665410850" /&gt;&lt;/a&gt;日本でも長寿村と呼ばれる所が以前には確かにあった。それは、山梨県棡原村(上野原市)である。そこを研究した東北大学名誉教授の近藤正二博士によると、その土地で取れた未加工の食品を食べていたからだと報告されている。その後、そこに住んでその研究を進めている古守豊甫博士の報告によると、棡原村では、以前は次のような物を食べていたということである。そこでは、米は取れないので、昔から粟、ひえ、きび、とうもろこし、そば、麦、大豆などの雑穀に、芋類(じゃがいも、さといも、さつまいも)、こんにゃく、かぼちゃ、そのほか野菜、山菜は、季節に応じて豊富に採っていたそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;粟、ひえ、きび、とうもろこしは餅について食べ、大麦は押麦にしたり、引き割りにし、腹もちがよいので重労働の時に食べたというのである。小麦は粉にして、ほうとう(これは、山梨の郷土食で、うどんを野菜と一緒に、いきなりみそ汁の中に入れて煮込んだもの)と、まんじゅうにして食べていたということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、動物性蛋白質の肉や魚は、ほとんど口にすることはなかったというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、この山村にも道路が整備され、自動車が通るようになると、肉や魚や白米などが持ち込まれるようになった。そうすると、若い人々の中では、肉食、白米食をする人が増えていった。その結果、どういうことが起ったかと言うと、そういう人々に高血圧の肥満者が目立って増え、脳溢血で倒れる人がどんどん出てきた。そして今日では、その脳溢血で倒れた人たちの面倒を、その両親達が見ている有様だというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本における有数の穀倉地帯には短命が多いと近藤正二博士は「日本の長寿村・短命村」の中で書いている。具体的には、秋田県、山形県が短命県なのである。米が豊富なだけに十分精白し、たらふく食べ、畑が少ないため、野菜類は必要量を満たしていないのである。米どころでありながら長寿村である鳥取県の大山町や、徳島県の藍園村、学島村などは、売り物である米は食べず、自分たちはさつまいも、麦などを食べ、田のあぜ道に大豆やニラなどを植え、畑で野菜を作るなどして、白米を食べずに、それらのものを十分食べている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;島根県の隠岐の島は沖縄と並び、健康長寿者の多い所だが、彼らは大豆製品を毎日食べている。豆腐、納豆、あるいは、つぶし豆を乾燥させた打ち豆などである。このように食べ物が人の健康に与える影響は極めて大きい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-4970594175347003148?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4970594175347003148'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/4970594175347003148'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/38.html' title='健康について 3/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9_x8pPrTSI/AAAAAAAAAKg/otxA1sCHgTY/s72-c/DSC06611.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8313490174148412116</id><published>2008-03-16T10:00:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:24.215+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか6 - エゴイズムがあるから(1)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9xyn5PrTRI/AAAAAAAAAKY/FttOU9lPkik/s1600-h/DSC06312.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9xyn5PrTRI/AAAAAAAAAKY/FttOU9lPkik/s200/DSC06312.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5178139701276265746" /&gt;&lt;/a&gt;エゴイズムとエゴティズムとは違う。エゴイズムは利己主義のことで、エゴティズムは自己中心主義のことである。この両者の違いについてまず説明し、エゴイズムが人間を幸福にしないのだということをはっきり覚えておこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間はだれでも自分というものを持っている。自分がなくなったら、もはや生きていくことはできない。これは、自己中心ということである。私たちがそう簡単に死ねないのも、この自分というものがあるからだ。また主体性ということは、これに関係のあることで、自分というものがしっかりと確立していることを指している。だから、自己中心そのものを悪と考えるのは、早計で、悪いのは、自分さえよければいいと考えるエゴイズムなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間はだれでも幸福を求める。そのこと自体決して悪なのではなく、このような幸福追求は、自己中心ということから起ってくる。ところが、自分さえ幸福であれば、たといほかの人が不幸であっても構わないと考えたり、ほかの人の不幸の上に自分の幸福を築き上げようとするに至ると、これは明らかに悪であって、それこそエゴイズムの正体であると言ってよい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、近代における人間性の探求は、人間をほかの人から孤立した人間として探求してきたところにある。自分をほかの人から切り離して、自分を自分たらしめる「自我」という抽象的な原理をそこに見いだし、その自我を無限に追求し、発展していくところに自分の幸福があるというふうに考えてきた。このような考え方は、結局のところ「自我」を絶対化してしまうことになり、ほかの人との間に心と心が通い合う交わりを生み出すことができず、孤独のどん底に自分を追いやる結果になってしまった。近代における自我の自覚から始まった自我追求が、今日一人一人に孤独を与える結果に終ってしまったことを指摘できると思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは、自分がいかにエゴイストであるかということをよく知っている。エゴイストはいつも「自分さえ」という考え方をその根底に秘めている。だから、そういう生き方をしていると、ほかの人はすべて自分にとって利用価値のある者としてしか見ないため、本当の友人が出来ないだけでなく、夫婦の間においても、心と心の通い合う間柄が生れてこないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8313490174148412116?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8313490174148412116'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8313490174148412116'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/6-1.html' title='人間はなぜ幸福でないのか6 - エゴイズムがあるから(1)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9xyn5PrTRI/AAAAAAAAAKY/FttOU9lPkik/s72-c/DSC06312.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8240322773768714391</id><published>2008-03-12T02:15:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:24.541+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 2/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9a_m5PrTQI/AAAAAAAAAKQ/M_T7ye3533A/s1600-h/DSC06299.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9a_m5PrTQI/AAAAAAAAAKQ/M_T7ye3533A/s200/DSC06299.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5176535496631471362" /&gt;&lt;/a&gt;病気というものは、現在約十八万種あると言われているが、それを要因という面から分けてみると、外因性の疾患と内因性の疾患とに分けることができる。外因性の疾患というのは、主として肺炎とか、赤痢とか、疫痢とか、コレラとか、チフスとか、結核などの細菌性の病気や外傷などがそうだが、こういう病気は、薬物療法や外科療法が進歩したために、それによって治療することができるようになった。ところが、内因性の疾患というのは、内的要因による病気で、患者自身の体質が大きな因子になっているものである。文明病と呼ばれるものは、そのすべてが実はこの内因性の疾患である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近では、平均寿命が延びたと言って喜んでいるけれども、実は乳幼児の死亡が大幅に減ったためであって、ほとんど変わっていないのが実状である。また、若い人々の体格が向上したと言われているが、体が大きくなっただけで、不健康な人がむしろ増えているというのが現実なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近では、脳溢血、がん、心臓病という文明病が死亡率の首位を占めているし、また、アレルギー性疾患、高血圧、神経痛、リウマチ、慢性内臓疾患、精神疾患は、うなぎのぼりに増加の一途をたどっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、世界の長寿村と言われている所の人の中には、文明病と呼ばれる疾患が皆無であると報告されている。それには、ストレスのない自然環境ということももちろんあるけれども、食生活が重要な鍵となっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グルジア共和国と、パキスタンのフンザと、エクアドルのビルカバンバと、中国の新彊ウイグル自治区にある村、これらは世界の長寿村と言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの村の人々が食べている食事には、共通したものがいくつもある。まず未精白の雑穀が主食。時には芋類を主食にしている所もあるが、未精白の穀物が中心である。それに副食は、植物性食品が主体で、それも新鮮な物で、自分たちの手で作っているものだ。肉類はごくまれで、しかも極めて少量しか採らない。さらに、新鮮な果物やナッツ、また発酵食品が採られている。それに、薬草が用いられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この長寿村というのは、地理的にもお互いに遠く距っているが、それぞれの村には、百歳を越える人が何人もいる。それほど食べ物は、私たちの健康に影響を与えていることが分る。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8240322773768714391?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8240322773768714391'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8240322773768714391'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/28.html' title='健康について 2/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9a_m5PrTQI/AAAAAAAAAKQ/M_T7ye3533A/s72-c/DSC06299.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-1499624722407508252</id><published>2008-03-09T00:29:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:24.779+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか5 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(2)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9Kx15PrTPI/AAAAAAAAAKI/s1ldMm6ldWY/s1600-h/DSC06489.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9Kx15PrTPI/AAAAAAAAAKI/s1ldMm6ldWY/s200/DSC06489.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5175394461259877618" /&gt;&lt;/a&gt;フィリピンの首都ケソン市にベルナード公園という大きな公園があって、そこで四十八年前に大きな集会があった時ことである。ケソン市の合同聖歌隊やフィリピンの軍楽隊のブラス・バンドが大合唱する中で、集会は進められていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は初めに、自分がなぜフィリピンに来たのかという話をした。戦時中、日本の軍人がフィリピンに行き、ずいぶん残虐な行為をしたのである。そのために私は謝罪に行ったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;集会が終わり、私が壇を下りて行くと、沢山の人々が寄って来た。その中に、二人の婦人がいて、そのうちの一人の婦人が隣の婦人を説明して、こう言った。「この人は、実はクリスチャンではなかったのです。」そこまで言うと、当の本人が続けてこう言った。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「実は、私は日本人を憎んでいました。夫も父親も私の見ている前で、日本の軍人に虐殺されたのです。ですから、私は日本人を憎むのは当然だと思っていたのです。そういうわけで、もしも今晩、日本人の先生がお話になることが分っていたら、私は決して来なかったでしょう。けれども、新聞にも載りましたし、この奥さんがしきりに勧めるので、私は来たのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;プログラムが進んで、日本人の先生が話されると紹介された時、私は、ああ来るんじゃなかった。と思いました。けれども立錐の余地のないほど多くの人々が詰めかけておりましたから、帰ることができませんでした。私は聞くまいと思い、努力をしました。けれども、聞こえてきてしまったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先生の話を伺っているうちに、私は日本人を憎んできたのは当然のことだと思っていたのに、それが間違っていたのではないかというような思いが浮かんできたのです。そして、日本人を赦さなければいけないのではないか、という思いが続いて起こってきました。そうだ、赦そうという気持ちが湧き起こってきたのです。そして、私が日本人を赦そうと決心した時に、私の心の中からすべての重荷が取り去られてしまいました。先生。今まで私が不幸であったのは、あの日本の軍人のせいだと思っていました。けれども、今初めでそうでないということが分りました。私が日本人を憎んでいたことが、私を不幸にしていたのです。」&lt;/blockquote&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-1499624722407508252?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1499624722407508252'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/1499624722407508252'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/4-2.html' title='人間はなぜ幸福でないのか5 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(2)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R9Kx15PrTPI/AAAAAAAAAKI/s1ldMm6ldWY/s72-c/DSC06489.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-3323034775127549652</id><published>2008-03-05T00:10:00.005+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:24.950+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='健康について'/><title type='text'>健康について 1/8</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R81o0Whd_tI/AAAAAAAAAKA/Glm_EJksg08/s1600-h/DSC06693.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R81o0Whd_tI/AAAAAAAAAKA/Glm_EJksg08/s200/DSC06693.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5173906795527012050" /&gt;&lt;/a&gt;私は二十数年前、心筋梗塞の一歩手前まで行ったことがあった。その時、医者の処方してくれる薬を忠実に飲んだのだが、一向に良くならなかった。そんな時、ある人のアドバイスで食事療法なるものを知り、それで完全に良くなった。そのことを契機として、病気のことや健康のことについて関心を持ち、勉強し、かなりのことを知るようになった。それをもとにして、健康について、私の考えを述べさせていただきたいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間、健康であるということは健全なことであり、正常なことなのだが、案外、不健康な人が多い。私も以前はそうであった。健康については、ほとんど関心がなかった。だから、病気になるのは当り前のことであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、健康であるためには、四つのものが必要なのである。まず何よりも心に平安を持っていること。内臓の働きは、精神的な影響を受けやすく、ことに胃腸の働きはそうだ。だから、いつも心に平安を持ち、リラックスした気持が大切なのである。次に言えることは、十分な休息である。つまり、睡眠を十分にとることだ。そして、その次に、適度な運動を続けることである。そして、最後に、正しい食事をすることだ。日本人には、日本人に適した食事があって、体もそのように造られてきているから、未精白米（玄米）に菜食がよい。日本人の腸は欧米人の腸の倍近くあるので、菜食がよい。そうでないと、動物性食品（肉類）から出る有害物質（アシン、アンモニア、硫化水素、フェノールなど）が腸内にたまって、がんになりやすくなるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この四つのもののうち、適度な運動と十分な睡眠については、どんな人でも良く知っていて、熱心に励行している。ところが、正しい食事と心の平安については、かなりの人が無知である。どんなによく睡眠を取り、毎日のように運動をしていても、悪いものを食べていたら、不健康になるのは当り前のことである。食品添加物の恐るべき有害物質については、&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/食品の裏側―みんな大好きな食品添加物-安部-司/dp/4492222669"&gt;「食品の裏側」（安部司著、東洋経済新報社）&lt;/a&gt;にくわしく記されている。また、四白の害（白米、白砂糖、食塩、化学調味料）についても知っておく必要がある。人間の体を形造っているのは食物なのだから、これについては無知でいてはならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、たといこの三つを守っていたとしても、いつも心がイライラしていたら、必ず病気になってしまう。この四つのどれもが健康保持には必要不可欠な要素なのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-3323034775127549652?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3323034775127549652'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/3323034775127549652'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/18.html' title='健康について 1/8'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R81o0Whd_tI/AAAAAAAAAKA/Glm_EJksg08/s72-c/DSC06693.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2669476661335147344</id><published>2008-03-01T23:20:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:25.225+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか4 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(1)</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8ln6Vc6qVI/AAAAAAAAAJ4/LjznM5VvUUU/s1600-h/DSC06641.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8ln6Vc6qVI/AAAAAAAAAJ4/LjznM5VvUUU/s200/DSC06641.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5172779898900228434" /&gt;&lt;/a&gt;私たちの心の中に何かに対する恐れや不安があると、幸福ではない。心理学者は、恐れと不安の使い分けをしている。対象のはっきりしているものに対する場合は恐れと言い、対象のはっきりしていないものに対する場合は不安と言う。だから、死に対しては恐れであり、将来に対しては不安なのである。また自分の身体がよくないことから、これから先どうなって行くのかが分らないことについての不安もあるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は、幸福であるときには、生命の流れがスムーズだ。その時、人間は幸福感を味わう。それにひきかえ、過去の出来事に縛られていて、そのことで心に自由がなくなると、人間は不自由になり、幸福でなくなってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、私たちの心の中に、だれかに対して憎しみや恨みがあると、やはり幸福ではない。いつでもそれが心に引っ掛っているからだ。「あの人が、あん畜生が」という思いがあれば、私たちは幸福であることはできないに決まっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし、私たちがだれかを憎んでいるとしよう。そしてその原因はその相手の人にあったとしよう。けれども、今、私たちが不幸であるのは、その原因が不幸を作っているのではなく、私たちがその人を憎み、恨んでいるからであり、そのために不幸であり続けなければならないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今から48年前のことだが、私は日本人がアジアの人々に行ってきた残虐行為について謝罪するためにフィリピンへ行ったことがある。その時、ギマラスという小さな島へ行ったことがあった。そこで一人の少年に会った。少年は父親を日本兵によって殺されたということであった。だから、私に襲い掛ってきた。私はその少年に心からの謝罪をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その翌朝のことであった。私がその島を発とうとする時、彼が私の所へ飛んで来て、こう言うのであった。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「僕は一晩中祈っていたんだけれど、僕は親父を殺した日本人を赦すことができるようになったんです。だって、僕のようなものをもイエス様は赦してくださったんですから。」&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;その時、見るともなしに見た彼のほほには、大粒の涙が光っていた。それがちょうど昇って来た朝日にはえて、美しく輝いていた。私はあのときの彼の顔を今でも忘れることができない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2669476661335147344?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2669476661335147344'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2669476661335147344'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/03/4-1.html' title='人間はなぜ幸福でないのか4 - 心の中に恐れ、不安、憎しみ、ねたみがあるから(1)'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8ln6Vc6qVI/AAAAAAAAAJ4/LjznM5VvUUU/s72-c/DSC06641.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-877971517696006550</id><published>2008-02-27T01:25:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:25.444+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンになってよかった'/><title type='text'>クリスチャンになってよかった 10/10</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Q_f5NpkXI/AAAAAAAAAJw/OnbZ0-bW37o/s1600-h/DSC06599.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Q_f5NpkXI/AAAAAAAAAJw/OnbZ0-bW37o/s200/DSC06599.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5171328089294737778" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンになって、私は経済的なことについての心配がなくなった。神がすべての必要を満たしてくださることを体験したからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、神学校を卒業した時、三つの進路があった。一つ目は、歴史の古い教会の副牧師という道であり、二つ目は、戦後来日した欧米の宣教団体の日本人リーダーとしての道であり、三つ目は、だれにも頼らず、ただ神にのみ寄り頼んだ自主独立の開拓伝道という道であった。私はこの三つのうち、第三の道である自主独立の開拓伝道という道を選んだ。最初の二つは、生活は一応安定していた。しかし、第三の道は、人間的な保証はどこにもない。神に頼る以外にはない。私がそれをあえて選んだのは、私のような、どちらかと言うとインテリの端っくれにある人間につきものの信仰は観念的な信仰になりやすいから、どうしても体験信仰が欲しかったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、私は次の神の約束の御言葉に賭けたわけである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの（生活上必要なもの）は、すべて添　えて与えられる。」(マタイ6:33)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;この神の約束が本当かどうか体験してみようと思った。お金がなかったので、路傍伝道から始めた。私は元来内向的な人間なので、路傍伝道などは不向きであるのだが、御言葉を体験したいと思って、それを始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神は、私の生活の必要をすべて満たしてくださり、教会形成は着実に行われていった。開拓後一年余りたって結婚したのだが、その時にも神は必要をすべて満たしてくださった。当時、私の収入は、卒業した神学校の時間講師をして、月に4千円であった（当時、大学出の初任給は一万円）。結婚する時には、教会からの謝儀は千円だから、私の収入は合計5千円であった。その時、家内となるべき人の収入は2万6千円であった。その人の収入を当てにして結婚したわけではなかった。その人は、そのころデパートに勤めていて、日曜日は休みでなかったから、結婚の時には辞めてもらうつもりでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結婚すると、彼女の失業保険で半年生活することができ、半年後には、神学校で専任となり、その必要はすべて満たされた。こうした経験を通して、私は経済的なことでは少しも悩まなくなった。そして、総額25億円かかった今の会堂建設に取り組んだ時、一億円ささげることができた。その後も、神は私の生活の必要をすべて満たしてくださり、今もその点で少しの心配もない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-877971517696006550?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/877971517696006550'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/877971517696006550'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/1010.html' title='クリスチャンになってよかった 10/10'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Q_f5NpkXI/AAAAAAAAAJw/OnbZ0-bW37o/s72-c/DSC06599.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8002851820018007</id><published>2008-02-23T22:10:00.004+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:25.587+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか3 - 人生の目的が分らないから</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Ac7JNpkWI/AAAAAAAAAJo/O4z2fP_CW7w/s1600-h/DSC06329.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Ac7JNpkWI/AAAAAAAAAJo/O4z2fP_CW7w/s200/DSC06329.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5170164174632358242" /&gt;&lt;/a&gt;私たちは人生の目的や意味が分らないと、幸福ではない。人間は、意味や目的が分らなくなると、生きることに戸惑いを感じるものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ロシヤの文豪ドストエフスキーが、「死の家の記録」の中で、こういうことを書いている。彼は若いころ、政治犯としてシベリヤへの流刑になった。そのときに彼が見た拷問であると言って書いているのだが、二つの桶があって、一つの桶には水が一杯入っている。その桶の水をもう一つの空っぽの桶にあけるのだ。あけ終ると、今一杯になった水を、それまで一杯であって、今空っぽになったばかりの桶にあけ変えるのだ。そして、それを繰り返すのだ。一日だけの仕事ではなく、来る日も来る日もこれを繰り返させる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何でそんなものが拷問になるのかと考える人がいるかもしれない。もしもこれをやっているうちに、桶の底がいつ抜けるかという実験であれば、そこに目的もあるし、意味もある。けれども、繰り返し繰り返し、いつ果てるともしれないこの動作に、人間は肉体的に参ってしまう前に精神的に参ってしまう。ドストエフスキーは、「その人は自殺するか、発狂するかである」と書いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、彼は臼の中に砂を入れ、それを杵(きね)で突かせる拷問もあったと書いている。蒸した餅米であるなら、お餅になる。しかし、いくら砂を突いても何にもならない。これは拷問なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は、何のために生きているのかということが分らなければ、生きることに苦痛を感じ、戸惑いを覚える。それが人間なのである。だから、何のために生きているのかということが分らないため、多くの人は幸福ではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでは、何のために生きるのかということはどうしたら分るのだろうか。人間が偶然に存在したと考える人は、自分のちっぽけな頭で考えだしたお粗末な考えしか思い浮かばないだろう。機械を正しく取り扱うためには、その機械を作った人によるその取り扱い説明書に従わなければならないように、また薬を効果的に服用するためには、その薬製造者による服用説明書に従わなければならない。私たち人間をお造りになった神が私たちの人生の目的を持っておられる。それが、人間の取り扱い説明書である聖書なのである。それを無視していたのでは、決して幸福になることはできない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8002851820018007?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8002851820018007'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8002851820018007'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/3.html' title='人間はなぜ幸福でないのか3 - 人生の目的が分らないから'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R8Ac7JNpkWI/AAAAAAAAAJo/O4z2fP_CW7w/s72-c/DSC06329.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-8244663445281516656</id><published>2008-02-20T00:20:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:26.026+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンになってよかった'/><title type='text'>クリスチャンになってよかった 9/10</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7r0kpNpkVI/AAAAAAAAAJg/NkCRP7eYVXM/s1600-h/DSC06560.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7r0kpNpkVI/AAAAAAAAAJg/NkCRP7eYVXM/s200/DSC06560.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5168712432736637266" /&gt;&lt;/a&gt;この世の中を生きていく上で、人間関係は非常に重要だ。しかし、これはテクニックで出来る問題ではない。確かに、人間関係を上手にやってのける人がいる。営業マンや商売人には打ってつけというような人がいることは事実である。当りが良く、人の気をそらさない。しかし、そういう人はとかくそういうテクニックにたけているだけで、真実味がない人が多いことも事実だ。そういうような人になることがよいことでないことも確かだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はことのほか人間関係が下手で、人の機嫌をとったりすることにかけては、大のにが手であった。教会に来る人を抱きかかえるようにして、「よくいらっしゃいました」などといったようなパーフォーマンスは全くできない。そうすれば、その人はまた来ようという気持になることは分っているのだが、そういうテクニックで人を引き付けようとは思わないのだ。むしろ、本当のクリスチャンになれば、日曜日に神を礼拝するために教会に来るのは当り前のことだと思っている。人に媚びたりすべきではないと思っているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな私でも、クリスチャンになってから少しずつ人間関係がよくなってきた。そして、少しずつ分ってきたことは、私自身が変ってきているということである。自分で自分を変えることなどできないのだが、神が私の生き方を根底から変えてくださったので、少しずつ変ってきたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンが礼拝に来るのは当り前と思っていたのに、その人が礼拝に来るためにどれほど多くの犠牲を払って来ているのかということを理解することができるようになった。だから、礼拝が終ると、出口の所に立って、礼拝に来られた人々に、一人一人握手をして、その人の安否を問い、ねぎらうようになった。今では、これも礼拝に来られた人々の楽しみの一つになっているようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;にが手な人とも交わることができるようになった。今でも、そんなに人間関係を上手にやれる方ではないが、それでもクリスチャンになる前とは全く違っている。人と話をするのに、にが手意識がなくなったということが言える。人間関係において大切なことは、いつまでも続く人間関係であって、それは真実な人間関係でなければならない。ごまかしたり、相手を利用しようとしたりするのではなく、真実な友情によって成り立つものである。そこにおいて必要なものは、愛と信頼にほかならない。そして、これはクリスチャンになるとだれにでも与えられる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-8244663445281516656?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8244663445281516656'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/8244663445281516656'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/910.html' title='クリスチャンになってよかった 9/10'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7r0kpNpkVI/AAAAAAAAAJg/NkCRP7eYVXM/s72-c/DSC06560.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7942141950891566950</id><published>2008-02-16T23:06:00.003+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:26.398+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか2 - 間違ったところに幸福を求めている</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7bvZZNpkUI/AAAAAAAAAJY/ayqQXA5uVBw/s1600-h/DSC06483.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7bvZZNpkUI/AAAAAAAAAJY/ayqQXA5uVBw/s200/DSC06483.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5167580841998127426" /&gt;&lt;/a&gt;多くの人が幸福になれないでいるのは、間違ったところに幸福を求めているからである。ある人は、欲望の充足が幸福につながると思っている。あれを自分のものにすれば幸福になる、またこれを得れば幸福になると思って、いろんなものを求めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;けれども、幸福というものは、そういう欲望が満足するという路線の上にはない。どんなに欲望が満たされても、魂は飢え渇いているという現実を私たちは知っている。だから、いくら欲望という路線を追求していっても、人間は幸福になることはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、ある人は、他の人と比較して自分が幸福であるかどうかを確かめようとしている。しかし、他の人と比較する場合、どういうように考えるのかと言うと、「あの人より自分は幸福だ」と考える人はほとんどいない。他の人と比較して、「あの人より自分の方が学校の成績がよかったのに、どうしてあの人は出世してしまい、自分は駄目なのか」と思い、自分の不幸さ加減をかこつのだ。また、「あの人は自分よりも器量がよくなかったのに、あの人はあんな幸福な結婚をしている。それに反して自分の方は・・・」というふうに考え、自分は不幸だと思う。他の人と比較する場合、そのほとんどは自分の方が幸福だと考えないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、ある人は華やかなところに幸福があると思っている。新聞に自分の顔写真が載るとか、ラジオやテレビに出演することが幸福だと思っている人がいる。ある人は、一生懸命になって自分の親戚、知人、友人に電話を掛けた。「何月何日、何時から、どこそこのチャンネルでテレビに出ますから、見てください。」それがどんなにすばらしいことか分らないが、とにかく電話を受けた人はそれを見た。電話を掛けた人がどこにいるのか分らない。それでもよく見ると、50人くらい後ろの方に座っている人でいて、○か×かを書いたうちわのようなものを上げていたということであったというのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;テレビに出ることや、華やかに脚光を浴びることが幸福だと思っている人がいるけれども、そういったところに本当の幸福はない。幸福というものは、もっと身近かな、もっと平凡で地味なところにあることを知るべきである。メーテルリンクの「青い鳥」のように、結局は自分の最も身近かな所、自分が見落していた所にあったように。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-7942141950891566950?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7942141950891566950'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/7942141950891566950'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/2.html' title='人間はなぜ幸福でないのか2 - 間違ったところに幸福を求めている'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7bvZZNpkUI/AAAAAAAAAJY/ayqQXA5uVBw/s72-c/DSC06483.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-6937633144510917757</id><published>2008-02-13T01:19:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:26.653+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンになってよかった'/><title type='text'>クリスチャンになってよかった 8/10</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7HHrpNpkTI/AAAAAAAAAJQ/7KDkhkok9JI/s1600-h/DSC06314.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7HHrpNpkTI/AAAAAAAAAJQ/7KDkhkok9JI/s200/DSC06314.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5166129800182075698" /&gt;&lt;/a&gt;またある時のこと、いやがらせ電話が夜中に掛って来たことがあった。それは冬の真最中のことであった。夜の十二時を過ぎると電話が鳴るのだ。寒い中、寝床から起き出して、受話器を取ると、しばし無言のまま、電話を切ってしまう。寝床に入って、しばらくすると、また電話が鳴る。もしかすると、教会員からの緊急の電話かもしれないと思って起き上がり、受話器を取ると、全く同じである。そういうことが一晩に3、4回は起る。しだいに、こちらも腹立たしい思いになってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その時、私は神が私に教えてくださった。この人は、こんなことをして自己満足をしている気の毒な人なのだ。この人は神の祝福を頂いて心が満たされていないから、こんなことをしているにちがいない。この人が祝福されるために祈ろうと思った。あの御言葉が示されたからである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;私がこの御言葉通りその人の祝福を祈った時、不思議とあのいやがらせ電話は来なくなった。御言葉が教えている通りのことをすれば、神は大きな祝福を与えてくださることが体験できた。それは、クリスチャンというのはだれでも自分が赦されたという体験をしているので、ほかの人を責める資格などないということが分っているからである。次のように教えられている通りである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「お互いに親切にし、優しく振舞い、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;憎しみを持って生きることほどつまらぬことはない。時として憎しみをバネにして、そこに生きがいを持とうとしている人がいるけれども、それでは自分自身を傷つけて終ってしまうのがオチである。まず体を害し、心を傷つけ、ズタズタになった人生を送らなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、赦すことのすばらしさを経験してからは、人生が自由になった。憎んでいる人がいれば、その人を避けて生きていかなければならないが、憎んでいる人がいないのであれば、何の気兼ねも必要がない。いつも心は晴れやかである。これは、ある特別に修業を積んだクリスチャンにだけ出来ることではなく、すべてのクリスチャンにとって出来ることである。神の御言葉である聖書を本気で信じると、その御言葉が私たちのうちに実現するのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-6937633144510917757?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6937633144510917757'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/6937633144510917757'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/810.html' title='クリスチャンになってよかった 8/10'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R7HHrpNpkTI/AAAAAAAAAJQ/7KDkhkok9JI/s72-c/DSC06314.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5828195977693351681</id><published>2008-02-10T03:58:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:27.138+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間はなぜ幸福でないのか'/><title type='text'>人間はなぜ幸福でないのか1 - 人生の目的、目標は幸福</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R635gJNpkSI/AAAAAAAAAJI/lzWATeuF6Wk/s1600-h/DSC06476.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R635gJNpkSI/AAAAAAAAAJI/lzWATeuF6Wk/s200/DSC06476.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5165058678288126242" /&gt;&lt;/a&gt;昔ギリシャの哲学者アリストテレスという人は、「人生の目的、目標は幸福にある」と言っている。けれども、今日幸福な人には滅多にお目に掛ることがない。なぜそうなのかということを考えてみる前に、幸福な人とそうでない人について考えてみたいと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人はだれでも「幸福」を求めていると言ってよいだろう。「幸福」と言わずに「幸せ」と呼んだところで、その内容は同じことだ。しかし、「幸運」と言うのはまた別物だ。それは良いめぐり合せのことであって、たまたまそうしたよいめぐり合せに出会ったという偶然性に依存している。しかし、「幸福」というものは、必ずしも偶然性に期待するものではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸福を求める心は、また幸福についての様々な迷信を生み出す。たとえば、幸福の手紙と呼ばれるものや、結婚するのに良い日を選んだりするのがそれである。大安とか友引に結婚するという具合である。さらにアメリカでは日本のハッピまがいのコートを着て、それをハッピー・コートと呼んでいる人がいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昔から幸福に関する本は沢山出ている。幸福について語られ、論じられてきた。しかし幸福を得ている人はほとんどいない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸福な人というのは、将来について言えば、斜め上の空が突き抜けたような感じを持ち、過去について言えば、ちょうど船が白い航跡を残し、やがてそれが消えていくような感じを持っている人だと言われる。つまり、過去に捕われることなく、将来がずっと先まで突き抜け、希望を持てる状態である人だ。それに反し、幸福でない人というのは、いつまでも過去の出来事に縛られ、それに対する恨みつらみを持ち、だれかを憎み続けている人である。そういう人は、過去にしがみついているから、将来が全く見えないどころか、考えることすらできない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういう心理状態を心理学者は教えてくれる。だから、自分が今どのような心理状態であるかということを知れば、自ずと自分が今幸福であるか、それとも不幸であるかが分るというものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうことが分っていても、なかなか幸福な人のような心理状態になれないとしたら、どこに問題があるのだろうか。どうしたら幸福な人になれるのだろうか。そのことについて考えてみることは、決して無駄なことではあるまい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5828195977693351681?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5828195977693351681'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5828195977693351681'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/1.html' title='人間はなぜ幸福でないのか1 - 人生の目的、目標は幸福'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R635gJNpkSI/AAAAAAAAAJI/lzWATeuF6Wk/s72-c/DSC06476.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2992724505324203056</id><published>2008-02-05T23:15:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:27.296+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンになってよかった'/><title type='text'>クリスチャンになってよかった 7/10</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R6hx1yv7GAI/AAAAAAAAAJA/5FJS_1vrinc/s1600-h/DSC06596.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R6hx1yv7GAI/AAAAAAAAAJA/5FJS_1vrinc/s200/DSC06596.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5163502141750056962" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンになってからでも、虫の好かない人、嫌いな人というものはいるものだ。そういう場合、以前なら、いつも悪いのは相手の方だと言って、その理由を数え立て、自分を正当化したものである。しかし、そんなことをして自己満足していても、事態は全く変ることはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人からひどいことをされて、それを赦すということは、そんなに簡単なことではない。しかし、人を赦すことの喜びを体験した時、それは何とも言えぬものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書の中には、すばらしい教えがいくつもある。たとえば、次のようなものがそれである。&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたの敵を愛しなさい。」(ルカ6：27)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福こそすれ、呪ってはいけない。」(ローマ12:14)&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;もしもこれが出来たらすごいと思っていた。そして、その通り出来る人というのは、ある特別な人であって、それはクリスチャンとして目標とはなりえても、現実にそのようなことをするのは不可能であると思い続けていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある時のこと、私はひどい中傷に遭ったことがあった。根も葉もないこと、全く身に覚えのないことだったから、なんでそんなことを言われなければならないのか、面食った。面食っただけでなく、その人を憎みもした。私が教会のお金を使い込んで、こっそり埋めたという非難中傷である。私は教会会計の帳簿を触ったこともなければ、お金をいじったこともないのに、なんでそんなことを言われなければならないのか分らなかった。とにかくその人を憎んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私への中傷を聞いて、本当だと思い込んだ人は、ワープロにそのことを打ち込み、日本中にばらまいた。だから、私はその人をも憎んだ。彼らは、教会で除名処分を受けたが、その逆恨みをして、その後もそのうちの一人は年賀状を寄越した。そのお年玉付年賀はがきには、こう書いてあった。「眠られぬ夜を過しているのではありませんか。そろそろ悔い改めたらどうですか。」それを見て、私は胸くそが悪かった。たといお年玉付年賀状が一等の当選をしていても取りには行くもんかと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、その時、神が私に教えてくださったことは、神の御手の外において起ることは何一つないのだということであった。神の許しなしに起ることはないのである以上、ここにも神が何か目的をもって、それをするのを許しておられるのだということが分った時、私はその人を赦すことができたのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-2992724505324203056?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2992724505324203056'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/2992724505324203056'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/710.html' title='クリスチャンになってよかった 7/10'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R6hx1yv7GAI/AAAAAAAAAJA/5FJS_1vrinc/s72-c/DSC06596.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5790702995586144707</id><published>2008-02-03T00:00:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:27.681+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間として生きる'/><title type='text'>人間として生きる8 - アガペーとエロース</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5s0Uiv7F_I/AAAAAAAAAI4/QfejLdCaPxA/s1600-h/071208_140853.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5s0Uiv7F_I/AAAAAAAAAI4/QfejLdCaPxA/s200/071208_140853.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5159775325612873714" /&gt;&lt;/a&gt;私たちは「愛」という言葉をさりげなく使う。しかし、古代のギリシャ人は、これを四つの言葉を使って、使い分けている。それは、アガペーとフィリアとストルゲーとエロースである。ギリシャ語を使って書かれている新約聖書では、このうち最初の二つ、アガペーとフィリアが出て来るだけである。アガペーは神の愛、フィリアは友情の愛と分けて考えることもできないことはないが、新約聖書においては、この二つの言葉は、ほとんど同じ意味に使われていることが多い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ストルゲーというのは、肉親の情を表す言葉で、これとエロースは聖書の中には出て来ない。エロースという言葉は、今日ではほとんど性的な愛であると思われているが、元々はそうではなかった。プラトーンが説いているところによれば、相手の中にある良いものとか、美しいもの、気高いものなど、その価値を認めて愛するのがエロースの愛なのである。私たちだれかを愛する場合、このエロースの愛から出発するのは自然だと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば、ある女性を愛する場合、容姿が美しいから愛するとか、心が温かいから愛するということはあっても、頭も悪いし、不美人でもあるし、心は鬼のようで、その上お金もないのになお愛するということはまずありえないだろう。ほかのものに欠けていても、この一点において優れているから愛するというのが普通だ。私たちがだれかを愛する場合、このエロースの愛からスタートしていくことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、このエロースの愛というのは、自分のためという動機がその根底にあるから、当然、自分のために獲得するという性格を持っている。このエロースという愛だけであれば、利害関係が相反することになれば、必ず奪い合いが起り、衝突を避けることはできない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに対して、アガペーの愛というのは、それとちょうど反対で、人に与えるという性格を持っている。だから、エロースの愛だけでは必ず衝突が起るのを、アガペーの愛がそれを解決してくれるわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、エロースの愛は、人間だれでも生れながらに持っている。しかし、アガペーの愛は、人間のうちにはない。それは神だけが持っておられる愛である。だから、この神の愛を度外視していて、私たち人間の間の問題が解決される道理はないのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5790702995586144707?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5790702995586144707'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5790702995586144707'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/02/8.html' title='人間として生きる8 - アガペーとエロース'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5s0Uiv7F_I/AAAAAAAAAI4/QfejLdCaPxA/s72-c/071208_140853.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5352488838335404859</id><published>2008-01-30T00:00:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:27.698+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='クリスチャンになってよかった'/><title type='text'>クリスチャンになってよかった 6/10</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5sqaiv7F-I/AAAAAAAAAIw/mPOmd8fLsBs/s1600-h/20080102310.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5sqaiv7F-I/AAAAAAAAAIw/mPOmd8fLsBs/s320/20080102310.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5159764433575811042" /&gt;&lt;/a&gt;クリスチャンになってから変ったことはいくつもあったが、その一つとして怒ることが少なくなったと言うことができる。人間は些細なことで怒る。とかく自分が正当に扱われないと怒るものだ。実は、正当だけではだめで、自分ではそうと分っていても、正当以上に扱われないと不機嫌になる。悲しいかな、私もその点において、決して例外ではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、それがどうだろう。クリスチャンになってからというもの、怒らなくなった。もちろん、怒ることがいつも悪いわけではない。間違ったことが行われていても、なおニコニコしているとしたら、それは大いに疑問で、それは正義の士とは言えないだろう。義憤は決して間違ってはいないのである。だからと言って、怒ってばかりいる人というのは、正義感からそうしていると言うよりも、とかく心に不満がいつも潜在的に存在していることの方が多い。欲求不満が何かをきっかけとして、怒りという形で爆発するわけである。私も実はそうだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、クリスチャンになり、心が満たされるようになると、たとい自分が不利な扱いを受けても、そう腹が立たなくなった。よっぽどのことでない限り、怒らなくてもすむようになった。いくらか大物になったように感じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに嫌なことがあった場合、それを解決する道が与えられたからである。クリスチャンになるまでは、嫌なことがあると、一人で悩み、一人で怒った。しかし、クリスチャンになったら、私の助け主である神を知ったのである。だから、嫌なことがあったら、神のもとに隠れ場を見出し、そこで思いきり、自分の心の中の思いを訴えることができる。これが祈りである。この祈りという逃れ場が与えられてからというもの、そこで自分の心を整理をすることができるようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;祈りは、神との会話である。私の助け主である神のみもとに行き、自分の心の中の思いを、ありのまま申し上げるのである。くやしい思いも、悲しい思いも、腹立たしい思いも、そのまま神に訴えるのだ。これを知ってからというもの、私は怒ることが少なくなった。いや、もっと正確に言えば、怒り続けることがなくなった。ひどいことをされた場合、もちろん怒りの思いが湧いては来るのだが、それを神のみもとへ行って、訴えると、神が私の心に語り掛けてくださり、いつしか心に平安が与えられてくる。これはクリスチャンのすばらしい特権であると言うことができる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6451250044086149910-5352488838335404859?l=tadabito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5352488838335404859'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6451250044086149910/posts/default/5352488838335404859'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://tadabito.blogspot.com/2008/01/610.html' title='クリスチャンになってよかった 6/10'/><author><name>唯人</name><uri>http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5sqaiv7F-I/AAAAAAAAAIw/mPOmd8fLsBs/s72-c/20080102310.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-7857364929228396473</id><published>2008-01-26T21:10:00.000+09:00</published><updated>2008-12-10T18:20:28.132+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='人間として生きる'/><title type='text'>人間として生きる7 – エゴイズムのない愛</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5smsSv7F8I/AAAAAAAAAIg/TAEj6PhjZvE/s1600-h/DSC06178.jpg"&gt;&lt;img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://2.bp.blogspot.com/_U-0nWGwLEdY/R5smsSv7F8I/AAAAAAAAAIg/TAEj6PhjZvE/s200/DSC06178.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5159760340471977922" /&gt;&lt;/a&gt;私たちの人間関係は、どうやらほかの人を自分のための利用価値と考えるところが多いのではないだろうか。利用価値のある人とは仲良くし、利用価値のない人とは疎くなる。こういう人間関係は、利害関係が一致している間はよいのだけれども、それが相反するようになってくると、途端にその関係は途切れてしまう。それは、夫婦の間においても、友人関係においてもそうではないだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたは本当の親友を持っているか。遊び仲間であるとか、仕事仲間といった、いわゆる付き合いという表面的な関係は持っていたとしても、いざという時、本当に頼りとなる友人を持っているだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夫婦にしても同じことが言える。心の中を本当に打ちあけ合い、慰め、励まし、助け合う間柄だろうか。夫が職場での苦しみを話し、それに妻が相槌を打っているうちはよいのだが、少しでも夫に忠告がましいことを言うと、｢うるさい。黙っていろ｣と言って、相手を自分の対等の人とは考えず、いつも圧倒しようとする態度に、妻は我慢の限界に達している夫婦が少なからずいることを知っている。妻を召使いぐらいにしか考えていない夫は、妻を便利な使用人ぐらいにしか考えていないのだろう。妻は妻で、夫を月給運搬人ぐらいにしか考えていないとしたら、こういう夫婦は、形の上では夫婦かもしれないが、本当の夫婦ではない。いつかは破綻するのがオチである。&lt;br /&gt;
