2009年3月23日月曜日

思い煩わなくなった

私は性来、母親譲りの取り越し苦労性だった。つまり気が小さかったと言っていいだろう。いつもくよくよしていた。取り越し苦労というのは、物事が実際に起る前に、それが起ったらどうしようかと思って悩み、それが起るとまた悩むという具合に、いつもほかの人より一回多く悩むのである。時には、それが起って来ないこともあるから、悩まないでもよいものについても悩むことになる。損な性分である。頭では分っているのだが、私はこの取り越し苦労性で悩んでいた。

ところが、私がキリスト教信仰を持つようになると、死の恐れからの解放と同時にやって来たのが、取り越し苦労性からの解放であった。それからと言うもの、ほとんど物事に思い煩うことはなくなった。それは、そういうことについてのあきらめではない。私をキリスト信仰へと導いてくださった全知全能の神、天地万物の造り主にお会いし、このお方を知ったからである。

そして、この神をさらに深く知れば知るほど、大船に乗ったような気持になり、何一つ恐れたり、不安になる必要のないことがよく分るようになった。だから、今では、どんなことが襲って来ても、思い煩うことはなくなった。

それでは、そういう問題が起らなくなったのかと言うと、そうではない。思い煩いそう面倒な問題はなくならないばかりか、以前と同じように起っている。私自身に関するものもないわけではないが、それよりも、私が関係している働きに関するものの方が、むしろ断然多い。次から次へと問題が起って来て、てんてこ舞いしそうなこともないではないが、そうしたことは、天地万物の主である神の所へ持っていって、お任せしてしまうのである。それは、神の言葉である聖書がそう教えているからである。
「神は、あなたがたのことを心配していてくださるから、あなたがたの思い煩いを、すべて神にゆだねてしまいなさい。」(1ペテロ5:7)

「何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるのがよい。そうすれば、私たちの常識を越えた神の平和が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。」(ピリピ4:6-7)

2009年3月8日日曜日

命のあるものは変るのが当然

私は、陸軍の士官候補生として訓練を受けた時のことが、リーダー養成の場合、いつも基本となっていたと思う。ある時、私はまだ若く、28歳の時であったと思う。神学校の専任教師として、神学生たちと生活を共にしていた。神学校は全寮制であった。入学時には緊張しているということもあって、学生たちは大体において真面目にやっているのだが、夏休み近くなると、たるんできて、夜遅くまで騒いでいることが多くなった。

ある晩のこと、説教演習と称して、一人の神学生がほかの神学生を集めて、落語をやっていた。神学生たちの騒がしい声が私の所にも聞こえてきた。時はもう夜の十時半を過ぎていた。寮のすぐ近くにはほかの家もあって、迷惑をかけることは火を見るよりも明らかである。私はついに我慢できず、その神学生たちにどなった。「近所迷惑も考えないで、こんなに夜遅くまで大声を上げるとは何事か。献身者として失格だから、すぐ布団をかついで、家へ帰れ!。」これは、後々までも語り草になっている。

それから五十年ほど経ってからのことである。一人の婦人が教会に来て、私に告白した。「私は今までに十回結婚し、十回離婚しました。」昔の私であったら、「どういう理由で結婚、離婚を繰り返したか分らないけど、そのことについて主にお詫びすることから始めなさい」と言ったかもしれない。しかし、この正直に告白した婦人に、私はこう言っていた。「あなたのような人は、きっと主に用いられると思いますよ。」すると、その婦人はこう言うのだ。「そんなことを言うのは先生くらいで、ほかの人は軽蔑の目を持って見ます。親にも言われました。『淫乱な娘だ。もう親でもなければ子でもない』と。」

私がそういったのは、決してお世辞なのではない。もしも離婚で苦しんでいる人がいて、私がその人に、「苦しくて大変でしょうね」と言ったとしよう。その時、その人はどう思うだろうか。「離婚の経験もない先生に、私の気持なんか分るわけがない」とは思わないだろうか。しかし、もしもそのような人にこの人が、「あなた大変ね」と一言言えば、それだけで、その人は、「この人なら今の私の気持を分ってくれるにちがいない」とは思わないだろうか。この人は、その後献身して神学校で学び、卒業後、開拓伝道をしている。どんな人でも、神に自分を捧げれば、神は用いてくださるのである。

2009年3月1日日曜日

私は変節したわけではない

コチコチの聖書信仰であった私が、今ではリベラルな立場の人々も、ローマ・カトリック教会やギリシャ正教会の人々も皆同じクリスチャンなのだと考えるようになったと言うと、変節したのではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、決して変節などしているのではない。私は今なお聖書信仰に堅く立っている。聖書信仰というのは、聖書が誤りのない神の言葉であるということを信じているだけを言うのではない。聖書が教えているところに従い、その御言葉に生きているのである。

そのことと、私が広い考えをするようになったということの間には、何ら矛盾はない。というのは、主イエスの仰せられているところに従って、そのような考え方になったのだから。

クリスチャンの一致ということは、主イエスの悲願なのである。従来、私は「教会一致運動」とか「エキュメニカル運動」と呼ばれるものを見て、嫌悪感を感じていた。しかし、主イエスが祈っておられる祈りにおいては、「わたしたちが一つであるように彼らも一つになること」である。三位一体の神の一致性がそこで言われているのである。組織の一致協力ではなく、内的一致なのである。

それと、前回にも言及しておいたヨハネの忠告と主イエスのお答えの中に、私は主の御心を知ることができた。「わたしの名前を使って力強い奇跡を行っている人で、わたしに反対する人はいないでしょう。わたしに反対しない人は、わたしの味方です」(ルカ9:50)。これは私にとっては大きなショックだった。

今まで、聖書信仰以外の立場は、いくらキリスト教と称していても、それは異端とは言えないまでも、キリスト教の唖流だと、ずっと思っていた。だから、味方だとは考えることができなかったのだ。もちろん、敵というほどの思いはなかったにしても、決して同士だなどとは夢にも考えていなかった。

それなのに、主イエスのお考えは、私の考えとは全く違っていた。そのことが分った時、私は自分の考え方がいかにねじ曲がったものであったかということが分り、主イエスのお考えに従うことができたわけである。だから、私は変節したわけではない。主イエスのお考えに従ったにすぎないし、これからもそうしていきたいと思っている。