2007年12月29日土曜日

人間として生きる3 - ロビンソン・クルーソー

あなたは、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソーの生活とその数奇な驚異的冒険」をご存じだろうか。多くの人は、子供向きの冒険談という形のものは読んでいるかもしれないが、その原作を読んだ人は少ないだろう。これは、神なしで人間が孤独に耐えうるかということを問うているキリスト教文学作品なのである。

なんとかして孤島に逃れることができたロビンソンが、一人ぼっちの惨めさの中で見出したものは、「物事は考え方次第だ」という世間一般の常識だった。現実の事柄を「悪い点」から見るか、それとも善い点から見るかということであった。自分が恐るべき孤島に漂着して救出の望みが皆無だと思えば全く絶望なのだが、他の乗組員は皆溺死したのに自分だけはこうして生きていると考えれば、同じ現実にも希望と喜びが生じるといった考え方である。

しかし、絶海の孤島の厳しさは、やがてそのような常識の立場ではすまされなくなっていく。その時、「それまでは宗教的な信念に基づいて行動したなどとは義理にも言えない人間」であり、「宗教の何ものたるかを少しもわきまえなかった人間」のロビンソンが、「神よ、救ってください」と祈り始めるのである。その場合の救いというのは、「この孤島から何とかして脱出したい」という願望にほかならない。つまり、「困ったときの神頼み」といったご利益宗教の立場である。

しかし、そんな神頼みも一向に効き目はなく、地震や病気で、ロビンソンの前には「死」の悲惨な姿が近寄ってくるのである。そのような精神状態をデフォーはこう書いている。
「罪の深さにも、またこのように惨めな姿で死んで行くことの恐ろしさにも耐えられず、私の心はただ暗く、不安にさいなまれていた。私は魂の苦悩にもだえ、自分で自分が何を言い出すか分らなかった。」

そして、ロビンソンは最後に、「主よ。助けてください。激しい苦しみに呻吟している私を助けてください」という祈りがささげられる。「これをもし祈りと言えるものなら、これこそ長年の生涯を通じて、私が神に捧げた最初の祈りであった」とデフォーは説明している。

そして、今やロビンソンにとって、救いとは「身ぶるいするほど恐ろしい罪の恐ろしさのどん底」で「生きる喜びをすべて圧殺する罪の重荷から救われる」ことにほかならなかったと、デフォーは記している。

2007年12月26日水曜日

クリスチャンになってよかった 1/10

私がクリスチャンになったのは、19歳の時で、第二次世界大戦が終わった翌年のことであった。我が家における最初のクリスチャンであった。家族は皆ノンクリスチャンだったから、家族からの祝福もなかった代り、それほどひどい反対や迫害もなかった。やがて私が信仰に熱心になるに従い、家族の者をキリスト教集会に誘ったのだが、すぐクリスチャンになったのは妹だけで、後の者たちはすぐクリスチャンにはならなかった。それから、私はこのキリスト教こそ自分の人生を賭けるに値するものであることを確信するようになり、建築家を目指して大学で勉強していたところから、牧師を目指すため、文学部に転部するのだが、そのころになると、両親は私の将来を心配して、私が牧師になることを反対するようになった。けれども、私は両親の反対を押し切って、文学部に進み、大学を終えると神学校に進んだ。正確に言うと、大学と神学校の両方を同時にやったのだ。その無理がたたって、病気になってしまった。だから、大学の卒業式には出席することができなかった。

神学校を卒業した時、私の前には三つの可能性があった。伝統的な古い教会の副牧師という道。また、戦後欧米からあまたの宣教団体が来ていて、その日本人リーダーを求めていたところから、彼らがリクルートに来ていた。その牧師という道。そしてもう一つは、自主独立の開拓伝道という道である。私は迷うことなく第三の道を選んだ。だれに気兼ねすることもなく、ただ神にだけ責任を負えばよい自由闊達な道である。しかし、初めの二つは、一応生活は保証されていた。ところが、第三の道は、人間的な保証は全くない。だから、私は神の約束の御言葉にすべてを賭けることにした。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なすべてもの)は添えて与えられる。」(マタイ6:33)

お金がなかった私は、この御言葉を信じ、東京の高田馬場で路傍伝道によって開拓伝道を始めた。1953年3月15日のことであった。こうした一見無謀とも思えるやり方で開拓伝道をしたが、神は最初の日の路傍伝道でイエス・キリストを信じる人を起してくださり、次々とクリスチャンになる人が与えられた。そして、私の両親も兄も家族の者が皆クリスチャンになったのである。神は本当に今も生きておられる。(参照、「生きて働かれる神」(羊群社)、「今も生きておられる神」(プレイズ出版))

2007年12月22日土曜日

人間として生きる2 - 人間は一人では生きられない

「人間」という言葉を、普通の辞典で引くと、まず「人」のことと書いてあり、次に、「世間」とか「社会」のことだと書いてある。ところで、言葉をもう少し専門的に扱う「大言海」などでは、「誤って人のことを言う」と書いてある。つまり、元来、人間というのは人のことではなく、社会、世間のことだと言っている。つまり、人間とは人と人との間のことだと言うわけである。それがどうして人の事を指すようになったのかと言うと、それは、人間というものが一人では成り立っていかないということを表しているからである。表意文字である漢字を見ると、人とは二人の人が互いに支え合っていることを表している。これは非常に重要なことである。

聖書では、人間が最初に造られた時、神の形に似せて造られたと教えられている。「神の形」にはもっと他の意味もあるが、その一つは「人格」を持っているということである。人格を持っているということは、もう一つの別の人格とのコミュニケーションを可能にするだけでなく、それなしには成り立たないということも意味する。

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーバーが、「わたしとあなた」という本を書いて、人間が人間として生きるには、この関係が根本であると言っている。

この世のつき合いは、肩書きと肩書きとのつき合いであって、そういうところでは本当に人間と人間との関係は成り立っていない。私たちが一切の肩書きを捨てて、裸で向き合う時、そこから本当に人間と人間の関係が始まってくる。しかし、人間が人格を持った者である以上、人格と人格との交わりがなければならない。

マルチン・ブーバーは、人格を持った者同士の交わりは、「わたしとあなた」という関係であって、「わたしとそれ」という関係ではないと言っている。私が「わたし」として立つということは、一切の肩書きから解放されて、一人の人格を持った人間として自分を見出すということである。そして、ほかの人を一人の人格を持った人間として「あなた」と呼ばないならば、それは「それ」つまり自分にとって利用価値になる存在としてしか相手を見ていないのであって、そこに本当の人格的交わりが生まれるわけではないのである。自分ははたして本当に人格を持った人として自分の身近にいる人に接しているであろうか。

2007年12月19日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 5/5

クリスチャンになるということは、ただクリスチャンになろうと自分で思ったらなれるというものではない。キリストの十字架上の死が、自分の罪のための身代りの死なのだということが分らなければならないのである。キリストが十字架上で今から二千年前に死なれたということを認めることは、別に信仰も何も必要とはしない。キリスト教以外の資料も含め、調べてみれば分ることだからである。

ところで、キリストの十字架での死が私の罪の身代りであったということは、そのこととは別のことである。まず自分が罪人であるということの認識から始まらなければならない。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。

人間はだれでも罪人であるということについては分っていても、自分がいかに恐ろしい罪人であるかということが分らなければ、生れ変りと言う信仰体験をすることができない。自分が滅んでしまわなければならない罪人なのだということが本当に分ると、どこに救いがあるのかと、真剣に探し求めるようになるはずだ。

そして、罪のない神の御子が天からこの世に降りて来られ、私たちの罪を身代りに背負って、その罪の刑罰として十字架上で死なれたということが分った時、聖霊の神は、私たちの心の目を開いて、この驚くべき救いの真理を悟らせてくださるのである。こうして、その時、聖霊の神が私たちを生れ変らせてくださるわけである。

こういうプロセスが一つ一つ取られなくても、聖霊による生れ変りという体験をすれば、だれでもクリスチャンになれる。その聖霊による生れ変りの体験には、先に述べたことが含まれている。ほかの宗教のようにご利益を目指して、その宗教を信じるのとは違う。自分の罪を知り、その罪を身代りに背負って、十字架上で父なる神からの裁きを受けて死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、だれでも聖霊の神が生れ変らせてくださり、クリスチャンになることができる。その生れ変った人が洗礼を受けて、個々の教会の会員となるのである。

2007年12月15日土曜日

人間として生きる1 - 何が一番大切なことなのか

私たちの一生は長いようで、それほど長くはない。子供のころから青年時代にかけては、勉強をしたものだ。それは、将来一人前の人間となるための準備期間であるとも言える。しかし、わが国における勉強というのは、上級学校に入るための受験勉強でしかない。そういうところにおいては、ほかの人は皆敵に見えてきて、本当の友情の育つよすがもない。そして、社会に出ても、そこは出世競争社会であって、ほかの人がやはり敵としか思えない現実がある。

そういう人生を送ってきた者が、一体人間として何が本当に大切なのかということを考える余裕は全くないと言ってよいだろう。そんなことを考えていたら、人から取り残されて、敗残者となる以外にはないからだ。人間と人間が心において結ばれるということはまずないと言ってよい。

それは、結婚においても同じことが言える。結婚したてのころは、仕事も早く終えて、家に早く帰ってくるかもしれない。しかし、仕事に追われる毎日では、仕事優先の生活をし、夫婦の間に本当に心の通い合う会話はなくなっていく。

仕事も確かに大切だろう。しかし、本当に人間として生きてきたのかどうか問われるような生き方に少しも疑問を感じないような生き方をしていたら、後で必ずそのツケが回ってくるものだ。今日、熟年離婚が増えているのを他人事と思わない方がよい。多くの女性が「定年退職後、この人と顔を付き合わせて生きていくのかと思うと、ぞっとする」と言うのだ。仕事だけに打ち込み、夫婦の間に全くと言ってよいほどのコミュニケーションのなさに気付かずに来たことを、その時になって後悔しても、もう遅いのではないか。

しかし、人生に遅すぎるということはない。人間として生きるという場合、何が一番大切なことなのかということを考えることは必要なことだと思う。心を開いて語り合うことのできる人を一人も持っていないということほど寂しいことはない。本当の友をどこにも持っていないという人は、人間として毎日生活はしていても、本当に人間として生きてはいない。欠陥人間であり、太宰治が言った「人間失格」とはこのことではないだろうか。

2007年12月11日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 4/5

こんなに明快な救いの福音を、どうして人は信じようとしないのか不思議である。余りに話がうますぎるからだろうか。この世においてなら、うまい話には必ずどこかにごまかしがあると思ってもよい。しかし、これはそうではない。それなのに人はどうしてこのすばらしい救いの福音を信じようとしないのか。

悪魔が信じさせないように、人々の心に覆いをかぶせて分らないようにしているのだと聖書は教えている。また、すべての人の心の目をくらましてもいると教えている。

そして、このすばらしい救いの福音を私たちが知るためには、生れ変らなければならないのである。次のように教えられている通りである。
「生れながらの人は、神の御霊に属する霊的なことを受け入れない。それは、そのような人々にとっては、ばかばかしいことに思えるからである。また、それを悟ることもできない。というのは、霊的なことは、御霊によってのみ判断できるからである。」(1コリント2:14)

聖い神の御子が天から降りて来られ、人間としてこの地上の生活をされ、私たち人間が持っている罪を身代りに背負って十字架上で死なれても、このありがたいメッセージが私のためであるということを認めることができるためには、聖霊の神によって心の目を開いていただかなければだめなのである。

この霊的真理は、フランスの哲学者ベルグリン言っているように、そこに飛び込んでいかなければ知ることができないのである。科学的真理の場合は、それを頭で認めればそれで済むわけなのだが、宗教的真理の場合、その認識は体験以外にはありえない。その宗教的体験を可能にしてくださるのは、聖霊の神である。そしてその体験をする時、聖霊の神によって、生れ変らせていただくことができ、クリスチャンになることができるのである。
「神は、私たちが行なった何かの功績によってではなく、ただそのあわれみによって、聖霊の神が働き、私たちを清め、全く新しく生れ変らせ、こうして、救ってくださった。」(テトス3:5)

この「生れ変り」を体験しない人のことを、「生れながらの人」と言い、この人々は霊的真理に対して全く盲目である。だから、キリストが天から降りて来て、私たちの罪を十字架上で身代りに償ってくださったと言っても、それは、全くばかばかしい話としか思えないのである。 

2007年12月8日土曜日

なぜこんな聖書が必要なのか

私は三十年余りの歳月を費して、旧新約聖書六十六巻を訳した。今でも改訳すべき個所を見出しては訂正をしているので、かれこれ五十数年やっていることになる。すでに十版を出し、版毎に千箇所ぐらい改訂しているので、初版から十版までに一万箇所ぐらいの改訂をしていると思う。

今まですでに聖書の翻訳はなされているのに、今また改めて、なぜ新しい翻訳をしなければならないのであろうかという疑問を抱く人がいるかもしれない。それには理由がある。今なお聖書は分りにくいという声を聞く。そこが問題なのである。なぜ分りにくいのか。原語に忠実という翻訳原則に従っているからである。

原語に忠実に訳すのがなぜいけないのかと素人は思うかもしれない。原語に忠実では、意味の通らないことが多いのだ。たとえば、「グッド・モーニング」を、原語に忠実に訳したらどうなるか。「良い朝です。」これでは日本語として通じない。なんと言っても、「グッド・モーニング」は「おはよう」だ。この程度のことなら、だれにでも分ることだが、実際問題として、このような原則で訳しているところに、聖書の分りにくさがある。

そこで、今日では「ダイナミック・イクイバレンス」という原則が提唱された。これは、言語学者であり、アメリカ聖書協会の翻訳主任をしていたユージン・ナイダ博士によるものである。この原則は今日広く受け入れられ、この世の一般の翻訳原則となっている。そして、キリスト教界でもウィックリフ聖書翻訳協会が世界に出て行って、まだ自分の言葉になっていない聖書を翻訳する時に使っている原則である。

これは、原語に忠実という原則よりも、原語の意味に忠実という原則だと言えば、分りが早いかもしれない。風俗も習慣も全く異なるものを、ただ原語を忠実に訳したところで意味が通じないのは当たり前のことである。だから、ほかの国の言葉の、それに相当する言葉にダイナミックに置き換えるのである。今日この原則に基づいて訳された多くの英語訳聖書がある。それなのに、どうして日本語では私が訳した「現代訳聖書」(現代訳聖書刊行会)しか出ていないのか、不思議である。何しろこの聖書は解説抜きで、読むだけで分る聖書である。聖書がもう分らないとは言わせない。だから、もし分らないところであったら言ってきてほしい。直す用意があることを分ってほしい。

2007年12月4日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 3/5

ほかの宗教の場合とキリスト教の場合の大きな相違点は、ほかの宗教の場合、難行苦行をして天国への階段を登って行くというのに対して、そういう人間の善行と称するものによっては絶対に天国へは入れないというところにある。人間がいくら努力をしても、そんなことによって天国へ入ることはできないのだ。なぜかと言うと、人間が罪人だからなのである。

前にも言ったが、罪人である人間は、そのままでは最後は破滅以外にはない。近代における純文学が追求している人間が、ことごとく最後は破滅してしまうのは、そのことを如実に物語っている。夏目漱石はそれの解決を「則天去私」に求めたが、人間の力ではそれができないことを描いている。その弟子、芥川龍之介の場合、もはや作中の人物の自殺をもって事を終わらせることができず、本人自身も自殺している。太宰治の場合も同様である。落ちるところまで落ちた彼ら一群のデカダンス文学の作家群も、最後は破滅以外の何ものでもなかった。

人間が生まれながらにして持っている破滅性、つまり罪は自分の力で解決することはできない。罪というものは、法律上の犯罪も含めて、償いがなし終るまで、罪は罪を犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。こういう性質を持っている。それが、弱さとか不完全さとは根本的に違うのである。

ところで、聖書が教えていることは、「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである」(ローマ6:23)ということだから、死をもってする以外に償いの方法はないはずである。本人がその償いをしたら死んでしまうわけだから、そこに救いはない。だから、この場合、だれか第三者の人が身代りにその償いをしてくれる以外にはない。ところで、すべての人は罪人なのだから、自分の罪の償いをしなければならず、そうすれば死んでしまい、ほかの人の償いなどできるわけがない。

ところが、神は罪のない神の御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たち罪人の罪を身代りに背負い、あの十字架上の死によって償ってくださったのである。これこそ、聖書の告げる良い知らせ、つまり福音なのである。このキリストの十字架上の死が私のためであったことを知り、それを信じ、受け入れる人を、神は罪から救い出し、天国へ入れてくださるのだ。だから、自分の行いによるのではなく、神の恵みによって救ってくださるのである。

2007年12月1日土曜日

キリスト教を信じることの利点 6/6

6. 生きがいが与えられる

キリスト教を信じることによって、人生の目的、目標が分るようになると、当然何のために生きているのかが分るわけだから、生きがいを持つことができるようになる。どんな人でも、人生の意味や目的のない生き方をしていたのでは、人生に耐えることができない。

それでは、どうしてキリスト教を信じると生きがいが与えられるのだろうか。神が私たちの人生を計画し、私たちをこの世に存在させておられるわけだから、私たちの人生の意味や目的を持っておられるのは、神ご自身のはずである。そういうわけで、神を知り、神からそのことを教えていただければ、当然生きがいが与えられるわけである。

私たちは、この世界の造り主であられる神によって造られた存在なのだから、その造り主であられる神のみもとに立ち返る時に、初めて生きがいを与えられるわけである。神から離れていては、何のために生きているのか分らないのは当然のことである。

このように、キリスト教を信じる時、様々の良いことがある。それは、この世の生を終えてからだけではなく、今、私たちがこの世に生きている時に与えられるものである。しかし、いわゆる現世的ご利益といった低い次元のものではない。現世的ご利益とは、結局のところ、人間の欲望を満足させるものに他ならないのだが、キリスト教を信じる時に与えられる利点は、欲望の満足をもって終るのではなく、もっと高い次元に生きる人間の心に満足を与えるものである。

たとえば、対人関係において、私たちはいつも誰かに対して好意を持つか、それとも憎しみを持つかということが迫られてくることが多い。その時、憎しみをいつまでも抱き続けていくとしたら、自分の一生はそのことに縛られていて、自由がないだろう。それを解決してはじめて、開放感を味わうことができる。

「あなたの敵を愛しなさい」を実践できるようになるためにも、主イエス・キリストのみもとに行って、自分が今持っている重荷を降ろすためにも、キリスト教を信じることはその極意を行うことができるようになることである。ストレスから解放されるためにも、そのことは必要である。キリスト教を信じることの利点は、心の最も深いところにおける喜び、満足の与えられることである。

2007年11月28日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 2/5

以前、毎日新聞社が調査した時、「もしも宗教を持つとしたら、どういう宗教に入りたいと思いますか。」という質問に対して、若者の60パーセントが「キリスト教」と答えたと聞いている。そしておそらく今日では、その数字はもっと大きくなっていると思われる。海外に留学して、クリスチャンになって帰って来る人もかなり増えている。それにもかかわらず、わが国ではクリスチャンになる人がどうして増えないのか。前回、日本人がほかの人と違った考え方を持ちたがらないことについて触れた。それは、島国に生きているからである。

ほかの人と違っていることに違和感を抱くのは、日本という国が島国であって、一度も外国からの侵略を受けたことがなかった。その小さな島国で、みんなと一緒にやっていくことが必要であり、それが良いことなのだという考えが生れていった。つまり、「和をもって尊しとする」気風がいつしか生れていったのである。だから、日本における制裁は、いつも「村八分」という形を取った。共同体から放り出されたら生きていけないことを身に滲みて感じている人々は、いきおいその共同体の中で、みんなと同じように暮していくようにならざるをえなかったのである。

それだけではない。キリスト教が善いということは分っているのに、どうして人々はクリスチャンになろうとはしないのだろうか。それは、科学的真理と宗教的真理の違いがそこにはあるからだ。科学の問題である場合には、それに偏見を交えさえしなければ、正しい解答をだれもが出すことができる。だから、時や場所が異なっていても、皆同じ結論に到達することができる。しかし、信仰のことになると、そうはいかないのである。

科学者の場合、どんなにいかがわしい生活をしていようとも、その研究していることに関する限り、誤りが入って来なければ、その研究は一応成果を挙げることはできる。しかし、信仰を求める場合はそうはいかない。人間は罪人であるということが本当に分るということは、倫理学者のように頭で理解すればそれで済むということではなく、その罪から離れなければ、最後は裁かれ、破滅してしまうのである。科学の場合、それは頭脳の問題であり、理解力の問題なのだが、信仰の場合、それは心の問題であり、態度の問題なのである。つまり、認めなければならないのに、認めたくないという思いが出て来るのである。

2007年11月25日日曜日

キリスト教を信じることの利点 5/6

5. 心配事が少なくなる

この世の中には心配事が沢山ある。私たちが生身の体を持っている以上、いつ病気にかからないとは限らないし、交通事故や死の危険にもさらされているわけである。入学試験や、子供の事、仕事の事、人間関係の事、将来の事、老後の事など、考えれば考えるほど心配でたまらないというのが本当のところではないだろうか。ほかの人にとってみれば何でもないことであっても、当人にとっては心配事の種になる場合もあることだろう。

私もキリスト教信仰を持つまでは、長い間母親譲りの取り越し苦労性であった。取り越し苦労をしたからどういうということはないのに、そうせざるをえなかった。取り越し苦労をする人は、思い煩う原因となるべきものがまだないうちから悩み始めるのだ。時として、雷をひどくこわがる人がいて、雷がまだ鳴らないうちから、雷の鳴る日にはお腹が痛くなったりするあの敏感性とよく似ている。しかし、取り越し苦労というのは、実に愚かで、ほかの人よりも一回ずつ多く、いつも悩まなければならないのである。実際に苦しいことが起る前に一度悩んでおき、実際に起ってからもう一度悩む。そして時と場合によっては、自分ではそれがやって来ると思い込んでいるにすぎないこともあって、ほかの人は悩まないでいるのに、自分だけ一人で悩んでいるということもある。

ところで、私たちはどうして心配するのかというと、自分の力不足と知識の不足によるのである。何か困難なことにぶつかった時、それを乗り越える知恵や力が十分に備わっているのであれば、だれも心配をしないのだが、それがないために心配をするわけである。

ところが、キリスト教を信じると、神にすべてをゆだねることができるようになる。私たちの心配事をすべてゆだねることのできるお方を知るわけで、そのお方に私たちの心配事をゆだねる時、心に平安が与えられるのである。神が私たちに代って心配してくださるからである。

もちろん、クリスチャンにも次から次へと心配すべき事柄が起ってくるけれども、神にそれをゆだねてしまうことによって、思い煩わないですむわけである。これは、キリスト教を信じる者たちにとって、大きな利点と言うことができよう。

2007年11月21日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 1/5

人間は生れながらにして偏見を持っている。偏見を持っていない人はまずいないと言ってよいだろう。それほど偏った考え方を持っているのだ。しかも驚くべきことに、ほとんどの人が自分は偏見など持ったことはないし、今も持ってはいないと思っていることである。異文化圏の人と交わる時、初めて自分の考えは、世界中の人の中の一つの考えにすぎないことを知るだろう。

日本で自動車を運転している人ならご存じだろうが、交差点などで反対車線の車がライトでピカピカサインを送って来れば、「お先にどうぞ」という意味になる。ところで、韓国で運転する場合にはそうではない。ピカピカサインを見て、先に曲ったら事故を起してしまう。韓国では「お先にどうぞ」ではないのだ。「曲らないでくれ。私の方が急いでいるから、先に曲るよ」という意味なのである。

事々左様に考え方は違う。日本人同士ならまだかなり共通の考え方があるけれども、それでも「あの人は非常識な人だ」とは言わないだろうか。相手の人は別に非常識な行動をしているわけではなく、その人にとって極めて常識的な行動をしているのだが、こちらの常識の枠の中に納まらなかったにすぎない。だから、いろいろな考え方の人がいるのは、むしろ当り前のことだと考えなければならないだろう。ところが、日本という小さな島国の中に生きていると、みんな同じであることがよいことであり、それが当り前のことだと考えやすい。そして、違っている人を排除してしまおうという考えすら起ってくる。

ところで、問題を筋道に持ってくると、クリスリャンになる人は、必ずしも少なくはない。60億余りの世界総人口のうち、約33パーセントに当る20億以上のクリスチャンがいるという統計が出ている。次に多いのは、イスラーム教徒で、20パーセントで10億余り、仏教に至っては3億しかいないのである。しかし、日本だけに目をやると、確かにクリスチャンの数は少ない。同じ人種、同じような文化を持ちながらお隣りの韓国では、全人口の25パーセントから30パーセントがクリスチャンになっている。なぜこのような差がついてしまったのかということについては、ここでは取り上げない。しかしどうしてもお知りになりたい方は、拙著「日本人とキリスト教の受容」(羊群社)をご覧いただきたい。ここでは、一般的にキリスト教が受容されにくい点について見ていこうと思う。

2007年11月17日土曜日

キリスト教を信じることの利点 4/6

4. 人を恐れなくなる

キリスト教を信じるまでは、私たちは人の言うことが気になって仕方がなかった。人の口や人の目を恐れた生活は、無力な生活である。とくに日本人は、ほかの人がどう思うかということを気にする国民である。ほかの人のうわさやほかの人の評価が気になるのである。だから、多くの人はこのような考え方をする。「キリスト教が良いことは良く分かっています。しかし、ほかの人が教会へ行かないのに、自分だけが行くのであれば、ほかの人からどう思われるかが心配で行けません。」ほかの人がどう考えようと、そんなことは全く問題ではないと考える日本人には、ほとんどお目に掛らないというのが偽りのない事実である。ことほどさように、日本人にとっては、ほかの人がどう考えるのかということが重要なことなのである。

どうして日本人はほかの人が自分をどう思うかということが気に掛るのかというと、島国であるということと、一度も敵の侵入によって征服されたことがないため、和を持って尊しとする考え方が生まれ、ほかの人に合わせてものを考えるということが起ってきた。だから、日本における制裁は、いつも村八分という形を取る。共同体からはみ出されたら生きていけないという考え方が形成されていったわけである。だから、ほかの人のことがいつも気に掛かって仕方がないという考え方が生まれていったわけである。

しかし、神からしっかりとした確信が与えられると、人を恐れなくなるから、ほかの人の言うことなど少しも気にならなくなる。

ほかの人の言うことが気にならなくなるというのは、傲岸不遜になることとは違う。自分の確信というものが与えられるために、人がどのように思おうと、人がどのように言おうと、人の思惑や、人の反対や、人の評価などが全く問題でなくなるのである。ただ神からの評価によって生きることができるようになるのである。

人のうわさや人の目を気にしている生活は、いつも人を見ておびえていなければならないが、神だけを見上げている生活においては、比較の世界から脱して、絶対者である神の見地からすべてを見ていこうとするわけだから、いつも心に余裕があって、平安と確信に満ちていることができる。

2007年11月14日水曜日

アジアの人々への謝罪運動 2/2

日本の近代化百数十年の歴史は、アジアの人々との共生を模索したのではなく、アジアの人々を踏み付けにしてきたものであった。この事実を、私たちは決して忘れてはならない。加害者という者は自分のやってきた悪事を簡単に忘れてしまうものだが、被害者はいつまでもその痛みを覚えているものである。現に私たち日本人は、いまだに原爆被害を叫び続けているではないか。それは、今もその痛みがあるからである。日本人は、被害者であったと同時に、加害者でもあったのだということを知らなければならない。そうでないと、アジアの人々の心の痛みを見過ごしにしてしまわないとも限らない。私たちがアジアの人々との共生を願うなら、そのことをいいかげんにすることはできないのである。

1956年の初夏のこと、ある朝、私はディヴォーションを持っていて、マタイによる福音書5章を読んでいた。その時、私は次の御言葉に捕えられてしまった。
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみを抱いていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」(マタイ5:23-24 口語訳)

「祭壇に供え物をささげ」ることは、礼拝のことである。神の民にとって、礼拝は何ものにも勝って優先しなければならないことなのに、それよりも優先しなければならないことがあるというのである。それは和解である。なぜ和解がそんなに重要なのかと言うと、この御言葉の文脈から見ていくと分るのだが、だれかからうらみを買っているというのは、殺人だからなのだと教えられている。

私はこの御言葉を読みながら、私たち日本人は確かにアジアの人々から恨みを買っているということを思い出していた。なかでも、とくに韓国、中国の人々に対してわが国が行なってきたことを知っていたからである。この御言葉を見る限り、私たちがいくら熱心に礼拝をささげても、主から祝福を受けることはないだろうと思った。それは、アジアの人々に対して謝罪が行われていないからである。それをしなければならないことを、私はその日神から強く示された。こうして私が始めたアジアの人々への謝罪運動について、くわしくは、月刊雑誌「羊群」(羊群社)の2007年1月号からに連載されている。

2007年11月11日日曜日

キリスト教を信じることの利点 3/6

3. 人間関係が良くなる

私たちが社会生活を送っていこうとする時、人間関係は極めて重要なものになってくる。人間は一人で生きていくことができないからである。私たち人間が一人で生きていくことができないのは、私たちが人格を持った存在だからである。ここで人格を持った存在というのは、「あの人は人格者だ」というような言い方の時とは全然別の使い方である。人格を持った存在というのは、もう一つの別の人格を必要とする。それなしには生きていくことのできない存在ということである。

具体的に言えば、人間は人格の持ち主である神やほかの人間なしでは生きられない存在なのである。そういう者として、神は人間をお造りになられた。人間が神のかたちを持った者として造られたということは、そのことである。

人格を持った人間は、ほかの人格を持った人間を必要とする存在である。そういう人がいないと耐えられぬ孤独にあえぐようになる。現代人が孤独なのは、本当に交わりうる相手を持っていないところにある。愛と信頼によって成り立っている友や配偶者をあなたは持っているだろうか。

それでは、どのようにすれば、人間関係を良くすることができるのだろうか。それは決して小手先でできるテクニックのようなものではない。私たちが取る姿勢そのものに関係している。私たちの方が変ることが何よりもまず必要である。私たちが自分の言いたいことを言い、やりたいことをしていたのでは、決して人間関係はうまくいくものではない。

それでは、どうしたら私たちが変ることができるのだろうか。ある人は、自分の力でそれをしようとする。けれども、それは全く無理なことである。自分で自分を変えることなどできるものではない。もしもそれができるものであるとしたら、人間はとうの昔にあらゆる問題を解決し、そういうところから卒業していたはずである。だから、自分で自分を変えることなどできないのである。

相手が変ることを期待することは無理なことである。むしろ私たちが変ることを期待するべきである。神が私たちの生き方を根底から変えてくださる。キリスト教を信じる時、神がそうしてくださる。これが、キリスト教を信じる大きな利点であると言うことができる。

2007年11月7日水曜日

アジアの人々への謝罪運動 1/2

日本の近代化の歴史、百数十年は、アジアの人々を踏み付けにしてきた歴史だった。こういうことについては、案外知らない人が多い。それもそのはず、私たちが学校で教えられてきた日本の歴史は、五大強国にのし上がってきたものであった。つまり、それは栄光の歴史にほかならなかった。学校で使う教科書には、これしか書かれていない。ところで、この栄光の歴史のかげに、恥辱の歴史があることを知らなければならないのである。

当時の世界情勢はどうであったかと言うと、ヨーロッパの列強が、アジア、アフリカの国々を植民地化していた。アジアだけに焦点を合わせると、インドはすでに十八世紀のころからイギリスによる侵略を受けており、十九世紀の半ばまでに、イギリスは現在のインド、パキスタン、ミャンマー、セイロン(現スリランカ)、ネパール、マレーシアなど、南アジア全域を支配下に置いていた。

インドシナ半島東部地域は、フランスが侵略していた。今のヴェトナム、カンボジアそれにラオスも十九世紀末までにはフランスの支配下に入っていた。

また現在のインドネシアはオランダが支配していた。フィリピンは、すでに十六世紀からスペインが領有していた。

アジアで植民地化を免れていたのは、タイと日本だけであった。このように、アジアの各地は、ヨーロッパの列強によって侵略されていた。中国はアヘン戦争でも、またアロー戦争でも敗北したが、このどちらの戦争もイギリスが起こした戦争で、目的は中国をイギリス工業の市場とすることであった。

こうした情勢下にあって、日本が欧米の侵略に備えて生きる道としては、統一国家を樹立する以外にはなく、1853年のペリー来航をきっかけとして、幕藩体制から近代国家としてスタートするために、明治維新による新政府が1868年に出来ることになる。

そして新政府が取った道は、アジアの諸国と手を組んで、共闘するということよりも、欧米の仲間入りをすることによって、植民地化を免れようとしたのである。もちろん、アジアの国々と手を組んで共闘して勝利を収める可能性がどれほどあったかは疑問だが、しかし、わが国は海外侵略を開始し、アジア、アフリカを通じて、唯一の植民地保有国となり、そのことのために、アジアの国々から恨みを買うようになってしまったのである。

2007年11月4日日曜日

キリスト教を信じることの利点 2/6

2. 反省心を持つようになり、人生の生き方の方向転換をすることができる

私たちは、キリスト教信仰を持つまでは、悪いのはいつでもほかの人であって、自分は決して悪くはないのだと思い、ほかの人を責めていた。けれども、キリスト教信仰を持つようになると、自分の本当の姿が分り、自分の非を認めることができるようになるのである。

精神的に健全な人なら、だれでも反省心を持つ。だから、精神科の医師に言わせると、まともな人間であるかどうかを判断する一つの方法として反省心があるかどうかを見るのだと言う。だから、まともな人なら、だれでも皆反省心を持っている。しかし、キリスト教信仰を持つと、ただ単に反省心を持つようになるだけでなく、悔い改めることができるようになるのである。

悔い改めと後悔は全く違う。後悔というのは、それがどんなに深い悔恨の念から出ていたとしても、悪かったという思いで留まってしまっているため、決して前進することがない。ところが、悔い改めというのは、それとは違い、今までやっていたことをやめ、方向転換するわけだから、実質的な前進がそこにはある。だから、後悔であるのなら、同じ失敗を何度でも繰り返してしまうのに反して、悔い改めは決定的な方向転換であるため、同じ失敗を何度も繰り返してしまうということはない。

なぜ悔い改めにはそのような効果があるのかと言うと、悔い改めと信仰とは表裏一体の関係にあるからである。今までイエス・キリストに背を向けて歩んでいた人が悔い改めると、その人は生き方の方向転換をするわけだから、今度はイエス・キリストを信じ仰いで生きるようになるわけである。後悔になぜ前進がないかというと、それは背後に信仰という裏付けがないからである。そこに、この両者の間の決定的相違点があるということが言える。

どんなに反省心があっても、悔い改めることができなければ、同じところに留まり続けていて、前進がない。

たとえば、誰かの心を傷付けてしまったような場合、ただ単に自分の心の中で後悔の念を繰り返していたのではだめで、傷付けた人の所に行ってわび、償いをすることが必要である。これが悔い改めの実であり、新しい生き方の結果である。

2007年10月31日水曜日

実存的問題-死 5/5

私が陸軍経理学校の士官候補生として、ハード・トレーニングを受けていたときにも、米軍の空襲は激しく続けられ、五百キロ爆弾が数発落とされたり、速射砲の射撃を受けたりして、文字通り死線を越えるようなこともあった。しかし、終戦になり、こうした緊張から解かれると、またもや死に対する恐怖は心の中に湧き起って来た。四つの島(北海道、本州、四国、九州)に全日本人が住まなければならなくなり、外地からの引揚者が帰ってくると、何万人かの人々は食料不足から餓死しなければならなくなるかもしれないということが言われた。すると、私はその餓死するかもしれない何万人かの人の中に入るのかどうかということが、いつも頭にこびりついて、その恐怖から離れることはできなかった。

しかし、この私にも、とうとう長い間抱いていた、死に対する恐怖から解放される時がやって来た。それは、主イエス・キリストを信じた時である。不思議と、その日以来、私の心からは死に対する恐怖はなくなっていた。そして、少なくとも死に対する恐怖が取り越し苦労という形で私に襲ってくることはなくなった。そして、人はなぜ死ぬのかという疑問についても、死の恐れからなぜ解放されたのかということについても、私ははっきりと分った。それは、私たち人間の死をも生をも支配しておられる生けるまことの神の啓示である聖書によってである。

聖書によれば、人間が死ななければならないのは、人間が罪を持っているからであり、人間は罪を犯したがために、その刑罰として死ななければならなくなったのだと教えている。最初の人アダムが罪を犯した時、生命の自然的終結に、神の刑罰という意味が加わるようになったのである。だから、単に肉体の死滅だけでなく、あらゆる形での災いが下されるようになったわけである。地獄における永遠の悲惨もそうだし、現にこの世にいても多くの災悪を受けるようになった。

その罪を持った人間が受けなければならない神の刑罰を、天から人の姿を取ってこの世に来られる神の御子イエス・キリストが、十字架上で身代わりに受けてくださった。そのことを信じた時、私の心の下にのしかかっていた神の呪いは取り除けられたのである。
「このように神の子供たちは皆人間として肉体を持っているので、イエスもまた同じように肉体を取られた。それは、人間として死ぬことにより、死の力を持っている悪魔の力を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に取り付かれている人々を解放するためである」(ヘブル2:14-15)。

2007年10月27日土曜日

キリスト教を信じることの利点 1/6

キリスト教はご利益宗教ではない。それなら、キリスト教を信じても何も良いことはないのか。そんなことはない。この世においても良いことはあるし、来世においても良いことは沢山ある。この世においては、どんな良いことがあるのかについて考えてみよう。

1. 自分自身が良く分かる

私たちは、自分自身のことを分っているつもりでも、案外よく知らない。自分を買いかぶっていることが多い。自分はそれほど悪くないと思っていたり、自信が強かったりする人が多いのだが、ちょっと大きな失敗をしたりすると、今度はすぐに自信を喪失してしまったり、生きていけないほどの失意のうちに陥ってしまうものだ。それは、自分の姿を本当によく知らないからである。

人間が自分自身の姿を本当によく知らないのは、罪のために心の目が盲目にされてしまっているからだ。それでは、どうしたら自分の本当の姿を知ることができるのだろうか。自分の本当の姿を知っているのは自分自身だと思っている人が多いのだが、実はそうではない。私たちの本当の姿を知っているのは、私たち自身なのではなく、神なのである。すべてを見通しておられる神だけが、私たちの本当の姿をご存知なのである。

だから、神を知り、神から教えていただかなければ、自分の本当の姿を知ることはできない。それでは、神はどのようにして私たちにその本当の姿を教えてくださるのだろうか。それは、神の言葉である聖書を通してである。私たちが聖書を読む時、そこには私たちの姿が映し出されている。聖書は私たちの心を映し出す鏡のようなものである。

それでは、聖書は私たちの姿をどのように映し出しているのだろうか。聖書は私たちが罪人であると教えている。私たちは、いつでもほかの人の欠点だけが見えて、自分の欠点が見えない者だ。ほかの人を責めてばかりいる者だ。何よりもこれが罪人の特徴である。自分が罪人であるということは、聖書によって初めて分ることである。

罪人とは、そのままの状態では滅んでしまう存在のことだ。そのような危険な状態にいることを教えてくれる。病人は、まず最初に、自分が癒されなければならない病人であることを知る必要がある。同様に、私たちは救われなければならない罪人であることを、まず最初に知ることが必要なのである。

2007年10月23日火曜日

実存的問題-死 4/5

もの心がついてから、私にとって死はまことに恐怖の対象であり続けた。もちろん、今、思い出しても、格別これと言った出来事にぶつかったわけではなかった。確かに、私が三、四歳の頃、祖父が死んだ。しかし、今思い返してみても、それが私にとって死に対する恐怖を呼び起こす契機となったとは言えない。けれども、いつのころからか、私は、人はなぜ死ぬのだろうかといった疑問を抱くようになっていた。なぜ人は死ななければならないのかという疑問は、私の場合、死に対する恐怖にまっすぐにつながっていっていた。死さえなければ、この世の中はどんなに楽しいものか分らないのにと思った。こうした死に対する恐怖は、おそらく私が生まれながらに体が弱かったということとも関係するのではないかと思う。すぐに風邪を引いたり、おなかをこわしたりして、寝込んでもしまったし、よく色々な病気にもかかった。そしていつしか、私はそう長くはこの世に生きることはできないにちがいないと一人で思い込むようになっていった。

死、この不気味なものに対する恐怖は、成長していくにつれて薄れていくどころか、いつも私の心の片隅を占領していた。何をやっても、いつもその最後が見えてしまうつまらなさを、よく味わったものである。たとえば、お正月などにトランプや何かをして、みんなで遊ぼうということになっても、その終わった後のむなしいばかりの倦怠感を思うと、やる気が起らないのだ。そして、そうしたすべてのものの上に、私は目ざとく死のかげを見て取っていた。死が長くそのかげを投げ掛けているのに、どうして楽しんだりすることができようか。人生におけるこの不気味なものを解決しない限り、人生そのものを楽しむことはできなかった。死をもってすべてが終わってしまうと考えただけでも、すべてはむなしいもののように思われた。そして、私の小さな頭で到達できるところと言えば、たかだかそのあたりまでにしかすぎなかった。

このように死を恐れた私でも、あの第二次世界大戦が激しさを増し、みんなが戦争に加わらなければならなくなると、自分だけが安全地帯に立っていることは許されないという気持になった。そして旧制中学を出ると、陸軍経理学校へ行った。そこは現役の将校を養成する学校なので、士官候補生として、日夜激しい訓練を受けた。

2007年10月20日土曜日

本当のキリスト教 3/3

キリストを信じる時、私たちは生れ変る。神が私たちを新しい人生に入れてくださる。この生れ変るということは、聖人君子になるということではない。また、罪が全然ない完璧な人間になるということでもない。神の子として生れ変ったばかりの人、まだ生れたばかりの赤ちゃんなのである。これから成長していかなければならないのである。それは、私たちの心の中に新しい命の種が植え付けられたものなのである。だから、とにかく新しい人生のスタートをしたわけである。

この生れ変りを経験した人が、洗礼を受け、教会の一員となるのである。本来、教会とは、この世から救い出された信者によって構成されるものだからである。この教会には二つの面があって、一つは目に見えない霊的普遍的な面で、もう一つは、目に見える制度的な面である。ちょうど人間にも、目に見える肉体と目に見えない霊とがあるのと同じである。

教会にも、目に見えない面と目に見える面がある。目に見えない霊的普遍的性格の教会に加わるためには、キリストと結び付けられ、生れ変るという経験が必要だが、これをキリストと合うバプテスマという(ローマ6:3-5)。これは、聖霊によってなされるので、聖霊によるバプテスマとも呼ばれる(1コリント12:13)。これが教会に加えられるための重要条件である。

この実質条件は目に見えない霊的普遍的教会に加えられる時のことで、目に見えない霊的普遍的教会と目に見える制度的教会とは一つなのだから、この実質条件にかなった人、つまり聖霊によるバプテスマによってキリストと結び合わされ、生れ変った人が、水によるバプテスマによって、目に見える制度的教会に加えられるということになる。

本当のキリスト教というのは、教会のこの二つの面の位置付けを正しくし、このどちらもいいかげんにはしない。聖霊によるバプテスマである生れ変りを経験していない人に水のバプテスマ(洗礼)を授けたり、また、目に見える制度的教会を否定したりすることは、本当のキリスト教ではない。

キリストはもう一度この世に来られる。このキリストの再臨がいつであるかは分らないが、必ず来られる。その時、この世界は終りになり、イエス・キリストを信じている人は皆天国に入れられるために復活し、霊的体が与えられ、永遠に神と共にいることになる。

2007年10月17日水曜日

実存的問題-死 3/5

なぜ私たちは死をそんなに恐れるのだろうか。死の肉体的苦痛を恐れるのだろうか。そうではない。今日私たちは、いわゆる安楽死と呼ばれる方法を知っている。しかしそれでも、死ぬことができない。それは、死そのものに対する恐れというよりは、死の後に何かがあるということを知っていて、それに対する恐れであるとは言えないだろうか。確かに、この世は不公平だ。悪いことを散々やり、かなりあくどいことをやりながらも、結構うまくやっている人がいて、往生を遂げている。そして、もう一方では、正直にことをやり、人々にあわれみの心を持っていながら、生涯、正当な報い受けないでこの世の生を終えていく人もいる。そのような姿を見る時、だれでもこの世だけがすべてなのではなく、この世の生が終わった後に、必ずこの世の総精算とも言うべき公平な裁きがあるはずだと思わざるをえない。もしもそうしたことがないのなら、自分のためにやりたいことの限りを尽くし、自分のために楽しい人生を送った方がはるかに利口だ。しかし、私たちにそれが出来ないのは、この世の人生の後に、私たちの人生は必ず公平な総精算がなされるのだという思いがあるからだ。それは、だれでも生れながらに持っている生得観念ではないだろうか。人が死を恐れるのは、それを予測しているからである。

確かにそれは不気味である。単に未知の世界であるというだけでなく、身に覚えのあるすべての人は、裁きの待っている死後の世界について、不気味でないわけがない。神は、聖書の中で、はっきりとこう告げておられる。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。

確かに、死や死後の世界のことについては、神よりの啓示によらなければ、だれにも分らないことである。死人に口なしだからである。死んだ人に聞くわけにはいかない。臨死体験をした人がいて、ある程度は分っていても、死後の世界のほんの入り口のことしか分らない。私たちの知識のほとんどは、自分たちの経験に頼っているが、死と死後の世界のことだけは、人間の経験に頼るわけにはいかないのである。いきおいほかの道を求めなければならない。そこで最も確実な道としては、私たちの生も死も支配しておられる神からの啓示によるのだ。だから、死と死後の世界のことについては、この神からの啓示である聖書から学ぶ以外にはない。

2007年10月13日土曜日

本当のキリスト教 2/3

それでは、本当のキリスト教とは、どういうものなのだろうか。まず何と言っても聖書観が重要である。聖書はキリスト教の原点であり、聖書をどう見るかは、本当のキリスト教とそうでないものとの分かれ目になる。正統的なキリスト教は、何と言っても聖書を最終権威とする以上、聖書を誤りのない神の言葉と信じる。これこそ主イエスの聖書観である。

ところが、今日キリスト教と称しながらも、聖書を誤りのない神の言葉と信じないものが少なからずあるもので、注意しなければならない。聖書を人間の書いた書物と同一視したり、誤りがあると教えるものがある。参照「聖書の権威」

次に、神をどう見るかだ。父と子と聖霊の三人格を持った唯一のお方、つまり三位一体の神を信じるのがキリスト教である。それに、神が全世界の造り主であることを信じる。その神がイエス・キリストによってご自分を現してくださったのだ。だから、イエス・キリストは人の姿を取られた真の神であって、それが具体的にキリストの処女降誕という事実によって行われた。

次に、人間をどう見るかと言うと、人間は神によって造られた者であり、しかも自分の意志で罪を犯した罪人にすぎない。神の恵みによる救い以外の方法では、決して救われることのありえない存在である。

このような人間を救ってくださるために、神はキリストをこの世に遣わされ、キリストは私たちの罪を背負って十字架上で私たちの身代わりとして罪を償うために死んでくださった。キリストの十字架上の死は、実に私たちの罪を贖ってくださるものであり、キリストは私たちの罪を贖うために死なれた後、三日目に死人の中から復活し、私たち信じる者たちに対して、最後の日に、復活する希望を与えてくださった。

このようにキリストが十字架上で成し遂げてくださった贖いが私のためであることを信じるとき、その人は罪から救われる。罪から救われるだけでなく、最後の日になされる裁きからも救われる。この救いを自分のものとするためには、信仰と悔い改めが必要である。

最近、イエス・キリストが十字架上で死なれたとき、全人類は救われたと教える異端が現れた。これは信仰も悔い改めも必要としない教えだ。これは、聖書の教えるキリスト教ではない。

2007年10月10日水曜日

実存的問題-死 2/5

私は牧師となって54年。多くの人の臨終に立ち会い、死に居合わせるようになって感じるのだが、人間は、結局は一人であるということだ。その人がどんな思想を持っていようと、国際人であろうと、有名人であろうと、金持であろうと、貧乏人であろうと、死においては、全く一人の人間にすぎない。だから、人間は自分自身で、自分の真実な人生を追求しなければならないことを感ぜざるをえない。そして人間はだれでも、借りものの思想でこの世を送ることのいかに愚かであるかということを、この死に立ち会わされて、感ぜざるをえない。借りものの思想では、この死という厳しい現実を絶対に乗り越えることはできない。学者や知識人は、古今東西の多くの人々の知識や知恵を、自分の脳裡に蓄えている。そして時として、それがあたかも自分のものででもあるかのような錯覚に陥る。しかし、それが借りものにしかすぎなくて、本当に自分のものでない場合には、死に際して、ばけの皮がはがれてしまう。厳しい死の現実の前に立たされて、ごまかしは決して言うことをきかないのだ。だから、真実を求める人生が必要なのだ。そうでなければ、最も孤独な死の瞬間に、どうして耐えられようか。

人間は、健康な時ほど死を恐れない。自分など死なないとか、自分などは死から最も遠くにいると思っているからだ。そして、あたかも死など全く意に介しないかのように、勇ましくしている。けれども、死の足音がひそかに迫ってくる時、人間はその勇ましかった向こう見ずの言葉を恥じるようになるものだ。

死に臨む時こそ、人生における最後の孤独の瞬間である。ただ一人なのだということを、しみじみと経験させられること、死に臨むがごとき時は、ほかにないだろう。日ごろ父と呼び、母と呼び、あるいは夫、あるいは妻と呼んだ人たちが、一様に少しも頼りにならない冷たい他者として、また訴えても求めても力にも慰めにもならない者として、ただむなしく枕辺にそのその面をさらす他人と化してしまう時こそは、その死の床においてなのだ。ただ一人、死の前に打ち捨てられた人は、はたしてだれに頼り、だれに訴え、だれにすがったらよいのだろうか。頼るべきものは、ついにこの世にない。神を否定し、信仰なくして生きてきた人も、ついに信仰なしには死ねないのだということを、死に臨んで、初めて体験せざるをえなくなるのである。

2007年10月6日土曜日

本当のキリスト教 1/3

今日、キリスト教という看板を掲げながら、その実キリスト教でないものが沢山ある。だから、本当のキリスト教とは何かを知ることは重要なことだと思う。

キリスト教とキリスト教でないものを区別するものは何なのか。私はこれを二つの点で説明しようと思う。その一つは、形式原理という点からである。

形式原理という点から見ていくと、聖書を最終権威とするのがキリスト教であって、そうでないのはキリスト教ではない。今日、異端がかなりはびこっているが、それらがいかにキリスト教のような名称を付け、まぎらわしい偽装を凝らしても、最終権威を聖書としない以上、それはキリスト教の一派と言うことはできない。

たとえば、モルモン教というのは、正式名称を「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言っている。いかにもキリスト教の一派のような名称だ。そして彼らは聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは聖書ではなく、「モルモン経」、「教義と聖約」、「高価な真珠」という3冊の書物だ。これによって聖書を解釈し、これを最終基準とする。だから、キリスト教ではない。

エホバの証人も正式名称を「ものみの塔聖書冊子教会」と言っている。いかにも日本聖書教会や日本聖書刊行会と言った団体と同じようなキリスト教団体のように見える。そして、もちろん聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは、聖書ではなく、「神が偽ることのできない事柄」という書物である。これによって聖書を解釈するわけだから、キリスト教ではない。

統一教会も正式名称を「世界基督教統一神霊協会」と言っている。いかにもキリスト教の一派のような名称だ。そして、彼らも聖書を使う。しかし、彼らが最終権威とするのは聖書ではなく、「原理講論」という書物だ。これに、あの独特な聖書解釈が載っていて、それによって聖書を解釈する。だから、これもまたキリスト教ではない。

それでは、次に実質原理はどうか。これらのどれも、まずイエス・キリストの神性と救い主性を否定し、またイエス・キリストの身代りの贖いを否定する。こういうことになれば、もう明らかにキリスト教と言うことはできない。キリスト教の装いをした異端ということになってしまうのである。

2007年10月3日水曜日

実存的問題-死 1/5

生きとし生ける者は皆死ぬ。これほど確実なことはない。しかも、この確実な死について、一体どれだけの人がその準備をしているだろうか。考えてみると、まことに不思議だ。人はだれでも確かに起ることについては、必ず準備をするものなのに、この死についてだけは、大半の人が何の準備もしていない。そして、いよいよ死が近づいていて、初めて何の準備もなしにこの死に立ち向おうとしていることの恐ろしさに、ただ後悔するのではないか。

死はあまりにも厳しい現実だ。そのため、だれもこれを正視することができない。死に対する準備をしておかなければならないということは分っていても、これを見つめることが恐ろしくて出来ないのだ。確かに死は、だれにとっても不気味だ。生きている者で、これを一度でも経験した者はいない。経験したら、もう生きてはいない。経験していないからこそ、こうして生きていられるわけである。死んだらどうなるかということは、生きている人間が、だれ一人知らないのだから不気味なのである。しかし、この不気味な死を避けて通ることは出来ない。遅かれ早かれ、私たちの身の上にそれは現実のこととして臨む。しかも、それは一人一人に臨むのだ。愛する者と分かち合うことのできぬもの、ただ一人で味わわなければならぬものとして臨むのだ。

たといだれかと一緒に死ぬようなことがあっても、死を経験するのは、一人一人であって、二人ではない。そのような問題こそ実存的な問題なのである。この実存的な問題こそ人生における最大の問題なのである。

死については、いろいろな教えや考え方があるが、その中から自分の好きなものを選べばよいというような種類のものではない。どうしてもそれに安住できる確かな教えを知らなければならないはずである。

死後の問題について書かれた本としては、クセジュ文庫の中にグレゴワール著「死後の世界」や岩波新書の中に渡辺照宏著「死後の世界」がある。これらも良い本として推薦したいと思うが、私はこれらの本にあきたらず、「死への備え」(いのちのことば社)という本を書いた。人間をお造りになり、人間の生死をつかさどっておられる本当の神が持っておられる解答である。人間が死後の世界を想像している人間の考えではなく、神が持っておられるお考えである。それは、聖書に啓示されているもので、人間の確かな死生観である。

2007年9月29日土曜日

キリスト教は禁欲主義なのか

聖書の教えを禁欲主義だと勘違いしている人は案外多い。しかし、キリスト教は禁欲主義ではない。そう言うと、それでは快楽主義なのかと聞いて来る人がいるから驚く。キリスト教は禁欲主義でも快楽主義でもない。キリスト教が禁欲主義と似ているところがあるとすれば、クリスチャンが決して浪費をしたり華美に走ったりしないところにあるだろう。確かにクリスチャンの生活が質素であり、清楚であるとしても、決して戒律に従って生活しているのではない。その点自由である。自由であるという点からすれば、快楽主義と似ているかもしれない。ただ違うのは、快楽主義者が自分の欲望の赴くままに自由に行動するのに対して、クリスチャンは、神の御言葉の上に自由に行動する。神の御言葉というレールの上を自由に走る列車のようなものである。

禁欲主義とは、一種の禁止主義である。禁止主義に解決はない。解決はいつも禁止という消極的なものにあるのではなく、もっと積極的なものにあるはずだからである。キリスト教においては、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という禁止条項がクリスチャンの規範なのではなく、イエス・キリストご自身を規範として行動する。

イエス・キリストを信じることによる、積極的な解決である。ここに、禁欲主義とは根本的に違う点がある。禁欲主義の場合には、いつもしてはいけないことばかりを考えて、行動は消極的になってしまうが、クリスチャンの場合には、自由が与えられているから、積極的に行動することができる。

禁欲主義が本当の解決にならないことは、聖書自体が教えている。
「あなたがたは、キリストと共に死んで、この世の幼稚な教えから離れたのに、どうして、まだこの世の人々と同じように、『・・・してはいけない』というような禁欲主義に縛られるのか。そんなものは、やってみればそれでおしまいで、神の福音にあずかることのできない、人の作った戒めや教えに過ぎない。そういったものは、独り善がりの礼拝と、自己卑下と、肉体の苦行という点では、一見賢いもののように見えるが、生まれながらの肉欲に対しては、何の役にも立ちはしない。」(コロサイ2:20-23)

これほどはっきり禁欲主義を否定している箇所もないだろう。それは、人間の教えなのだ。だから、聖書の教えているキリスト教とは全く相いれないものである。禁欲主義では決して救われることはない。

2007年9月25日火曜日

実存的問題-エゴイズム 4/4

エゴイズムと聖書で言う「罪」とは、必ずしも同じではない。しかし、「罪」と言っても多くの人は分らないと思うので、エゴイズムと言っておいた。これならだれにでもよく分るだろうと思う。それほど聖書で言う「罪」は分りにくい。エゴイズムという言葉を使うと、だれでも自分がいかにエゴイストであるかということを知っているから、それを自分のこととして考えることができるだろう。

ところで、本質においては、この両者は同じなのである。だから、そういうことが分ると、自分が罪人なのだということも分るだろう。罪人は生れながらにして破滅性を持っている。文学は人間を帰納的に追求し、人間の破滅性を描いているが、聖書は演繹的に人間の破滅性を断言している。

罪は人間関係を破壊してしまう。それは自分さえよければそれでよいと思うエゴイズムがそこにあるからである。表面的なつき合い程度のものはそこにあっても、心と心の通い合う交わりを持つことができないのは、そのあたりに本当の事情が存在しているのである。

罪はただ単に人間関係を損なうだけではなく、本来私たち人間を造ってくださった神との関係も損なうことになるのは当然のことである。私たちが私たちの作り主である神から離れた生き方をしているのもそのことによる。

人間は特別に無神論の教育を受けなければ、だれでも生まれながらにして無神論者であるものはいない。ただ罪のために、造り主である本当の神から離れてしまっているので、本当の神が分らなくなっている。神から離れた人間は、神なしで生きていくことができないので、何かを神として拝む以外にはない。目に見える偶像を人の手で作って拝んだり、目に見えない思想を一種の偶像として、それ心を寄せている。しかし、本当の神ではないので、生きる力を与えてはくれないのである。

生みの親を無視する子供がいたら、その親はどんなに悲しむことだろうか。本当の造り主である神がおられるのに、そのお方を無視し、偶像崇拝をしていたら、生きておられる本当の神はどんなに悲しんでおられることだろうか。

偽札が出回っているということは、本当に価値あるお札がただ一つだけあるように、いろいろな宗教があるということは、本当の神がただ一人だけおられ、そのお方は比類を見ないほどすばらしい神であるはずだ。そのお方に背を向けているということこそ罪の本質なのである。

2007年9月22日土曜日

報いを求める心は卑しいか

私は若いころ、倉田百三の「愛と認識との出発」、「出家とその弟子」や阿部次郎の「三太郎の日記」をよく読んだものだ。こういう書物に共鳴するのは、若者の心が純粋さを求めているからだと思う。しかし、私は聖書を知り、信仰を持ち、聖書を熟読していくうちに、これらの非現実的な教えに満足できず、聖書の深い教えに捕えられ、誤った異教主義から目覚めさせられた。

若い人たちは、確かに純粋なものにあこがれる。それは良いことだが、理想と空想を混同していることがしばしばある。報いを求める心は卑しいのだという言葉にぶつかる度に、私はその純粋さにひかれていった。そして、最初のうちは、聖書の中にも、この報いを求める教えを見出して、失望したものだった。しかし、はたして報いを求める心は卑しいのだろうか。そして、報いを求めることなしに、人間は何かを行なうことができるほど高尚な者なのだろうか。この問題にぶつかった時、私ははたととまどったことを覚えている。

マタイによる福音書6章1節-18節は、報いという思想がその基調となっている。そこでは、人からの報いを期待する人は、神からの報いを受けることができないと教えられており、決して報い自体を否定してはいない。報いという思想は、聖書のこの箇所にだけ出て来るのではなく、聖書の至るところに、いや、聖書を一貫して出てくる思想なのである。報いという思想は、聖書において基調をなしている。聖書の中には、報いを求める心は卑しいとか、報いを求めず、犠牲と奉仕をするようにとは教えられていない。

報いを求める心は自然なのである。決して卑しい心ではない。それを卑しいと考えるのは、私たち日本人の精神的土壌がそうさせるのだと思う。私たちのものの考え方の中には、儒教的な禁欲主義が入ってきていて、いつしかこのような考え方を形成していた。

報いを求めずに何かをすることは、純粋であり、美しいように見える。しかし、それは不可能なことだ。報いを求めないとすれば、人間は一体どんな動機で行動できるだろうか。人間が罪に陥って以来、自己中心主義(エゴティズム)は、利己主義(エゴイズム)と密接に結びついてしまった。そのため、自己中心主義が罪だと思っている人が案外多い。自分のために報いを求める心が必ずしも卑しいわけではない。ほかの人などどうでもよいと考える利己主義が問題なのである。

2007年9月19日水曜日

実存的問題-エゴイズム 3/4

聖書では、「罪」のことを「的外れ」と呼んでいる。それは、神が私たち人間をお造りになった時、このような生き方をするようにとお決めになった道、つまりそのように生きれば本当の幸福が与えられ、命の充足を得ることができる道から外れてしまい、いくら努力しても、そのような目標に到達できないような生き方のことである。エゴイストのことを、そういう意味で、「的外れの人」つまり「罪人」と呼ぶのである。

有島武郎は、「惜しみなく愛は奪う」を書いた。その中で彼は次のように言っている。
「私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを付することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。而して交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから、更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己の中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。而して己れをのみだ。」

これは、彼の43才の時に書かれたものである。彼のこれほどまでに徹底した自己本位の生き方は、彼の人生に真に充実した意味を与えてくれただろうか。いや、彼はついに虚無の世界に転落していかなければならなかった。

エゴイズムの罪は、神の定めておられる人間の人間としての道から外れているので、ついに目標に到達することはできない。破滅である。人間はそういう破滅性を持った罪人なのである。これは、自分の力ではどうしようもなく、自分の力でそれから抜け出すことはできない。それが破滅性ということなのである。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とは、そのことを言っている。

そういう罪人を救うために、神は御子イエス・キリストが天から降りて来られたのである(1テモテ1:15)

2007年9月15日土曜日

クリスチャンとは

クリスチャンと言うと、すぐ「酒を飲まない人」、「タバコを吸わない人」と考える人がいる。また「人格的に立派な人」、「右の頬を打たれたら、必ず左の頬を出す人」など、様々のイメージがクリスチャンについて描かれる。これらは、クリスチャンについての断片的な知識に基づいたイメージではあっても、本質的なことを言い当てているわけではない。

クリスチャンであることを決定する時、その人がどういうことをしているかということよりも、その人がどういう人であるかという事実の方が重要である。人格的に立派であると言っても、実は人格的に立派に見える行動をしているということであって、決して内面的な事実を指しているわけではない。

そこで、クリスチャンとは、どういう内面的な事実を持っている人であるかということについて考えてみよう。聖書では、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きた人であると教えている(コロサイ2:20)。それでは、キリストと共に古い人に死んで、キリストと共に新しい人に生きるとはどういうことなのだろうか。クリスチャンというのは、信仰によってキリストに結び付けられた人のことである。キリストは私たちの罪を背負って十字架上で死なれた。私たちが信仰によってキリストに結び付けられると、私たちの古い人は、キリストと共に十字架上で死んでしまった。また、キリストは死人の中から復活されたから、私たちが信仰によってキリストに結び付けられると、キリストと共に新しい命が与えられる。

この「古い人」とか「新しい人」というのを少し説明しておこう。聖書が「古い人」と言っている場合、それは、生まれながらの古い人間性のことで、自己中心的なエゴイスムがその特徴である。すべての人は、生まれながらにしてこの「古い人」に生きている。これがすべての問題のもとになる。それに対して、キリストは死人の中から復活された。だから、キリストに結び付けられた私たちは、キリストと共に「新しい命」に生きることができる。だから、クリスチャンとは、皆この新しい人として生れ変った人のことである。

水のバプテスマを受けた人がクリスチャンなのではなく、新生した人がクリスチャンなのである。その人が水のバプテスマを受けることによって、個々の教会の一員になるのである。

2007年9月11日火曜日

実存的問題-エゴイズム 2/4

私たちは、自分がいかにエゴイストであるかということをよく知っている。エゴイストは、いつも「自分さえよければ」という考え方をその底に秘めている。

芥川龍之介は、学生時代に、彼の親友恒藤恭にあてて一通の手紙を書いている。彼はその手紙の中で、エゴイズムと言わず、イゴイズムという言い方をしている。
「イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出来ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出来ない。イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない。周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのままに生きる事を強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑う(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思う事がある。何故、こんなにしてまでも生存をつづける必要があるのだろうかと思う事がある。そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失う事だと思う事がある。僕はどうすればいいのだか分らない。君はおちついているかもしれない。そして僕の言う事を浅薄な誇張だと思うかもしれない。(そう思われても仕方がないが)。しかし僕にはこのまま回避せずにすすむべく強いるものがある。そのものは僕に周囲とのすべての醜さを見よと命ずる。僕は勿論滅びる事を恐れる。しかも僕は滅びるという予感をもちながらも此のものの声に耳をかたむけずにはいられない。」

私たちがこうした芥川の言葉に、恐れと共に共感を覚えるのは、彼が自分自身の偽らざる姿をここに語っているからではないだろうか。私たちにとって、この悩みは、自分の両親であろうと、友だちであろうと、ほかのだれかであろうと、そのひとがエゴイストであるということの悩みなのではなく、この自分が徹底的にエゴイストなのだというところにある。エゴイズムこそ、私たちの心の深みにおける悩みなのではないだろうか。

「自分さえよければ」というこのエゴイズムこそ、私たち人間のありのままの姿ではないだろうか。これを、聖書では罪と呼ぶのである。私たち人間が何故破局性を持っているのかと言うと、この罪を持っているからである。このことの解決がなければ、真に人間として生きていくことはできないのである。

2007年9月8日土曜日

救いとは何か 2/2

人間の良心は、罪を犯し続けることのよって鈍感になっていってしまう。だから、ある人が罪を感じることも、別の人は罪を感じないこともありうるわけで、良心は必ずしも絶対的な基準とはなりえない。それならば、どこかに絶対的な基準があるはずなのだが、神が持っておられる物差こそ、その基準となるべきものである。その物差とは聖書のことであり、聖書という基準に照らしてみる時、だれ一人として罪を犯していない人はいないのである(ローマ3:10, 12)。

私たちが持っている問題の根源を罪と言うのは、法律上の犯罪と一つの共通点があるからだ。罪というものは、それを犯した人に対して償いを要求する力を持っている。罪人はこの償いを果すまで、この力に支配されている。この力が効力を失うのは、償いが果された時か、罪人が死んでしまった時だけだ。私たちが法律上の犯罪を犯さなくとも良心的呵責を覚えることがあるのは、この力のためだ。

この罪が要求する償いを果さない限り、私たちは自由になれないはずだが、私たちにそれを果すことができるのだろうか。聖書によると、罪を犯した者は死をもって償わなければならないから(ローマ6:23)。自分で償いをしようとすれば、死をもってしなければならず、それでは解決にはならない。そこで、私たちの罪の解決のためには、だれか第三者が身代りに償いをしてくれる以外にはない。

しかし、その人はだれでもよいというわけにはいかない。その人自身罪を持っていない人でなければならない。そんな人がいるのだろうか。たといいたとしても、そのような人が私のような者のために身代りに償いとして自分の命を捨ててくれるということがありうるのだろうか。

けれども、そういうお方がいた。それは、神が人の姿を取ってこの世に来られたお方、イエス・キリストである。イエス・キリストは、この世の中で唯一人罪のないお方だった。そして、私たちのような者の罪を背負って、十字架上で償いの死を遂げてくださった。こうして、私たちの罪の償いが果されて、私たちは罪から自由になることができた(2コリント5:21)。

キリスト教の救いが、他のいかなる宗教の救いとも異なるのは、まさにこの点である。自分の力で善いことができなくなってしまった者を、キリストが救い出してくださるのである。

2007年9月5日水曜日

実存的問題-エゴイズム 1/4

エゴイズムとエゴティズムとは違う。この両者を同じものだと思っている人が案外多い。エゴイズムというのは利己主義で、エゴティズムというのは自己中心主義である。この両者がどのように違うのかということについて少しばかり説明する必要があろう。

たとえば、人間はだれでも自分というものを持っている。自分がなくなったら、もはや生きていくことはできない。これは、いわば自己中心ということである。私たちがそう簡単に死ねないのも、この自分というものがあるからだ。また主体性ということは、このことに関係のあることで、自分というものがしっかりと確立していることを指している。だから、自己中心そのものを悪であると考えるのは早計であって、悪いのは、自分さえよければそれでよいと考えるエゴイズムなのである。

人間はだれでも自分の幸福を求める。そのこと自体決して悪なのではなく、このような幸福追求は、自己中心ということから起って来る。ところが、自分さえ幸せであれば、たといほかの人が不幸であっても構わないと考えたり、ほかの人の不幸の上に自分の幸福を築き上げようとするに至っては、これは明らかに悪であって、それこそエゴイズムの正体であると言ってよいだろう。

近代における人間性の探求は、人間をほかの人から孤立した人間として探求してきたところにある。自分をほかの人から切り離して、自分を自分たらしめる「自我」という抽象的な原理をそこに見出し、その自我を無限に追求し、発展していくところに自分の幸福があるというふうに考えてきた。このような考え方は、結局のところ「自我」を絶対化してしまうことになり、ほかの人との間に心と心が通い合う交わりを生み出すことができず、孤独のどん底に自分を追いやる結果になってしまった。近代における自我の自覚から始まった自我追求が、今日一人一人に孤独を与える結果に終ったことは自然のことであると思う。 

自己中心がやがて破滅してしまうのはなぜかと言うと、自己中心は、いつもそれにエゴイズムが深くからまっているからなのである。もちろん、自我を絶対化することには決して問題なしとはしないが、それでも自己中心それ自体が全く否定される理由はない。しかし、エゴイズムというものとは別個に、自己中心が存在することができるのだろうか。ここに私たちの現実の問題があるわけである。

2007年9月1日土曜日

救いとは何か 1/2

キリスト教では、よく「救い」と言うが、これは何を意味しているのであろうか。一般的にこの言葉が使われる場合は、何か助けを必要としている人に助けの手を伸し、助けてあげることを意味する。溺れかかっている人を助け出したり、病気の人を治したり、落第しそうな人を進級させたりする時に使う。

「救い」という言葉の宗教的意味は、もう少し人間の内面的なことに関わるもので、キリスト教だけでなく、仏教やその他の宗教でも使っている。しかし、聖書が使っている使い方と、ほかの宗教の使い方とでは全然違う。たとえば、仏教などで、「悟りの境地に入る」とか、「安心立命の境地に入る」というものと、キリスト教の「救い」とは同じではない。

一般的に言って、ほかの宗教が「救い」と言う場合、現在、不幸とか悲惨と考えられているものからの救出を意味するのがほとんどだ。たとえば、病気にかかった人や、貧乏な人は、そういうものから救い出されたいという願いが極めて強く、そのため、そういう病気や貧乏から逃れることができれば、問題は解決すると思いやすいわけで、こういう現世的ご利益を「救い」と教えている宗教が沢山ある。もちろん、病気や貧乏の問題がどうでもよいと言っているのではない。こういう問題の解決も大切であり、必要だ。しかし、こうしたことさえ解決すれば、人間の問題は解決してしまうのでないこともまた事実である。

聖書が教えている「救い」というのは、それらの根源を問題にし、その解決をはかろうとするものである。病気や貧乏といった今の生活上の悩み、苦しみは、どこかに本当の原因があるわけで、それを問題にしないかぎり、本当の解決にはならない。その根源にある「罪」を問題にしなければならないのである。

病気や貧乏という問題は、人類に罪が入って来なければ決して起らなかったし、病気や貧乏が悩み、苦しみであるのも、人間の心に罪が入って来たからである。

「罪」とは、法律で言う犯罪のことではない。法律で言う犯罪を犯していない人は沢山いる。しかし、少しでも良心的に敏感な人であれば、たとい法律で言う犯罪を犯してはいなくても、良心の呵責を感じることによって、道徳的罪について知ることはできるだろうと思う。隠れた心の中で、罪を感じることはできるはずだ。これを無視しては、本当の救いはありえないのである。

2007年8月29日水曜日

実存的問題-苦しみ 4/4

詩人の片山敏彦の作品に「奥降り」というのがある。奥降りとは、山の水源地の方で雨が降ることだ。この作品は、大きな川の橋の下に粗末な小屋掛けをしているハンセン病患者のことを記している。奥降りのため、急に水かさを増した川の濁流に追われて、人々は岸の方へ逃げて行くのだが、そこに一人逃げ遅れた老人がいて、そのところをこう記している。

「まだ一人、水の中に残っている者があった。それは、六十近く見える老人の乞食だった。彼は、流れの速い水の中で、一人取り残されて途方にくれていた。彼はもちろん癩病で、そのため目が見えず、両手もなく、両方の腕の下に、二つの松葉杖をくくりつけたまま、方角を失って水の中に立ちつくしていた。・・・後で思うと、あの時のあの老人の姿ほど孤独な人間の姿というものがあろうか。大きなうららかな青空の下で、他の人はみな安全なのに、自分だけは冷淡な水と無力なたたかいをやりながら、どうにかして安全な場所まで・・・ふつうの人なら難なく行ける所まで・・・行きつくために必死になっているその間にも遠慮なく水の力は増してくるのだった。」

「橋の上の人びとはみな黙りこくっていた。ある力があって、人びとの言葉と行為とを封じこめているようだった。人びとはただ見ていた。緊張して見ていた。人間というものは、そうしなければならず、そうすることが唯一の善だと感じていながら、そう感じるがために、かえってその事をするのを恥じる事があるものだ。ぼくもみなといっしょに、一人の人間の命が危ないのを上から見ていた。」

「そのとき、とつぜん一人の青年が土堤をかけ下りて、水の中へ駆け込んで行った。高等学校の制服を着た頑丈な骨組の若者だった。彼はじきに老人に近づくと、いきなり、その乞食を背中に背負った。老人は両腕にふたつの松葉杖をぶらさげたままで、その不具な体を、若者の広い背中の上へ、まるで木の片が倒れるように投げかけた。」

「そうして二人が岸に着いたその瞬間、橋や土堤に群がっていた人びとの緊張した沈黙が破れて、いちどに大きな歓声があがった。

『ばんざい!』

ぼくも思わずそれに和して叫んだ。」

「『おそらくあの老人は、あの時、あの水の中で自分を抱き上げてくれた、若々しい力と青年の頑丈な肩のあたたかさだけは、一生忘れることはないだろうね。』」

この作品は、実に見事に主イエス・キリストの救いを私たちに示してくれている。

2007年8月25日土曜日

復活は本当のことなのか

復活と生き返りは違う。生き返りは、また死ぬ体に生き返るのだが、復活は二度と死なない霊的体によみがえるのである。

イエス・キリストの場合、それは生き返りではなく、復活である。主イエスを葬った墓を訪れた弟子たちは、墓がからっぽだったことを知った。葬った墓がからっぽであったということは、可能性としてだれかが主イエスの死体をどこかへ運んだことになるだろう。その可能性として考えられるのは、主イエスに敵対していたユダヤ人議会か、それとも主イエスの弟子たちか、それとも中立の立場のローマの兵隊しかありえない。

ユダヤ人議会の中のだれかがもしも主イエスの遺体を運ぶことに何らかの目的があったとしたら、それは筋が通るだろう。主イエスは三日目に復活すると言っておられたから、その時、自分たちがその遺体を持っていることを示せば用が足りるということだ。ところが、主イエスが復活したということに対して彼らはなすすべがなかったのだから、これは可能性ゼロである。

次に、弟子たちが持って行ったということについて考えてみよう。彼らが青ざめた主イエスの遺体を持っていたとしたら、彼らは主イエスが復活したとうその宣伝をしたことになる。うそのために殉教の死を遂げる者があるだろうか。

次に、中立の立場にあるローマ兵が主イエスの遺体を運び去ったというのであるが、何のためにこんなことをしたのか。彼らが騒擾罪を鎮めるというのなら話は別だが、わざわざ起こすということがありえようか。

そこで、次に主イエスの弟子たちが訪れた墓を誤っていたと説明しようとする人たちがいる。しかし、私有の墓であり、38時間前に行った墓をだれが間違えることがありえようか。

それだけではない。パウロは復活した主イエスが500人以上の弟子たちに同時に現れたと書いている(1コリント15:6)。しかも、その中の大多数は、いつでもそのことの証人に立つとまで言っている。幻覚症状というものは、いつも個人的であって、500人以上の人が同時に幻覚症状になるということなどありえない。

そういうことになると、主イエス・キリストは復活したとしか考えようがない。初代教会の歴史は、キリストの復活を抜きにしては、到底説明することができないのである。

2007年8月22日水曜日

実存的問題-苦しみ 3/4

確かにこの世の中には不条理な苦しみはいくらもある。私は多くのハンセン病患者の友人を持っている。そのうちの一人について記そう。

その人は、小さな子供の時に、ハンセン病だということが分った。そのことが分ってから、どの店もその一家には何一つ物を売ってはくれなくなった。不治の病ハンセン病にかかったら大変だという気持ちもあり、伝染病であるハンセン病患者の出た家のお金は受け取らない。そのため、その一家は生きて行くためにはその子をハンセン病療養所に入れて自分たちとも全く縁を切り、自分たちも遠い所へ引っ越して行かなければならなくなった。

その子は東北新生園という療養所に入れられた。小さい子供ながら、親兄弟から捨てられた悲しみは、何にもたとえようがない。しかし幸いにして、そこの人たちは、同病相憐むということもあって、その子をかわいがってくれた。しかし、親と別れた悲しみは、何によっても癒されがたいものだった。その子供は次第に人を信用できなくなった。けれども、よく面倒を見てくれる人たちはクリスチャンで、その関係で教会学校へ行くようになった。みんな親切にしてくれた。でも、主イエスを、そう素直に信じることはできなかった。

それから何年か経ち、ふとあることを考えてみた。親兄弟も忌み嫌うこのハンセン病療養所に、毎週やって来る人がいる。医師でも看護士でもないその人は、一つも嫌な顔はせず、せっせと足を運んで来る。そしてキリストの救いについて熱心に語り、人々を救いに導くのだ。どうしてだろうと考えた時、この人の説くイエス・キリストこそ、きっと本当の救い主にちがいないと思って信じたというのだ。こうして、今では親兄弟に対する恨みもなく、変形してしまった指や足を持ちながらも、五体満足にそろっていてなお悩みを持っているこの世の人々に、せっせと手紙を書いては、その人々に生きる希望を与え、励まし、力づけているのである。

確かに、ハンセン病患者も不条理な苦しみを味わっている人々だ。しかし、彼らが不条理な苦しみを味わっているというのなら、罪のない神の御子イエス・キリストが十字架上で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったこと以上に、不条理なことはないだろう。まさにイエス・キリストの十字架上の死こそは、不条理の極致と言うべきであろう。どんな苦しみにも意味と目的がある。神が私たちにお与えになるもので、意味も目的もないものなど一つもない。

2007年8月19日日曜日

天国は本当にあるの

「天国」と言うと、ある人々は、どこか場所のことだと考えがちだが、そうではない。「宇宙のかなた」、つまり普通「天」と呼ばれている「大空」のどこかにあると思っている人がいるかもしれないが、そうではない。「天国」と記された言葉は、また「神の国」のことで、「国」と記された言葉は、元々「支配」という意味だから、「天国」とは、「神の支配されるところ」である。

「神の支配されるところ」というのは、決してどこかの場所ではない。そう言うと、十字架に掛り、復活し、昇天されたイエス・キリストは、空中高く上って行かれたではないかと思われるかもしれない。しかし、私たちは超時間的、超空間的な存在を上空間的に意識するという観念を、生まれながらにして持っている。たとえば、ホワイト・ボードに字をかく場合、「神ー人」というふうに、神を上に、人を下にして書けば別に何でもないが、これをもしも「人ー神」というふうに、人を上に、神を下にして書けば、何だかそれに引っ掛って、後の話は頭によく入らないだろう。私たちのこのような生まれながらの観念を満足させるために、主イエス・キリストは上に上って行かれた。もしもそうせずに、主イエス・キリストがその場で姿を消してしまわれたら、人々は幽霊か何かではないかと思ったろう。だから、ある程度まで上空に上られると、雲によってさえぎられて、主の御姿は人々の視界からは見えなくなってしまった。

これは、ほんの一例だが、「天」とは、「大空」のことではなく、神の御座である。その神の御座である「天」は、この「世」と対比される。この両者は場所的な意味で言われているのではなく、倫理的なものである。だから、「ここも神の御国なれば・・・」と賛美歌にあるように、次元が違うだけで、神の国は今ここに存在しているのである。

私たちが神を信じ、神に服従すると、神の支配は私たちの心の中にも始まる。主イエス・キリストが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われたのはそのことである。これはまだ、イエス・キリストを信じる者たちのうちに存在している霊的現実にしかすぎない。神に敵対する勢力が滅ぼされ、新天新地が出現するのは、イエス・キリストの再臨の時だ。その時、今は霊的現実にすぎない神の国が、すべて目に見える現実となるのである。

2007年8月15日水曜日

実存的問題-苦しみ 2/4

苦しみの問題を取り扱おうとすると、日本人の中には決まって因果関係を持ち出して来て、これを説明しようとする人がいる。いわゆるバチの思想がそれであると言ってよいだろう。今苦しみに遭っているのは、それ以前に、その人か祖先かのだれかが何か悪いことをしたという原因があるからで、そのバチが今当たったのだというわけである。しかし、このような考え方における根本的な欠陥は、私たち人間が何から何まで全部分るのだという前提を持っているということだ。しかしその実、私たちはほとんど何も知らないのだと言ってよい。知りもしないのに、あたかも何もかも見通しだと言わぬばかりに安易な因果関係で説明しようとすることは、全く傲慢のそしりをまぬがれない。

苦しみの原因は、その多くは分らないのだ。だから、その苦しみもひとしお大きくなるわけである。原因が分かっていて、そのためにその苦しみを経験しているというのであれば、まだまだ耐えやすいに相違ない。

それでは、聖書は苦しみの原因について、どのように教えているのだろうか。具体的なこの苦しみは、具体的なこの罪の結果であるというようには教えていない。しかし、苦しみが私たち人類の社会に入って来たのは、罪の結果であることは確かなのである。人類が罪に陥った結果、その罪の刑罰としての呪いが下り、苦しみが人類の中に入って来たのである。

今日、一人一人がバラバラになってしまったのも、耐えがたい孤独に陥っているのも、幸福であるべき結婚が不幸な結婚に終わるのも、すべて罪がこの世に入って来たからである。

また、多くの人は自己本位の生き方をしている。だれも自分のことを考えてくれないという悩みは、まさにそれを言い当てている。自己本位の生活は、いつでもお互いに対する不信感になって表れる。自己保身のとりこになると、自分一人が生きるために、ほかの人を殺すことさえしかねない。自己本位の生活は、いつでも優越感か劣等感のとりこになる。ほかの人が自分よりも劣っていると思うと、優越感を持ち、ほかの人が自分よりも優れていると思うと、劣等感のとりことなってしまう。また自己本位の生活は、いつでもほかの人に責任転嫁をし、自己弁護をしてはばからない。

こうしたことはすべて罪の結果である。わがままで、自分さえ良ければそれで良いと考えるエゴイズムの罪がなければ、何も悩んだり苦しんだりすることは起こってこないのである。

2007年8月12日日曜日

なんのための教育

今日、教育と言うと、かなり偏ったものを教育と考えているように思われる。教育の本質は人格教育であるはずなのに、知的偏重の教育が行われているし、しかもそれが上級学校への受験勉強という教育なのである。このようなものをいくら子供に教えても、偏った知識を身に着けるだけで、健全な人格形成はなされない。その上、上級学校への受験準備の教育では、友情が育つわけがない。ほかの人が皆敵に見えてくる教育しかできないのである。自分さえよければそれで良いというエゴイストの人間は育っても、愛と信頼による人格形成を期待することはできない。

教育の本来の目的は、人格形成にある。それでは、どのような人格形成をしていったらよいのだろうか。一言で言えば、神が目指しておられる人間の人格である。罪によってむしばまれた人間は、結局、自分さえよければそれでよいと考えてしまう。このような歪んだ人格が、ほかの人々を愛し、ほかの人々のために喜んで自分を犠牲にし、奉仕をするような高貴な人間になっていくことを願わなければならない。

私たちは、みんな違った性格を持っている。その違った性格は何によって決定されされるのだろうか。

まず第一に、遺伝を挙げることができる。生まれながらに持っている性格がある。それは遺伝である。

次に、生活環境を挙げることができるだろう。その子供がどういう所で育ったかということである。孟母三遷の教えではないが、教育環境の善し悪しは、確かに大きな影響がないとは言えない。しかし、もしもこの二つだけですべてが決まってしまうのだとしたら、私たちが子供の教育についてできることは、たかだか優秀な親から生まれた子供に、善い環境を作ってやることしかない。

しかし、人間は、それだけですべてを決定してしまうものではない。すでに述べた遺伝と生活環境のこの二つの要素に対する本人の反応である。この反応が好ましいものであるようにするところに、教育の働き、教育の可能性があるわけである。

汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を咲かせられる神は、人間的には絶望と思われるようなところにも、働き続けておられる。神があきらめておられないのに、私たちがあきらめてしまうことなどどうしてできるだろうか。参照「父親の責任・母親の責任」(いのちのことば社)。

2007年8月7日火曜日

実存的問題-苦しみ 1/4

だれでも皆何らかの悩みを持っている。しかし、その中でも深刻な悩みと、そうでないものとがある。その深刻な悩みとは、実はほかの人によっては決して代わってもらうことの出来ないものである。それだけでなく、金持であろうが貧乏人であろうが持つ悩みであり、どの国の人であろが持つ悩みである。それは、人間として生きていく上で味わう悩みであって、それを実存的問題と言う。宗教はこの実存的問題を扱うのであって、損をするとか得をするなどと言っているのは、宗教の取り扱う分野としては、全く枝葉の事柄にすぎないのである。

それでは、この実存的問題とは、具体的にどういう問題であるかと言うと、苦しみ、エゴイズム、死である。どんなに愛する人が苦しんでいたとしても、それと全く同じ苦しみを味わうことはできないし、死についても全く同じことが言える。死が大きな力を持って迫ってくるのは、ほかのだれかの死の時にではなく、自分の死においてなのである。

私たちがこの世において生きていこうとする時、そこにはいろいろな苦しみがある。それは、肉体的なものであろうと、自分の境遇に関することであろうと、その他どのようなものであろうと、すべて精神的なものである。

たとえば、重い病気にかかったような場合、治療や手術などのための痛みや苦しみもあるけれど、そこでの一番の悩みは、この病気にかかったことによって、これからの自分の人生はどうなっていくのだろかという不安や、こうしている間にも多くの同僚たちは出世してしまうのではないかというあせりや、自分がこのまま一生涯闘病生活をしなければならなくなったとしたらどうしようかという悲しみなど、すべてそれは心の悩みであり、精神的なものなのである。

ある人は、ある時になって、自分の出生の秘密知って、大きな精神的ショックを受けた。またある人は、肉体のハンディキャップを持って生まれてきたがために、人知れず悩まなければならないということもある。また、死に対する恐れのために、どんなに楽しい時も、決して手放しで楽しめない人もいるだろう。また、冷たい家庭の中で、親、兄弟に対する憎しみを抱いている人もいるだろう。こうしたことのほかにも、この世に生きている人には、いろいろな悩み、苦しみがある。人生の意味や目的が分らなければ、生きることに苦痛を感じるのは当たり前のことだろう。

2007年8月4日土曜日

なんで人間は結婚するのか

人間はだれでも男か女としてこの世に生まれてくる。人間が男か女としてこの世に生存しているという事実は、実は、神がそのように人間を造られたという事実に由来している。人間は、この地上に存在するようになった最初から、男と女として存在してきた。だから、私たちは「性」の問題を、不真面目なことと考えてはならない。私たちは「性」の問題を、神の創造の秘義として、真面目に考えてみなければならない。

神が最初人間を造られた時、ただの人間として造られたのではなく、「男と女とに創造された」(創世1:27)のは、まず第一に、男と女がお互いに助け合って、宗教的使命、社会的使命、個人的使命を果し、神の栄光を現わし、真に住みよい世の中を作り出していくためであった。もちろん、男同士、女同士の協力によって出来ることがあるのを否定するものではないが、神が人間を男と女とにお造りになったという事実は、男と女の協力なしに成し遂げられない使命を神がお与えになったのだということを物語っている。もちろん、これは単に結婚だけに限定される事柄ではないが、その中心は結婚して家庭を持つというところにあった。家庭というものは極めて重要であって、今日、家庭が崩壊しているがために、非行、犯罪が横行していることは、だれの目にも明らかである。

好きな者同士で同棲し、セックスをすることが何が悪いのかと言う人たちに対しては、家庭の崩壊がもたらす社会の崩壊が、ついには国家さえも破壊しかねないのだということを言えば、十分だろう。神が家庭を制定されたのにはわけがある。そこにしか本当の秩序はないからである。

男性と女性とが協力して、この世において使命を果していく場合、男性としての果す役割、女性としての果す役割がある。男性は、男性でなければできない働きをし、女性は、女性でなければできない働きをすべきである。

どんなに時代が変っても、子供を産み、育てるのは女性である。男性はこのことに思いやりと愛情を表さなければならない。と同時に、この子育てという実に重大な仕事-次の世代について責任を持つという意味において-に、夫婦して取り組むことは大切なことであると言わなければならない。このことについて、もっとよく知りたい方は、「結婚の備え」(いのちのことば社)参照。

2007年7月31日火曜日

積極的な人間になる

私の心の中の空洞は、神によって埋められ、本当に満たされた人生が始まった。それまでは、どちらかと言うと、消極的な人間で、考えることもすることもすべて消極的でしかなかった。ところが、主イエス・キリストによって変えられた私の人生は、積極的にならざるをえなかった。同じ大学にいる約5万人の学生たちにこの喜びを伝えたいと思い、早速、キリスト教サークルの門をたたいた。まず共助会の門をたたいてみたが、洗礼をまだ受けていない人は正会員にはなれないと言って断わられた。そこで、YMCAの門をたたいたところ、私の大学のYMCAは無教会運動の影響があったせいか、まだ洗礼を受けていなかったにもかかわらず、入会することができた。ところが入会してみると、生き生きとしたクリスチャンは一人もおらず、私が積極的に発言すると、すぐ委員にさせられてしまった。

一方、大学は戦時中の空襲のおかげで、いくつかの建物は焼失し、そのため、われわれ新入生たちは、二部授業をせざるをえなくなった。日月水金のクラスと日火木土のクラスの2つに分けられた。いずれも日曜日には授業をするのである。そのことを知った時、私はだれにも相談せず、日曜授業反対の署名活動を行なった。しかし今の時代とは違い、終戦直後の大学では、大学の方針に反対する文書に自分の名前を書くことは、それだけで大学ににらまれると考える学生が多く、署名に応じてくれる人はごく少数でしかなかった。そのため、それは挫折してしまった。

そこで今度は、大学内で日曜礼拝をしようと思い、その運動を起こした。クリスチャンと称する多くの学生たちは、これに協力するどころか反対する始末であった。日曜日の昼休みに来られる牧師のいるわけがないと言うのがその理由であった。しかし、私はこれを強行することとし、サークルを立て上げなければならず、そのため「キリスト者学生会」を作り、日曜礼拝を学内で行うことにした。この「キリスト者学生会」こそ、その後、日本全国のほとんどの大学に広がっていくキリスト教学生サークルとなっていった。

そして、私の大学では、学内で路傍伝道をしたり、大きな集会を持ったりして、多くの学生たちに生きる喜びを体験してもらった。消極的な私をこのように積極的な人間に変えてくださった神こそ、世界を創造し、支配しておられる全能の神にほかならない。

2007年7月28日土曜日

死の恐れの解決

だれもが死を恐れる。それは、どんな人でも、死後、生前の善悪についての総精算があって、神に裁かれるのではないかということを知っているからである。聖書もそう教えている。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。また、「あなたの神に会う備えをしなさい」(アモス4:12)とも勧められている。神に会う備えとは、死への備えのことである。死後、私たちは皆、神の裁きの座の前に立たされる。その準備のできていない人は、いつまでも死に対する恐れを持ち続けなければならないだろう。

確かに自然的な死がある。この世に存在しているものには、初めがあり、終りがある。しかし、最初の人アダムが罪を犯した時、それ以来、人間の死には、自然的死のほかに、罪の刑罰としての神の呪いという意味が加えられるようになった。だから、死は恐ろしいのだ。もしも自然的な死だけなら、苦しまずに死ぬという方法でそれを行うことに何の躊躇も感じないだろう。しかし、人は皆死を恐れる。死後の裁きによって、神の呪いを永遠に受け続けなければならないからだ。

しかし、神の呪いは死後だけにあるのではない。すでに罪を犯している現在、私たちの上にのしかかってきている。何が善であるかを知っているのに、その善を行わないで悪を行ってしまうのは、私たちが罪の奴隷だからだある。自分さえよければよいと考えるエゴイストの現実も、対人関係において苦しまなければならないのもそうだ。

私たち人間にはどうすることもできない死の問題は、一体どうしたら解決できるのだろうか。罪を持っている私たちは、皆罪の呪いの下にあって、死の恐れを抱いている。しかし、私たちには死の解決者、勝利者がおられる。それがイエス・キリストである。一度は死なれたが、その死に勝って復活された。このお方を信じることによって、私たちもまた死の恐れに打ち勝ち、勝利者となることができる。

このように神の子どもたちは皆、人間として肉体を持っているので、イエスもまた同じように肉体を取られた。それは、人間として死ぬことにより、死の力を持っている悪魔の力を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に取り付かれている人々を解放するためである。(ヘブル2:14-19)

参照「死への備え」(いのちのことば社)

2007年7月25日水曜日

本当の人生を見出すまで

私は本当の人生を見出すまで空しい人生を送っていた。まず私は体が弱かった。だから二十歳まで生きられるのかどうかを危ぶんだ。そんな私でも、戦争の影が濃くなってくると、いずれは徴兵検査で引っ張り出されると思い、それならばいっそのこと将校となる道を選ぼうと思って、旧制の中学を卒業すると、陸軍経理学校を受験した。すると合格して、まだ若冠17歳で士官候補生となってしまった。予科を終え、本科生になった時、日本は戦争で負け、心ならずも復員して帰って来た。

今まで教えられてきたすべてのことは偽りであって、何が本当のことなのか分らないまま、それでもどこかに真理はあるはずだと思い、それを求め続けた。

時代は変り、もう一度人生を一からやり直そうと思い、終戦の翌年、大学に入ったのだが、私の心の中にポッカリと空いてしまった空洞を埋めるために、本を求めては読んでみたり、修養団と呼ばれるような所へ行ってはみたけれども、私の空虚な心を満たしてくれるものは見出せなかった。

戦争中は、敵性語と言って忌避されていた英語をもう一度見直さなければならなくなった時、士官候補時代の友人が、英語をただで教えてくれる所があると言って連れて行ってくれた所が、教会の英語バイブル・クラスであった。私などは昔英語を勉強したことはあったが、そこでは英会話などという科目は全くなかったので、何を言っているのかさっぱり分らなかった。

そこへ教えに来ていたアメリカ兵(GI)が、私たちを週末に開かれているGIゴースペル・アワーという集会に誘ってくれるのだが、聞いてみると、キリスト教の集会だと言うので、断り続けていた。ようやく行こうと言って彼に答えたところ、当日になり、あいにく風邪を引き、熱がある。しかし、約束した以上行こうと思い、父の外套を借り、マスクをして出掛けて行った。

その晩、私は初めてキリストの福音を聞いた。そして、それを信じたのである。その時、私の心の中に思わぬ変化が起った。私のそれまで罪とも思っていなかったものがはっきり罪と示され、それらがすべて赦されたことを知った。心は満たされ、死に対する恐れが全く消え、引いていた風邪もいやされていた。この日から私は本当の人生を歩み始めることができた。それは、1946年11月30日のことであった。

2007年7月21日土曜日

科学的真理と宗教的真理

科学的真理は、だれでもそれを認めるのに、宗教的真理になると、それを認める人と認めない人に分れてしまう。それは、宗教的真理が明瞭でないからだと早合点する人がいるけれども、そうではない。前に「二つの認識法」について述べた時、科学的認識法というのは、自分たちの前に置かれた事柄を、客観的に見たり観察したりするわけだから、比較的事柄が一致しやすいという特徴を持っている。しかしながら、宗教的な認識法ということになると、そこへ飛び込んでいく方法以外にないので、客観的な普遍妥当性がつかみにくくなるということを説明しておいた。しかし、宗教的真理はこの方法以外に認識することができないとも言った。そのことをもう少し別の角度から考えてみたいと思う。

科学的真理の場合、それを頭で認めさえすればそれで済む。しかしながら、宗教的真理ということになると、それを頭で認めさえすればそれで済むわけではなく、そこに価値判断が入って来て、自分の生活に直接関わってくるから、それを認めてしまうと、今のままの生活をそのまま続けていくことができなくなる場合には、認めたくないという極めて利己的な要素が入ってくることになるわけである。

具体的な例を挙げると、1足す1は2ということは、ただ頭で認めればそれで済むということだが、宗教的真理になると、そうはいかない。人間が罪人であるということは、人間一般が罪人であることを認めればそれで済むということではない。むしろ自分が罪人であるということを認めなければならないことで、そうすると、このままでは罪人である自分は滅んでしまうわけだから、滅びたくなければ、悔い改めて、主イエス・キリストを信じなければならないはずだ。つまり、今の生活をそのまま続けていくことはできないわけで、そこにそうしたくないという利己的な思いがからんできて、その真理を認めたくないということが起ってくるのである。

多くの人が、「キリスト教が善いのはよく分っているのですが、キリストを信じたら、もう悪いことはできなくなってしまうので、信じたくないのです」と言う。つまり、今のままの生活をし続けることができないがために、信じたくないのである。極めて利己的な価値判断が入って来るから認めたくないのであって、宗教的真理を受け入れたくないだけなのである。しかし、最後は滅びであるのに。

2007年7月17日火曜日

生き生きとした人とそうでない人

クリスチャンと言っても、生き生きとした人とそうでない人がいるのはどういうわけだろうか。それは、生まれ変わった人かどうかで決まる。生れ変わりを体験していない人は、本当のクリスチャンではないから、命がなく、生き生きとした生き方をしないのは当たり前ではないか。聖書はこう教えている。

だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる。もうそれまでと同じ人生ではなく、全く新しい人生が始まったのである。(2コリント5:17)

この生れ変わるとか、新生と称される体験は、聖書が一貫して主張しているところである。

洗礼(バプテスマ)を受けたらクリスチャンになれるという考え方は広く普及しているが、そんなことは聖書のどこにも教えられていない。御霊によるバプテスマ(コリント1.12・13)とか、キリストに合うバプテスマ(ローマ6:3-5)と言われているのは、水によるバプテスマ(洗礼)のことではない。その実質としての生れ変りのことである。

新しい命を神から与えられた人だけがクリスチャンであり、その人が個々の教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)である。

教会には2つの面がある。ちょうど人間にも、霊という目に見えない面と、肉体という目に見える面とがあるように。目に見えない面というのは、霊的普遍的教会であり、かしらであるキリストの体としての教会のことである。すでに天に召されて行った人々から現在全世界に生きている人々、さらにこれから生れてくる人々に至るまでの人々が含まれる。だから、目に見えないのは当然である。

この霊的普遍的教会は、歴史的社会的に具体化された教会という形を取る時、個々の制度化された教会となる。

この霊的普遍的教会に加わるために必要なものが、聖霊によるバプテスマ(キリストに合うバプテスマ)であって、それが新生体験である。その実質を持っている人が個々の制度的教会に加えられる時に受けるのが、水によるバプテスマ(洗礼)なのである。

だから、いくら洗礼を受けていても、その実質としての新生を経験していなければ、新しい命を頂いていないわけだから、生き生きとした生活ができないのは当たり前である。本当のクリスチャンとそうでない人との区別は明快である。聖書が教えている通りである。

2007年7月14日土曜日

奇跡が信じられない

多くの人々は、聖書の中に出てくる奇跡が信じられないという。というのは、奇跡を認めたら、自然法則はどうなってしまうのかと言って心配するのである。

そういう人々の考えは、奇跡を自然法則に反するもの、つまり反自然と考えているのである。しかしながら、奇跡は反自然ではない。超自然なのである。

神は全世界を創造された後、摂理の御業によってこの世界を動かしていかれた。摂理の御業というのは、神の直接的な介入ではなく、自然法則のようなものによって間接的に働かれることを意味する。しかし、神はある特別な目的を遂行されるために、創造の御業によって、直接介入されることがある。それが奇跡なのである。

しかしながら、奇跡というものは、全能の神の気まぐれな行為によるものではなく、全能の神のある目的遂行のためになされるものである。その目的とは、言うまでもなく、人間の救いである。私たち人間の救いのために、神は奇跡をなさった。だから、聖書に記されている奇跡は、神の気まぐれな御業なのではなく、救いという目的に向っての神の特別な御業なのである。

神は、私たち人間を救うために、その尊い御子をこの世にお遣わしになった。永遠の神の御子が、時間の世界に入って来られたのだ。無限の神の御子が、有限の世界に入って来られたわけである。絶対者であられる神の御子が、相対性の世界に入って来られたのである。このこと自体が奇跡である。だから、主イエス・キリストがご降誕される時の処女降誕も、その地上生活において、子供一人分の弁当を2万人以上の人に食べさせた奇跡も、水の上を歩かれたことや、病人を癒したり、悪霊につかれた人から悪霊を追い出されたり、死人を生き返らせたことや、また、十字架上で死なれた後、死人の中から復活されたということにしても、そこに奇跡が伴うのは当然のことでなければならない。

そういうわけで、この奇跡の記事を合理化して、ある教訓の象徴的記述であるとしたり、科学的に説明しうる方法を考えたりすることは、全く的外れであると言わなければならない。奇跡は、そのまま奇跡として受け取り、信じなければならないのである。

2007年7月11日水曜日

思い煩いの処理法

思い煩いも厄介な問題である。人によって思い煩う事柄は違う。ある人は,経済的な問題で思い煩うかもしれないが、ほかの人は対人関係の問題で思い煩う。ある人は、入試や入社の問題いで思い煩い、ほかの人は失恋で思い煩う。また別の人は、事業の失敗や失職で思い煩い、ほかの人は病気のことで思い煩う。人によりその対象は違っていても、だれでも何らかの形の思い煩いというものを持っている。

人が思い煩うのは、自分が全知全能ではなく、自分の思った通りにいかなかったためであることが多い。要するに、自分の足りなさと、自分の思い通りにいかなかったというかなり自分中心の考え方に原因がある。

ところで、思い煩いというものは、現在の苦しみや、将来への不安など、自分の思いを、ああでもない、こうでもないと決めかね、心を千々に砕くことである。

こうした思い煩いの解決法について、聖書はその至る所で教えているが、その代表的な箇所が次のものである。

何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるがよい。そうすれば、私たちの常識を超えた神の平安が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。(ピリピ4:6-7)

ここで教えられている解決法は、思い煩わざるをえないことが起こってきたら、それを率直に神に申し上げるということである。思い煩いというものは、自分の弱さと利己主義から発しているものであって、自己中心的な空転になりがちである。そのために、いつまでたっても、そこからは解決が見いだされないのである。そこで、私たちの心の中にある「思い煩い」の原因になることも、心の中のモヤモヤも、すべてを神に申し上げるのがよいのだ。これが祈りなのである。

私のうちにある「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と考える心の分裂ーそれが思い煩いなのだからーをそのまま神に申し上げる時、神は私たちの心に、統一を与えてくださる。その心の統一こそ「平安」なのである。常識の枠を超えたことが起ってくる時、思い煩うのだが、神にありのままを申し上げる時、神はその常識の枠を超えたところにおいて、心に平安を与え、解決してくださるのである。