2008年4月30日水曜日

聖書について1

クリスチャンと称する人々の中にも、聖書についての考え方は必ずしも一様ではない。聖書を誤りのない神の言葉と信じる人もいれば、聖書は約40人の人によって書かれたもので、書いた人のそれぞれの信仰がそこに表わされているから、相互に矛盾があってもやむをえないと考えている人もいる。後者の人々にとって、聖書は参考意見以上の何ものでもないから、信仰生活において何を基準にしていったらよいのかということになると、回答はまちまちである。それぞれの神学者の言うことを拠り所とするほかないだろう。

それに反し、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、聖書に信仰と生活の基準を見出し、それに従って生きていくことになる。私はこの立場に立つ。この二つの立場のうち、なぜ私がこの立場に立つのかと言うと、それが主イエス・キリストの立場であり、主イエスの聖書観だからである。主イエス・キリストはこのように言っておられる。
「わたしは、律法や預言者と呼ばれる旧約聖書の教えを不要なものとするために来たのだとは思わないでください。むしろ、わたしは旧約聖書を行うために来たのです。確かに、旧約聖書のすべては、たとい天地が滅んだとしても、必ず実現されます。それほど確かなものです。」(マタイ5:17-18)

それだけではなく、新約聖書の記者たちは旧約聖書を引用している時、「神がこう言っておられる」という意味で使っている。必ずしも神が語っているところでない箇所を引用している場合も、「神は・・・仰せられた」(ヘブル1:5-13)と述べている。つまり、主イエス・キリストと共に、聖書記者たちは皆、聖書を神の言葉と信じていたと言うことができるわけである。

聖書が誤りのない神の言葉と信じた人々がキリスト教会の歴史の中核を形成してきた。古代の多くの教父たち(キリスト教会の指導者たち)を初め、宗教改革者たち、近代における多くの外国宣教師たちは皆そうであった。

聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、何か問題が起ると、神の言葉である聖書に解答を求めて、解決することができ、勝利者として歩むことができる。これほどすばらしいことはない。死の恐れの問題も、人として生きる喜びについても、聖書から解答が与えられる。聖書が神の言葉であるということを信じる根拠について、さらに深く知りたい方は、拙著「聖書の権威」(羊群社)を参照されたい。

2008年4月26日土曜日

罪の現実3 - 悔いのない人生

私たちの人生はたった一度しかないもの、やり直しのきかないものだ。このたった一度しかない人生を、私たちはどのように送るべきだろうか。

多くの若い人たちの願いは、きよく、正しく、美しく生きたいということだろう。若い人たちは正義にあこがれ、純粋を求め、真実でありたいと望んでいる。これがまだ世間に出て汚れていない人たちの姿である。しかし、この人たちが世の中に出て、何年、何十年とたっていくと、ほとんど一人の例外もなしに不純になり、醜くなり、うそと偽りで固めた人生へと陥ってしまう。それはなぜなのだろうか。一生涯、きよく、正しく、美しくありたいという願いを貫いていくことはできないものなのだろうか。

わが国では、きよさ、正しさ、美しさというものは無力なもの、それに反して力のあるものは、多少、不純でも醜くても、汚れていても仕方がないものという考え方が一般的だ。

きよく、正しく、美しくありたいという願いを生涯貫き通す道は決してないわけではない。一時、「三十以上の人は信用するな」という言葉がはやったことがあったが、三十歳以上、つまり中年以後の大人だけが不純なのだというのだろうか。そのように言う青年たちの心の中に、すでに不純の種は蒔かれているのである。若い人たちは、まだ発芽していないのを見て、自分たちのうちに正義や真実や純粋だけしかないと思い込んでいるけれども、やがてその不純の種が発芽し、花が咲き、実を結ぶのである。このように、若い時には、きよく、正しく、美しくありたいとあれほど熱望していた思いが、いつしか消えて、現実派となり、醜くなり果てていくのではないだろうか。

そういうことが分ると、決して自分の力で、きよく、正しく、美しくありたいという願いを一生涯貫き通し、実行できるなどとは言えないことが分る。私たちを不純にし、醜くし、堕落させてしまうものを取り除くことは、自分の力ではできない。というのは、それが罪だから。罪は、それを犯した人が自分でそれを取り除くには、その罪の償いがなされなければならない。罪はいつでもそれを犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。その償いが終るまで、その力は決して失われることはないからである。

2008年4月23日水曜日

健康について 8/8

ある胃潰瘍の患者と会った時、彼がその雇主をものすごく憎んでいることが分った。彼が働いている店の主人は、ひどい男で、労働法に引っかからないようにして彼を苦しめるというのだ。そのため、彼は主人を憎むようになり、その憎しみが心の中に積り積って、彼の体を悪くしたことが分った。医者も彼の胃潰瘍の原因が精神的な抑圧によるものだと言ったそうだ。激しい憎悪がついにこの人の胃に潰瘍を作ってしまったわけである。

彼に会った時、私はこう言った。「あなたの立場に立って考えてみると、本当にお気の毒です。しかし、あなたの解決はただ一つしかありません。それは、仕返しをしようと思わないことです。聖書にはこう教えられています。『主は仰せられる、「仕返しはわたしのもの。わたしが報いをする。」』(ローマ12:19)。あなたの憎しみを神にお任せし、あなたの精神的な負担を軽くされることです。あなたの胃潰瘍の本当の原因は憎しみなんですから、胃潰瘍になった個所を、手術して取り去っても、心因を取り除かなければ、決して根治はできませんよ。あなたの憎しみ、仕返しを神様に任せてしまうことです。」

その人はこう言うのだ。「どうしてそんなことができるんですか。」そこでわたしはその人にこう言った。「その相手の人を憎む代りに、その人のために祈り、その人が祝福されるように神様に願うことです。」彼はそれを聞くと、驚いた様子で私の方を見た。「そんなことができるもんですか。あんな奴のために祝福を祈れって言うんですか。そんなことができるくらいなら、こんなに苦しむもんですか。」彼は吐き出すように、こう私に言った。

私はさらに言った。「それ以外の方法では、決して治りませんよ。この愛の力によって相手を打ち負かすというこの方法こそ、最も正しい医学的な方法なのです。精神医学においては、実はこの方法しかないんですよ。「善によって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)という聖書の御言葉をご存じですか。敵に対して、あなたが善意を持ち始めると、あなたの心から恨みや憎しみが消えて、心には平安が与えられるのです。あなたの心から緊張がなくなると、もう二度と胃潰瘍によって苦しめられることはないでしょう。」

この人は、自分でいろいろ考えたすえ、もう一度私の所へ来て、「どうしても治りたいので、聖書が教えている『自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい』(マタイ5:44)を実行したい」と言って来られた。そして、ついに胃潰瘍の苦しみから解放されることができた。

2008年4月20日日曜日

罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生

今日どれほど多くの人が生きる喜びにあふれて生きているだろうか。この生きる喜びというのは、生きていること自体についての喜びだから、いわゆる官能的な喜びとか快楽などとは性質の違うものである。今日多くの人々が、人生にも仕事にも家庭にも喜びを見いだすことができず、快楽にそれを見いだそうとしていることは悲しむべきことである。確かに、快楽もまた生命力の発現であり、賛歌であるわけだが、人間が人格的な存在である以上、その人格から切り離された満足は、いわば線香花火のようにはかないもので、束の間の華々しさでしかない。人格の大切な部分が満たされないままの満足というものは、必ず後に苦いものが残る。「快楽尽きて哀愁を知る」のである。快楽の後の言いようのない倦怠感と空虚感を一度でも味わったことがあるのであれば、そのことは実感として分ることだろう。

生きる喜びというものは、いつでも未来に向かって明るい光であって、そこに希望と信頼の心があるものだ。そのような意味で、あなたは生きているということに喜びを持っておられるだろうか。

また、本当の喜びというものは、利他的な要素を持っている。だから、生きる喜びを持っている人は、ほかの人に対して恨みやねたみを感じにくく、むしろ寛大であることができる。たとい自分よりも幸福な人がいるのを知っても、その人に対して憎しみを抱くようなことがない。というのは、生命が充実しているからである。むしろ、自分がこのように生きる喜びにあふれていることを、当然のこととして受け取ってもよいものかどうかとまどうことさえあるくらいである。

生きる喜びというものは、人生の困難に耐えることができ、困難があっても、それでへこたれてなどしまわず、かえって生きがいを覚えるものである。どんな人でも、自分が何かに向かって前進していると感じるなら、その努力や苦しみも、やりがいのあるものとして受け止めることができ、むしろ生命の充実感を味わうことができる。

このような充実感をあなたは持っておられるだろうか。人間として生きるというこの重要な問題は、必ず一度は考えてみなければならない問題である。これを避けて通ることは、人間として生きることを避けていることにほかならない。

2008年4月16日水曜日

健康について 7/8

フランスのハンス・レリー教授が、1954年に、フランスの生物学会に、今日レリー現象と呼ばれるものを発表したことがあった。これは、チフス菌を使って実験したのであるが、彼は細菌の感染や発病は、自律神経の刺激によってはじめて起るもので、もしも自律神経が不動の状態であれば、細菌感染による発病はないはずだというものであった。

それまでは、腸チフスにせよ、結核にせよ、ヂフテリーにせよ、百日咳にせよ、こういう伝染性の病気は、それぞれにチフス菌、結核菌、ヂフテリー菌、百日咳菌によって起るものだと考えていたのだが、レリー学派の研究によると、このような病気は、特別に異なった病原菌によらなくても、自律神経の刺激によって起される病理現象だと言うのである。

彼らの実験によると、チフス菌によらなくても、チフス菌が刺激する自律神経の個所をピンセットでつまんだだけで腸チフスと同じような症状が起ったと報告している。だから、レリー学派の研究によると、細菌そのものの作用は、自律神経を刺激するだけの役割しか果していないということである。

レリー学派の研究によると、人体にはクロールプロマジンという自律神経遮断剤があって、病原菌が体内に進入してくると、すぐにこのクロールプロマジンが自律神経を守るというのだ。たといあの猛毒な黄燐(それを主成分としたものが、「ねこいらず」である)さえも無害にしてしまうと報告している。黄燐というのは、肝臓を黄色にして脂肪肝にしてしまう猛毒を持っているのだが、クロールプロマジンで自律神経を遮断しておくと、全然影響がないというのである。

新約聖書の中の「使徒の働き」において、パウロがローマに捕えられて護送されて行った時のことが記されている。その中にこういう個所がある。パウロがマルタ島でたき火に当っていた時、くべた柴の中から出て来た毒蛇にかまれた時のこと、その土地の人々はパウロがその毒のために倒れてしまうに相違ないと思って見ているのだが、パウロは毒蛇にかまれながらも、倒れることも死ぬこともなかった。それは、彼がローマを見るまでは決して死ぬことはないと確信していたからである。しかも、その彼の確信は、単なる彼の思い込みによるものではなく、聖霊の神によるものであったのである(使徒28:1-6、19:21、27:24)。

2008年4月12日土曜日

罪の現実1 - 失われてゆく純粋さ

私たちは一人前の大人になっていくにつれ、大切なものを失っていっていることにどれだけ気付いているだろうか。

有名な女流文学者パール・バックが彼女の経験を述べている本がある。彼女の少女時代の夢は、自分の家が子供たちで一杯になることだったそうだ。ところが、後になって結婚すると、彼女には後にも先にもたった一人の娘しか生れず、こともあろうに精神障害児だったのだ。そのことを知った時の心境を彼女はこう記している(「母よ嘆くなかれ」)。
「避けることのできない悲しみ、どんなにしてこの悲しみに耐えることができるかを学ぶのは、やさしいことではありませんでした。今日になってこそ、それをよく振り返ってみることができますが、それまでにいたるのは、きびしい越えがたい道でした。両親よりも長生きするかもしれない子供の生命を、どうしたら守れるかという問題にくわえて、私たち自身のみじめな生活を一体どうしたらよいだろうかという問題まで、のしかかってくるからです。人生のすべての明るさも、親としての誇りもなくなってしまうのです。・・・しかし多くのことを私は娘から学びました。とくに、娘は私に忍耐することを教えてくれました。・・・私が歩まなくてはならなかったこの最も悲しみに満ちた道を歩む間に、私は人の精神はすべて尊敬に値するということを知ったのでした。すべての人間は平等であり、そしてまた人間として同じ権利を持っているということをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でした。・・・私はどんな人でも、人間であるかぎり、他の人々より劣等であると考えてはいけないと、そしてすべての人はそのいるべきところと安全を守られなくてはならないと思うようになりました。・・・娘はまた知能が人間のすべてではないことも教えてくれたのです。娘の性質の中には、何か不思議な真実なものがあって、あらゆるうそがはっきり分るようでした。そして、どんなうそも彼女は決して許しませんでした。何かすぐれた純粋さを、娘は持っておりました。」

今日、私たちの間には、真実とか純粋というものが失われ、損をするか得をするかという損得勘定しか優先しない恐るべき功利主義を見るのは何とも悲しいことではないだろうか。

2008年4月8日火曜日

健康について 6/8

前回、看護師に腹を立て、彼女を憎んでいた一人の病人の話をした。その病人が、聖書の教えである「あなたの敵を愛しなさい」という教えに従い、その看護師を憎むことをやめたとたん、病気は治ってしまったと言った。

ところが、ある人はこんなことを言ってきた。「憎しみを自分で取り去るなんてことはそんなに簡単に出来ることではないでしょう。そんなことをするよりも、コーチゾンというような薬を注射するなり、内服するなりした方が、よっぽど手っ取り早いのではありませんか。」確かに効き目は早いかもしれない。しかしながら、これは一時的なことであって、それをやめると、俄然病気は悪化してくるのだ。そのため、このごろでは良心的な医師は、なるべくそのようなものは使わないようにしている。これは、医療的にコーチゾンをやっても、嫌な看護師の顔を見れば、それはストレスになり、結局ストレスそのものは依然として加わり続けるわけだから、コーチゾンをやめた時には、目も当てられない病状になってしまうのだ。

だから、セリエ学説が正しいものであるとすると、ほとんどすべての病気は、心に本当の平安が与えられれば治ってしまうものであるということになる。そして、感情の刺激になり、ストレスを起す原因となるような外的事情や環境をすべて取り除いてしまえば、どんな病気でも治るはずだ。けれども、そんなことは全く不可能なことで、結局こうした問題の解決は、外的事情や環境がどうであろうと、そういう嫌な情況に打ち勝つ信仰による以外にはないということになるだろうと思う。

人間はだれでも弱い。だから、周囲の外的事情や環境に左右されがちである。私も全く同じで、私が病弱であったのは、そうした理由からであったと思う。しかし、クリスチャンになり、信仰を持つようになると、元気になっていった。周囲の外的事情がどうであろうと、信仰によって健康になっていった。健康を保持するための四つの原則がよく分り、これを励行してから変った。

私は今でも玄米菜食をし、よく寝、週に二回ぐらい水泳をしている。体は疲れたら寝れば回復するが、精神的な問題に当面した時は、神のみもとに行って、重荷を下すことにしている。こうして、いつも心に平安と喜びを持って生きているので、八十歳の今も元気で現役として働いている。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「心の健康・体の健康」(恩寵社)を参照されたい。

2008年4月6日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか9 - 罪意識を持っているから(2)

私たちは自分に対する深刻な嫌悪の泥沼からどうやって這い上がってくることができるだろうか。自分に対する嫌悪の念から自分を憎む余り、自殺するかもしれない。またある人は、酒やタバコや薬物の中に身を置いて、それをごまかそうとするかもしれない。またある人は、人間なんてどうせこんなものなのさと考えて、すべてを浅くごまかしながら生きて行くかもしれない。またある人は、自分で発見した自分の姿をそっと隠し、再び仮面を付けて生きていくかもしれない。

けれども、自分の厳しい現実の醜い姿を、そのままありのままに受け入れざるをえない。そういう生き方をする人もいると思う。しかしいずれにしても、そういう時に取る態度が私たちの人生を決定的なものとしてしまうことを覚える必要がある。

ある人は、自分が過去においてしたある事のために、罪意識を覚えるかもしれない。ある一人の人のことだが、この人は第二次大戦の時、中国へ行って、そこでただ一度だけ人殺しをした。 彼は斥候に遣わされて行き、ふっと姿を現わしたら、向こうにも斥候らしい兵隊が姿を見せた。殺すか殺されるという土壇場で、その人は銃で敵方の斥候を撃ったのだ。自分の見ている前で相手は倒れた。

彼は戦争が終り、復員して帰って来た。しかし帰っては来ても、人を殺したという思い、心の中の罪意識を、どうすることもできなかった。ほかの人は彼にこんなことを言ってくれた。「あなたが悪いのではない、戦争が悪いのだ。」また別の人は彼にこんなことも言ってくれた。「あなたよりももっと多くの人を殺している人がいくらもいるんじゃないか。あなただけではないんですよ。」いくらほかの人からそのようなことを言われても、心に平安は来なかった。

その人は、普通の仕事に就くことができず、奉仕的な仕事に就いた。けれども、そんなことによって、自分の過去を償うことはできなかったのである。主イエス・キリストによる罪の赦しの宣言を得るまで、彼は本当の人生を回復することはできなかった。

私たちは罪意識を持ったままであれば、幸福になることはできない。多くの女性が堕胎をし、それが殺人行為だということが分っているだけに、水子供養をしたりするが、そんなことによって良心の呵責が取り除かれることはありえないのである。

2008年4月1日火曜日

健康について 5/8

1946年に、カナダのハンス・セリエ教授がストレス学説を発表した。それによると、風邪は寒さが誘因となり、風邪のばい菌が感染することによって起ると考えられていたものが、実は寒さやばい菌はストレスを起させる原因としての役割を果すだけで、ある人はそれによって感冒を起し、ある人は扁桃腺炎を起し、ある人は腎臓病を、ある人は喘息を起すというのだ。もちろん、このことはそれまでの医学でも一応は認められていたのだが、それらの風邪や扁桃腺炎や喘息や腎臓病なども、結局は感情の刺激によって起るものだという指摘は、それまでの医学の病因論を根底から揺るがすことになったわけである。

それでは、感情的な刺激はいつでも病気を起させるのだろうか。ここのところはちょっと専門的になり難しくなるので、ごく簡単に説明すると、こうなる。たとえば、体の中にストレスが加わった場合、体はむざむざとそのストレスを起させるものの犠牲になって、病気にかかってしまうものなのかと言うと、そうではなく、そこにはこれを防衛するものがある。それは、副腎皮質ホルモンがが分泌されるわけで、これは脳下垂体から向副腎皮質ホルモンという内分泌物質を出し、それが副腎皮質へ行き、副腎皮質ホルモンを出させるのだ。この脳下垂体に命令を下すのが間脳、つまり自律神経中枢だ。だから、この間脳と脳下垂体さえしっかりしていれば、どんなにストレスが加わっても、びくともしないということになるわけである。

こうしたことから分ると思うが、病気にならないためにも、また病気が治るためにも、間脳という感情神経中枢が平静であることがどうしても必要なのだ。そうすると、どうやら病気になったり、病気が治ったりするのは、その人の心に平安があるかどうかということになる。それをさらに突き進めていくと、信仰の問題になる。信仰があれば、心に平安が与えられ、そうすれば、病気にかかることもなく、たとえかかっても治りやすいのである。

ある人が病気になり、いくら薬を飲んでもなかなか治らない。よく聞いてみると、いつも自分の所に来る看護師を憎んでいたのである。彼女が不親切だったからである。ところが、聖書の中に、「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:27)と教えられていることを知って、今まで憎んでいたその看護師を憎むのをやめようと思い、そのことを決心したら、とたんに病気は治ってしまったという話がある。