クリスチャンになって六十三年、牧師になって五十六年。あっという間に過ぎてしまったような感じがする。私たちが信じているキリスト教信仰は、永遠の視点からものを見るようにするので、たとい五十年でも百年でも、そんなものは一瞬の出来事に過ぎないのである。永遠の視点からものを見るようになると、物事が一変した。価値観も変り、悩んでいたことも悩む必要がなくなった。
クリスチャンになる前は、他人のことが気になって仕方がなかったものだ。他人と自分とを比較して、一喜一憂した。ほかの人がうまくいっているのを見ると、心の中にねたみ心が湧き上がって来るのをどうしようもなかった。これは、クリスチャンになってしばらくの間はそれがなくなったが、しばらくすると、また同じような考えが湧いてきた。牧師になっても、一緒に神学校を卒業した友人と、やはり比較した。それが、いつのころからか、そういうことをしなくなった。後輩であった人が伝道、牧会で良い働きをしているのを知っても、それを心から喜ぶことができるようになった。なぜ私がそのように変っていったかと言うと、その人々も決して競争相手ではなく、同労者であるということが分ったからである。それぞれの人に神が与えていてくださる賜物があって、それぞれその賜物を用いて、神の働き場で活躍しているわけだから、喜ぶのが当然だと思うようになったのである。競争相手と考えていた時には、やはり視点は自分の所にあって、自分中心に物事を見ていたのだが、神からの視点でものを見るようになると、自ずと見方、考え方が変っていった。主がそうさせてくださるのである。
永遠の神の視点からものを見るようになると、本当に楽になった。力む必要など毛頭ないし、背伸びする必要もない。自分の力以上のことをしようとして、あくせくすることもない。そういうふうになると、ストレスも減ってきた。毎日が楽しくて仕方がない。
永遠の視点でものを見るようになると、対人関係もうまくいくようになり、どんなことがあっても、あわてないで済むようになる。御言葉に教えられていることが素直に自分のものとして実行でき、他の人を無闇やたらに批判することも少なくなった。いつも感謝と喜びに溢れ、賛美に日を過すようになっていった。すべてハレルヤである。
2009年5月20日水曜日
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