ところが、ある時、次の御言葉と出会い、私の考え方は根底からくつがえされてしまった。
「あなたがたが今までに遭った試練は、だれにも襲って来るもので、特別なものではない。神は約束されたことを必ず果たしてくださる真実な方である。だから、約束通り、あなたがたが耐えられないような、厳しい試練に遭わせないばかりか、かえって耐えられるように逃れの道も備えてくださるのである。」(1コリント10:13)
私が耐えられないような、厳しい試練には、神が遭わせられないのだということを知ったからである。
母親が赤ん坊をお湯に入れる時、母親は赤ん坊にとって熱すぎもせず、冷たすぎもしない、ちょうどいい湯かげんを見極めてからでないと、赤ん坊をお湯に入れることはしない。
それと同じように、いや、それ以上に、神は私たちの霊的状態をご覧になっていて、これくらいなら大丈夫という試練の度合いを見極めてからでないと、私たちを試練の中に投じることをなさらないのである。
そのことが分った時、大きな試練に当面しても、神が私をそれだけ大きく評価していてくださるのだということが分り、感謝するようになった。だから、そういうことが起ってきた時、不平、不満を言うのは、全くお門違いなのである。ただこの際、覚えておかなければならないことは、神が大きな試練をお与えになった時、自分がこれほど大きな器に評価されているのだと思って、慢心してはならないことである。そんなことをしたら、たちまちにして足をすくわれて、倒れてしまうことだろう。
御言葉によって、私の人生は変ってきた。御言葉が私の人生の人格形成をしてくださったということがよく分る。私は弱虫であり、肉体ばかりでなく意志も弱い人間だった。どんな時でも不平、不満ではなく、感謝できるようなものに変えてくださったのは、神の言葉である聖書である。