私たちは、自分が見たこと聞いたことを語らないわけにはいきません。(初代教会4:20)この世の中では、その価値という点からすれば、大したことではないのに、宣伝文句につられて、あたかもその内容がすばらしいものであるかのように思われるものがいくらもある。つまり、見かけ倒しと言われるものがそれである。
また選挙運動の場合でも、必ずしも心からその人に傾倒しているわけでもないのに、アルバイトの謝礼を沢山もらっているために、あたかも自分が推薦できる人は、世界中にこの人しかいないとでも言うような宣伝をし、応援している人もいないわけではない。つまり、自分で自分を偽っているのである。
しかしながら、私たちは、自分の良心を偽り通すことはできない。どんなに沢山のお金をもらって、一時的には自分を偽ることができたとしても、それを通し続けることはできない。つまり、私たちの良心は、正しいことに対しては正しいという反応を示し、誤っていることに対しては誤っているという反応を示すからである。というのは、良心という英語conscienceは、conとscionというラテン語から来ており、それは「共に知る」という意味である。誰が共に知っているのかと言うと、神が共に知っておられるのである。ところで、私たちは自分の弱さから、正しいと思っていることを、あらゆる事情に抗しても主張することができないのだ。そういう時、私たちは誰でも多かれ少なかれ悩むものだ。
私たちは見もしないことを見たとか、聞きもしないことを聞いたというふうに、良心は決して思わないのだが、自分の弱さのために、良心の認めているままにこれを表すことができないことがある。しかし、もしも私たちが真に正しいことを正しいと主張し、真に誤っていることを誤っていると主張できたら、どんなにすばらしいことか。私たちがある一つの経験をすると、私たちは、このように主張できる勇気の人となることができる。それは、イエス・キリストとお会いすることだ。そうする時、私たちは、主イエス・キリストにお会いしたという事実を語れるだけでなく、正しいことを正しいと語り、誤っていることを誤っていると語ることのできる人になれる。