2008年7月6日日曜日

人は死んだらどうなるか

人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。

霊は、肉体と結合している間は、肉体によって制約され、時間と空間の法則の下にある肉体とともに生きなければならないが、死ぬと肉体から解放され、自由になる。しかし、自由になったからといって、自分のしたいことができるわけではない。地上においてどういう生き方をしたかによって、主イエス・キリストと共にパラダイスに行くか、それとも暗黒と苦しみしかないハデス(よみ)に行くかのどちらかだ。そして、やがてキリストが再び来られて、この世が終りになる時、体が復活して霊的体となり、それが再び霊と結合して、パラダイスにいた人は天国へ、ハデス(よみ)にいた人は永遠に地獄へと入れられてしまう。

この世にいた時、どのような生き方をしたかが、人間の永遠の運命をこのように二分してしまうとすれば、この世にいる時の生き方は、極めて重大であると言わなければならない。それではどのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行ってしまうのだろうか。人間は、生まれながらエゴイストであり、自分さえよければよいのだという考え方を持っている。聖書では、それを罪人(つみびと)と呼び、罪人のままでは滅び(破滅)に至る運命にある。

しかし、神は憐み深いお方で、私たち滅び行く運命にある罪人を救うために、救いの道を用意してくださった。だから、この神のご好意を感謝して受けるなら、私たちはだれでも天国へ行くことができるのであり、それを拒むなら、私たちは地獄へ行かなければならない。神のご好意を素直に受け入れる生き方をするか、それともそれを拒む生き方をするかが、人生の分れ道になってしまうわけである。神のご好意を受け入れるなら、神は恵みによって私たちの罪を赦し、私たちを罪から救ってくださる。だから、このような救いを受け入れる生き方こそ重要なのであって、そのような生き方をするようにと聖書は繰り返し私たちに勧めている。

人が死を恐れるのは、死の後に裁きがあるからだ。人類が罪に陥って以来、自然死のほかに、罪の裁きという意味が加わった。そのため、死を恐れるようになった。死は確かに不気味だ。しかし、罪が入って来なかったら、不気味というだけで、死に対する恐れはなかっただろう。けれども、今はだれでも死に対する恐怖に恐れおののいている。

だから、この罪の問題が解決しなければ、私たちは死を恐れ続けなければならないのだ。クリスチャンというのは、この罪の問題を解決した人々、つまりキリストによって罪を赦していただいた人々だ。だから、死に対して恐れを抱かなくなった。しかし、クリスチャンにもなお自然死はあるわけで、それは、天国への入り口という意味に変った。朽ちゆく肉体を持ったまま、天国へ入ることはできない。だから、肉体を脱ぎ捨て、やがてキリストが再臨されるこの世の終りの時に、復活して、霊的体が与えられ、天国に入ることができる。

クリスチャンが死を恐れない理由、および死に際してノンクリスチャンのように悲しまない理由がここにある。もう一度、天国でもっと確実な方法で愛する人と会うことができるからだ。この世の生は短く、一時的だが、天国での生は永遠に続く。クリスチャンは、この永遠の生への備えをしている者たちなのである。

だからと言って、クリスチャンは死を喜んで迎えるというのも、必ずしも当を得ているとは言えない。この地上におけるしばしの別れでさえも、寂しく悲しいものなのだから、ましてこの世ではもう再び会えない死出の別れを、寂しくまた悲しく思わないわけがない。しかし、クリスチャンの死別は、それが永遠の別れではなく、再会の希望のある別れだから、そこには平安があり、また期待がある。そういう意味で、喜びもまたあると言うことができる。ただ死ぬのが嬉しいというのとは違う。

だから、クリスチャンは、死に際して決してあわてることがない。日ごろ親しく交わっている神のみもとに行くのだから、そういう意味では、あわてるどころか喜びで一杯だ。私たち人間は、遅かれ早かれ、この世界の創造主である神の御前に立たなければならない。だから、だれも皆、神に会う備えをしていなければならない。それができているのがクリスチャンである。

そういうわけで、クリスチャンの葬式は、死んだ人をあがめたり死んだ人の霊を慰めるのではなく、その人をこの世に送り、また取られた神をあがめる礼拝なのである。