2008年8月17日日曜日

職業について

職業選択を簡単にやってのける人がいる反面、将来の仕事について思い悩んでいる人も少なくない。私は元々数学が好きで、その上家の設計に興味を持っていたので、建築家を目指して、大学の建築科に入ったのである。ところが、大学へ入り、その年の終りにクリスチャンになり、しばらくすると、牧師になることが私の使命であることがはっきりしてきて、それまで専攻していた理工学部の建築科をやめ、文学部の西洋史専攻に変えることにした。私にとって最も苦手の、しゃべることと書くことを専門とする牧師への道は、確かに新しい分野への挑戦だった。語学や、暗記物と考えていた歴史が苦手の私が、進路を変えて、新約聖書の原語であるギリシャ語や、旧約聖書の原語であるヒブル語をやるようになった。やってみると結構面白く、使命が先行すれば、結構やれるものなのである。

私は、多くの人々に勧めたいのだが、大企業とか将来性のある職場を選ぶことも決して悪いことではないけれども、そこだけが仕事場ではないということである。むしろ、そうした安定した仕事場だけではなく、主が必要としておられる分野への進出ということが求められているのだということも覚えてほしいと思う。主が必要としておられる所なら、どこへでもいくというパイオニヤ精神が重要なのである。私はそういう人生を生きてきて、本当に充実した人生であったことを感謝している。

クリスチャンだけの職場も結構だ。積極的にクリスチャンとして新しい事業をしていくことは良いことだ。私もゼロからのスタートで開拓伝道をしたから、そのことが分る。しかし、クリスチャンだけの職場を求める心の中に、わずかでもその方が楽だと言う安易さがあるならば、それは大いに問題だと思う。そういう人がいくら集まった所で、何も出来ないだろうし、かえって主をあかし出来ない職場になってしまうだろうと思う。

ある人々は、クリスチャンになると、仕事の上でうそが言えなくなるから、クリスチャンになりたくないと言う。確かにクリスチャンはうそを言わない。正直である。それでは、うそを言わなければ仕事はうまくできないのかと言うと、それは間違いだ。仕事は、うそを言うことによってうまくいくのではない。むしろ、そういううそは、いつかはばれてしまうもので、けっして長続きするものではない。正直にやる方がはるかに得策なのである。

仕事がうまくいくかどうかは、うそを言ってごまかすところにあるのではなく、真に相手の立場に立ってものを考え、相手が得をしつつ、自分も得をするというやり方でなければ、けっして成功するものではない。

ごまかすことに頭を使うべきではなく、人々が必要とし、求めているものは何なのかということを考えて、ものを作り、売り、他の人に喜んでもらうことのために頭を使うべきなのである。

たばこや酒を飲むかどうかというところに、人とのつき合いの大事な点があるのではなく、人間としての誠実なつき合いこそ重要であり、お互いに信頼し合える関係を作ることが大切なのである。

ところで、クリスチャンのつき合いの場合、それはけじめのあるつき合いであるべきで、何でも相手のペースに巻き込まれてしまうようなつき合いであるべきではない。出来ることと、出来ないことをはっきり区別し、人間同士としてのつき合いをするべきである。酒が入らなければつき合えないというのは、人間としてのつき合いのどこかにごまかしがあるのであって、人間同士としてのつき合いを作り出していかなければならない。

今日、職業観が極めてあいまいになっているような気がしてならない。聖書からもう一度、正しい職業観を教えられる必要があるだろうと思う。

聖書の中には「召し」という言葉が二種類の意味で使われている。一つは「職業」を指し、もう一つは「救い」を指している。前者については、次の御言葉がそれを示している。
「使徒として召されたパウロ。」(ローマ1:1)

これは、使徒という働きに召されたという意味である。後者については、次の御言葉がそれを示している。
「神の賜物と召しは変ることがない。」(ローマ11:29)

これは救いへの召しである。この「召し」ということは、私たち人間の業によってそれがなされたのではなく、神が私たちをそこへ召してくださったという意味である。だから、職業は召しと言われるのだ。それはラテン語でも、ドイツ語でも、英語でも、フランス語でもそうである。英語やフランス語やラテン語ではvocationと言い、ドイツ語ではBerufと言う。つまり、ここで大切なことは、その仕事を私たちが選んだ場合でも、究極的には神が私たちをその仕事に召してくださったのだと言うことを自覚する必要があるのである。