2008年10月5日日曜日

病気と医療をどう考える

病気というものは、決して健全な状態であるとは言えないから、歓迎すべきものではないだろう。だから、治療をすることを考えなければならないはずだ。ところが、これについて、二つの極端な考え方がある。その一つは、医療行動などによって病気を治したりするのは不信仰であって、神に祈って治していただくべきだと言うのである。もう一つは、病気になったら医者に行って治してもらうべきで、心の病気は神に、そして肉体の病気は医者に行って治してもらうのだと言うのである。

まず第一の考え方について考えてみよう。このような考え方をする人々は、神癒と称して、祈りによる神の直接的癒しを強調する。しかし、このような人々の考え方の間違いは、医療の進歩、発達を神が許しておられるということを認めないところにある。医学というのは、自然科学の一分野だから、神癒ばかりを余りに強調すると、自然科学の発達を神は許してはおられないということになってしまう。

けれども、このような人々も、医学以外の自然科学の他の分野については、その発達を神が許しておられることを実際に認めており、その自然科学の最新分野の恩恵に十分あずかっており、インターネットやパワー・ポイントを駆使しているのである。これは、殺生は嫌いだけれども、肉を食べることは大好きだというたぐいの矛盾であると言うことができる。一方においては、科学の発達の恩恵に存分に浴していながら、他方においては、それを否定しているのが、この立場の人々である。ただ誤解してほしくないのは、神が私たちの病気を癒してくださることを否定しているのではない。そして、今日、医療行為と同時に、祈りによる癒しがあることを私は体験している者である。ここで取り上げているのは、医療行為を全く否定し、神癒だけを主張する極端な立場についてのことである。

第二のものは、二元論的な考え方をしているところに誤りがあると言ってよいだろう。心の病気は神によって治していただき、肉体の病気は医者によって治してもらうという考え方は、神を全能の神として認めてはいないことになりはしないだろうか。神は、人間の心も肉体も支配しておられるお方なのだから、このような考え方は、神を限定してしまうことになるだろう。

それでは、私たちはどのように考えたらよいのだろうか。医学の発達を許しておられる神は、医療を用いることを決して不信仰とはお考えにならない。だから、私たちが医療を用いて治すために医者にかかることは間違いでもなければ、不信仰なことでもない。しかし、ここでよく覚えておかなければならないことは、医学や医療行為が人を治すのではないということである。つまり、医者が病気を治すのではない。神が医療行為を用いて病気を治してくださるのである。

医療行為が病気を治すのではないことは、多くの実験によって証明されている。同じ治療をしても、本人が治って自分の家へ帰りたいという強い願いを持っている人と、治っても帰る家がないので、治りたくないと思っている人とでは全然違う結果が出るのである。本人が治りたいという強い願いを持っていない場合には、たといそれほど病気の程度が悪くはなくても、治らずに死んでしまうことがあるそうだが、本人がどうしても治りたいという強い願いを持っている場合には、かなり病気が重くても治ってしまうことが多いということである。

これは、普通、本人が治癒力を十分持っている場合というようにして説明されているけれども、それだけでは不十分だ。治癒力を与えるのは神であって、決して本人ではないからである。

だから、私たちは病気になって医者にかかる場合にも、決して医者が治すのだと思ってはいない。医者のできることは、医学の知識によって悪いところを取り除き、それ以上悪化しないようにすることと、本人の自然治癒力を増進させるために体力をつけたりすることだけである。治してくださるのは神なのである。だからと言って、医者などどうでもよいなどと思ってはならない。医者の働きは非常に重要だ。それだけに、医者は自分の分をわきまえ、それに全力を尽くすべきである。また、患者は医者を信頼し、神がその医者を用いて治してくださるように祈るわけである。

そういうわけで、神は普通、医療を用いて癒してくださるが、医療を用いずに癒すこともおできになる。ことに今日の医学の研究ではどうにもならない分野においては、直接癒してくださるよう祈る以外にはない。そして神は不思議に癒してくださることがしばしばある。このようなことからも分るように、病気を治すのは医療行為なのではなく、神ご自身にほかならない。そして、すべての病気がいつでも治るとは限らない。神の御心でなければ、決して治ることはないのである。