2008年10月26日日曜日

キリスト教信仰のからくり

一般に人々が考えているところは、善行を積むことによって天国への階段を登って行くことができ、天国に入れるというものだと思う。ところが、聖書が教えているのは、いくら人間が善行を積んでも、それで神に受け入れられたり、天国へ行けるのではないというのである。それでは、どうしたら神に義とされたり、救われたりするのかと言うと、信仰によってであると言うのである。
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28 新改訳)

これをもう少し分りやすく訳されている現代訳で見てみると、次のようになっている。
「だから、私たちが救われるのは、律法を行なうことによるのではなく、キリストを信じることによるだけだというのが、私たちの主張しているところにほかならない。」

つまり、聖書の教えているところによると、私たちが救われて天国へ行くことができるのは、私たちが何か善行をすることではないというのである。それでは、何もしないことなのかと言うと、そうではなく、信仰によるのだというのである。なぜ何かをすることではなく、それと反対のものとして、そこに信仰が来るのかということが疑問となるだろう。

ここで教えている「何かをすることではなく信仰による」ということは、何もしないことだと考えると、分らなくなってしまう。むしろ、アクティブに何かをすることではなく、パッシブに受け身になることだというのである。

神と私たち人間の関係は、創造主と被造物の関係である。これが最も基本的なことである。この両者の関係を、もう少し分りやすく説明すると、放送局とラジオの関係と思えばよく分るだろうと思う。放送局というのは、いつも一方的に電波を発信している。それに対して受信機であるラジオは、一方的にそれを受信するだけである。そのラジオがどんなに性能が良くても、放送局が発信しているものを聞こうと思えば、その電波に合わせなければ、放送局から発信しているものを聞くことができないのである。かりに1650キロヘルツの電波に乗せて、すばらしい音楽が放送されていても、それを聞こうとすれば、こちらの受信機であるラジオは、1650キロヘルツに合わせなければならない。

それと同じで、神が創造主で、私たち人間が被造物であるなら、神の愛のメッセージを聞こうとすれば、神に対して「受け身」になることが必要なのであり、これが信仰というものなのである。

この理屈が分らないがために、信仰も分らない人が多い。信仰とは、被造物である私たち人間が、創造主である神に対して受け身の姿勢を取ることにほかならない。これが分らなければ、いくら経っても神が分らないだろう。こちらが人間としてどんなに優秀であっても、神を知る方法はこれ以外にはないのである。受信機であるラジオがいかに性能が良いかどうかにかかわりなく、放送局から発信されている電波に合わせなければ、その放送局から発信されている放送を聞くことはできないのである。だから、神を知ろうとするのであれば、神は創造主であり、自分は被造物であることを認めなければならないのである。

神が創造主であって、私たちは被造物であるということをなかなか認めたがらない人であっても、いくつかのことを考えたら、それを認めないわけにはいかなくなるはずだ。たとえば、自分の誕生について考えてみれば、それは分るはずだ。いくら主体性を持って生きるべきだと叫んでいる人でも、自分の誕生については、自分の意思のかかわりのないところで、それは決定されていた。それは、親の意思なのだろうか。そうとも言えない。親は生まれてくる子供の性別すら決定することはできないのである。今度は男の子が欲しいと思っているのに、また女の子であったという人がいる。そして、その逆の人もいる。人間の意思だけで、生まれてくる子供の性別を決定することはできないのである。

それでは、だれがそれを決めるのだろうか。創造主の神である。だから、どんな時代でも、男の子の生れて来る数と女の子の生れてくる数はほぼ同じである。こんなことは人間業ではありえない。丙午の年に生まれてくる女の子は、結婚してくれる男性があまりいないという迷信を多くの人が信じて、その年の子供の誕生は極めて少ないが、それでも、男女の比率はほぼ同じなのである。この不思議な出来事を偶然として片付けようとする人は、偏見で凝り固まった人だと言われても仕方がないだろう。

神は創造主であり、私たち人間は被造物であるというこの厳粛な事実の上に、キリスト教信仰のからくりがある。だから、このことをしっかりと認めておかないと、キリスト教信仰が分らないだけでなく、それに入ることもできなくなってしまう。