2008年11月2日日曜日

キリスト教の前提

「神が存在するということを実証もしないで、それを前提とすることは独断であり、非科学的ではないか。」と言う人がいる。こういう人たちは認識論において初期的な誤りを犯している人たちである。というのは、どんな考え方でも、そこには必ず前提というものを持っているのだということを知らないからである。実証に先立つものとして、前提(ア・プリオリ)を持っている。それは、自然科学でも同じである。普通、自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提としている。普遍的原理というのは、「・・・の原理」とか、「・・・の公式」とか、「・・・の定理」とか、「・・・の法則」などと呼ばれるものがそれである。原理とか、公理とか、定理と呼ばれるものの前には、大抵、アルキメデスとか、ピタゴラスとか、パスカルといった発見者の名前が付けられている。しかしながら、このようなものだけでは研究を進めていくことができないために、仮説を立てなければならないのである。

このようなものの中でも、最も基本的な事柄として、自然科学においては、いくつかの前提を持っている。たとえば、数概念が実在するとか、比較の概念が実在するということである。1、2、3といった整数や、0.1、0.2といった小数や、2分の1、3分の1と行った分数や、√2、√3といった無理数や、循環数など、いろいろな数がある。このような数の概念が実在するということは、どのようにして証明することができるだろうか。

また、これはあれよりも大きいとか、こちらが重くてあちらが軽いとか、こちらが赤であちらが青であるとか、こちらが美しくてあちらが醜いとか、いろいろな形の比較がある。ところで、そうした比較の概念が実在するということを、私たちははたして証明できるだろうか。そして、実証してもいないものを、あらゆることに先立って前提として持って来ることが独断であり、非科学的であるというのであれば、自然科学も同じ言葉で批判されなければならないはずだ。しかし、これほどナンセンスなことはない。

これで分るように、前提をもうけること自体が悪いのではない。要は、その前提が、それから生ずる事柄を、すべてよく説明できるかどうかにかかっているのである。

つまり、前提というものは、それ自身だけをどんなにいじくり回してみたということで、それが正しいかどうかを判断することはできないのである。その前提が正しいか、それとも誤っているかを決するものは、その前提から導き出された結果(ア・ポステリオリ)が、すべてのことに正しく当てはまるかどうかによる。つまり、木はその実によって知るという方法以外に、前提の正誤を判断する道はない。

一つの例を挙げよう。湯川秀樹博士が、中間子仮説を発表したことがあった。これはまだ仮説だから、当然まだだれもその実体を実証したわけではなかった。それが実在することを実証するためにも、前提として設けなければならない事柄は、「中間子があるとするならば・・・」ということことである。「中間子がないとするならば・・・」ということは、前提とはなりえないのである。つまり、前提というものは、いつでも肯定的、存在的で、したがって限定的でなければならないのである。そしてその後、世界中の学者がたゆみない研究を続けた結果、約三年ほど後に、わが国では理化学研究所の仁科博士の研究室で宇宙線の中に捕えられた。こうして湯川博士の一仮説は、「中間子論」として、一躍広く人々に知られるようになり、後に日本で最初のノーベル物理学賞受賞者となったのである。

それでは、キリスト教の前提は何なのであろうか。それは、次のような一連の事柄である。この世界を創造された唯一の神がおられること。そして、その神が私たち人間を罪から救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書であるということである。だから、神の実在は前提であって、それ以外の何ものでもない。しかも、これは前提の要件にかなっている。肯定的であり、存在的であり、限定的だからである。また、この前提で気付くことは、神が創造主であるということである。つまり、永遠とか無限とか絶対というものが、ただ抽象的に存在しているのではなく、そうしたものがすべて、この世界の創造主である唯一の神に属しているという考え方がある。永遠という抽象的な世界があるのではなく、永遠とは神のみに属するのである。同様に、無限も絶対もそうであって、そうした世界は、神においてのみ具体化して実在しているのである。それだけでなく、この神は創造主なのだから、啓示をなさるはずである。

この前提に立つ時、神の御心の啓示である聖書によると、イエス・キリストを信じれば救われるというのである。だから、イエス・キリストを信じて救われれば、この前提は正しいことになる。そして、それ以外の方法で神の実在を知ることはできないのである。