2013年9月4日水曜日

ねたみの火


ねたみと党派心のあるところには、騒動とあらゆる悪がはびこっている。(ヤコブ3:16)


ねたみというのは、理由というほどのないところから起ってくるものである。学校で、ほかの人が自分より成績が良くなったとか、一緒に入社した人が自分よりも先に出世したとかというほんの些細なことが原因であることがほとんどである。それでは、ねたまれた相手は、何か悪いことをしたのだろうか。ほとんどの場合、その人に別段これと言った責任のないことが普通なのである。ところが、私たちは徹底的に利己主義者だから、そのような場合、ねたみ心が湧いてくるのである。

党派心というのもまた、利己主義的なところから起ってくる。このように、ねたみや党派心が起ってくると、それはあたかも燎原の火のように、どんどんと燃え広がって、尽きるところを知らない。ねたみや党派心のあるところ、どこにでも混乱が起きてくるし、嫌なことが次々に起ってくる。そこには、もはや秩序とか平和というようなものの片鱗さえも伺うことができない。

考えてみると、実に恐ろしいことである。最初は誰もこんな恐ろしい結果を招くとは決して考えてもいなかったことだろう。しかし、自分でも気が付かないところにおいて、こんな恐ろしい結果を招くものがねたみであり、党派心であるとすると、私たちはよくよく考えてみなければならないと思う。しかも、このねたみや党派心というものは、ごく自然に起ってくるものであるとすれば、その元とも言うべき利己的な自我の問題の解決こそ、最も急を要することではないだろうか。この問題が解決して初めて混乱や嫌なことが起ってくることを防ぐことができるわけである。

利己的な自我の問題は、実は最もしぶとい問題でもある。聖書が真正面から取り組んでいるのは、実はこの問題である。その問題とは、一口で言うと、罪であり、これがあらゆる問題の核心である。これが解決されないかぎり、人生の幸福も真の喜びもない。自分さえよければ、それでよいという罪の実体を解決するのは、神の御子イエス・キリストの十字架上の贖いの死以外にはない。それこそ神による解決である。