もしあなたの敵が飢えているなら、彼に食べさせてあげなさい。渇いているなら、飲ませてあげなさい。(ローマ12:20)
私たちは一度その人を嫌いと思い込んだら、なかなか好きにはなれないものである。それでは、なぜ好きにはなれないのだろうか。それは、こちらが相手に対して好意を持っていないばかりではなく、向うもこちらに好意を持っていないからである。私たちは、よくこんな弁明をしないだろうか。「いくら、こちらが悪意を持たなくても、向うはやっぱり悪意を持っているんだから」と。このようにして、私たちは相手側のせいにしようとする。しかし、本当に向うだけが悪いと言えるのだろうか。よく考えてみると、こちらにも相手を受け入れるだけの度量がないからということもあるのではないだろうか。いくら向うが悪意を抱いていたとしても、こちらがそれに対して少しも悪意の反応を示さなくなれば、向うでもいつまでも悪意をもっているものではないはずである。
けんかの場合もそうではないだろうか。一方に対して他方が反応を示すから、けんかはますます激しくなってしまうわけである。もしも一方の悪意あるやり方に対して、それを相手にしなければ、けんかは起ることはないはずだ。
しかしながら、それだけにとどまらないで、もう一歩進んで、好意を持っていない相手に対して、こちらが好意を示したらどういうことになるだろうか。けれども、それをするには確かに勇気がいる。しかしながら、これこそ本当の勇気である。相手が好意を持って来た時に、こちらが好意を示すことは、実際はやさしいことだ。何の努力も必要としないからである。ところが、相手が好意を持っていないのに、こちらが好意を示すということには、大きな勇気が必要だ。それは、生れながらの人間には、とても出来ることではない。神によってしか出来ることではない。
しかしながら、こうして積極的に和解していくことこそ、ほかの何ものによっても味わうことの出来ない大きな喜びを味わうことができる。神が力を与えて、それをさせてくださることを期待して、大きく一歩を踏み出そうではないか。