2008年9月14日日曜日

教育について思うこと

前回、思春期の子供の教育を考える場合、スポーツをさせることを薦めたが、ことに男の子の場合、これは必要なことだと思う。そのように言うと、そんなことをしていたら、入試戦線から落後してしまうのではないかと心配する人がいるかもしれない。そのように考える人は、教育について間違った考え方をしていることを暴露していることになる。教育とは、人格形成なのだということをしっかり覚えておいてほしい。人格形成は、普通、文化的遺産の継承を媒介として、人格と人格との触れ合いによってなされていくものなのである。文化的遺産と言うと、何か難しいことを想像するかもしれないが、私たちの先輩たちが私たちに残していってくれたものである。学校では、それを国語とか数学とか社会とか理科などといった科目として教え、学んでいく。しかし、このような科目を習得させることが教育の本質なのではなく、それを媒介とした、教師と生徒、生徒同士の人格の触れ合いによって人格形成を行うところに教育というものがあるのだということが大切なのである。

だから、教育というのは、何も倫理とか道徳といった科目を学ぶことによって出来るのではい。数学であろうと、英語であろうと、体育であろうと、それは問うところではない。それを教える教師の人格との触れ合いが大切なのである。

このことは、親子の場合でも同じである。しばしば教育について間違った考え方を持っている人がいる。それは、教育をする親は、自分が完成者であって、子供は未完成者であると思っていることである。教育において、これほど大きな間違いはなく、親も子も、どちらも未完成者なのである。どちらも人格形成への道を求めつつある途上の、いわば求道者同士なのである。そこには、共通の「弱さ」があるはずだ。しかしまた同時に、道を求める「厳しさ」があって、そこにおいては、親が一歩なり半歩なり「先んじていなければならない」。そのことがなければ、決して教育は成り立たないのである。

また、子供の教育について考えようとする時、ずいぶん間違った考え方を持っている親がいることを知って驚かされることがある。子供を自分の理想の鋳型に入れようと考えたり、自分の見はてなかった夢を子供に託して、強制したりするのだが、これは大抵教育ママと相場が決っている。また、世間体を第一にして、他の人にどう見られるかという人の目ばかりを気にしている人が、案外多いのである。

また、親の権威を笠に着たり、ごまかしたり、むら気であったり、えこひいきをしたりする親も少なくない。同じ自分の子供なのに、素直であったり、成績が良かったり、女の子の場合には、顔がかわいかったりする子供を特別にかわいがる親がいる。それがどういう結果をもたらすかは、火を見るよりも明らかである。

よく一家の物差しが父親である場合がある。父親の言うことは絶対であって、言う言葉はいつも一方通行である。父親は、母親に対しても子供に対しても「ごめんなさい」とも「ありがとう」とも言わず、言うのは、いつも子供の方から父親や母親へ、また母親から父親へ(妻から夫へ)という一方通行なのである。こういう家庭は、あとでバラバラになってしまう。しかし、クリスチャンの家庭は、そうではない。一家の本当の主人は、父親でも母親でもなく、主イエス・キリストなのだから、聖書の御言葉に照らして間違っていれば、それが父親であろうが、母親であろうが、ほかの人々に謝る。こういう家庭は、いつも円満で美しい家庭になることは間違いない。

一家においては、親の価値観が子供の価値観を決めるから、親が正しい価値観を持つことは極めて重要になってくる。能力や頭の良さや、社会的地位や、身分や、お金の有無ではなく、人間として最も重要な価値は「愛」ということでなければならない。

私たちが、このように子供の教育について深い関心を持つのは、どうしてなのだろうか。それは、子供が自分のものではなく、神から預かっているものであるというところにある。

わが国では親子心中ということが行われる。それは、幼い子供たちだけを後に残していくことへの心細さであることはよく分る。しかし、子供は自分のものという考え方がそこになければ、そんなことは起らなかったと思う。子供は親のものではない。神からの預かりものである。最後の日に、私たちは皆、自分の子供をどのように育てたかということについて、神に報告する責任がある。

子供にとって良い親というのは、子供が安心していられる親だ。どんなことも、その良い動機を理解し、受け止めてくれる親、たとい失敗しても、それを許してくれる親だ。そうなれるためには、自分で自分を制することの出来ない自分が、まず神によって変えられなければならないのだと思う。