2008年9月21日日曜日

教育は自分が変ることから

親が子供を育てる時、数多くの失敗をしてしまう。親となった人でなくとも、一人前の人なら分ると思うが、ずいぶん多くの傷を親から受けてきているということである。心の中に、いまだに癒えぬ傷を持っている人が、どれだけ多くいることか。私は牧師として多くの人に接してきて、そのことをつくづく感じる。必ずしも崩壊した家庭でなくとも、親から受けた心の傷に悩んでいる人が数多くいる。それは、よく考えてみると、親にも同情すべき点がないわけではないのに、子供はそこまで考えが及ばないのである。

ある青年は、父親を激しく憎んでいた。彼によると、父親からはぶんなぐられた記憶しか残っていないそうだ。父親のことを思うと、恐ろしさと憎しみで、体がブルブルふるえると言うのである。

そこで、私はその人に聞いてみた。「君のお父さんの生い立ちについて、知っていることがあったら話してください。」すると、その人の父親は、幼くして両親と死に別れ、叔父さん一家の手で育てられたというのである。その叔父さん一家にひどくいじめられ、いつかこの仕返しをしてやろうという思いで生きてきたと言うのである。彼が兵隊として戦地に行っている間に、叔父さん一家は、空襲で死んでしまい、彼が復員して帰って来た時には、叔父さん一家は一人もおらず、彼もそんなことは忘れて、仕事をし、結婚したそうである。しかし、酒を飲むと、叔父さん一家のことを口ぎたなくののしり、「今生きていたら、ぶっ殺してやる」と言うのだ。そして少しでもそれに逆らったりすると暴力を振う。こうして私の所に来た青年は父親を激しく憎んでいると言っていた。

彼から父親の話を聞いた時、私は彼にこう言ってやった。「君のお父さんも被害者だったんですね。そのことを理解してあげることが大切ですよ。」彼は、「えっ、おやじが被害者なんて信じられないですよ。被害者は僕なんですから」と言うのだ。「君が被害者だっていうことはよく分る。しかし、君のお父さんがなんで君に暴力を振ったのかと言うと、被害者だったからなんで、そのことをよく理解してあげる必要がある。被害者は被害者を生むんだっていうことをもね。」私がそう言うと、彼はしばし無言のまま、「分りました」と小声で言った。

どんな人にも、それをする理由があるのだ。だから、ひねくれた子供を作りたくなければ、小さな子供も一個の人格を持った存在なのだということを知る必要がある。

よくこういう図を見かけることがある。母親が夕食の仕度をしている時、小さな女の子が母親のところに来て、「お母ちゃん、来て、見て」と言って、母親を呼ぶのである。その時、母親はどのようにその女の子に対するだろうか。「お母ちゃんが今何をしているか分ってるの。忙しいんだから、向うへ行っていなさい」と言う母親が多いのではないだろうか。その時、その子はどう考えるだろうか。「お母ちゃんはあたしのことなんかどうでもいいんだわ。」こうしてその女の子の心には深い傷が残っていくのである。

その時、賢い母親はどうするだろうか。「ちょっと待っててね。お母ちゃんは今、天ぷらをあげているから、それが終ったら行ってあげるからね」と言うにちがいない。子供はその一言で満足するのである。というのは、母親は自分のことを認めてくれていると分るからである。

ところで、前の母親のような行動を取る人の場合、どう考えているのかと言うと、子供のことなんか、自分が今やっていることと比べたら、比べものにならないほどの価値のないことだと考えている。しかし、子供にとっては、それは大切なことなのである。そのことを認めてやるかどうかは人格形成において重大なことなのである。

もしかしたら、早く夕食の仕度をしておかないと、いつもより早く夫が帰って来た時、夫に怒られたら大変だという思いがあって、子供の要求を拒んでも、自分のことをやり終えたいという極めて利己主義的な考え方があったのではないだろうか。だから、教育とは子供の生き方をあれこれ考えたり、提示したりすることなのではなく、自分がどういう生き方をしたら良いのかということに帰着すると言ってもよいのではないだろうか。つまり、人を教育しようと思えば、まず自分が変ることが先決で、今まで通りのエゴイズム丸出しの生き方から、ほかの人のことを心から考える愛の人に変ることから始めなければならないのではないかと思えてならない。

子供であろうとだれであろうと、その人を立派な人にしたいなら、まず自分が変ることである。自分がいいかげんな生き方をしていて、子供だけ立派な人になるわけがないだろう。親が率先し、自ら模範を示すこと、これが教育の第一歩ではないだろうか。親が変れば子供も変る。親が変らないで子供だけを変えようとしても、それはどだい無理な話なのである。