それでは、初代教会が盛大に祝っていたのは何かと言うと、それはキリストの十字架上の死と復活である。これこそキリスト教の中心だからである。そういうわけで、私たちを罪から救うために天から降りて来てくださったキリストを祝うというのでなければ、クリスマスは何の意味もないことになる。
十二月二十五日にキリストがお生まれになったのではないということは、いくら南国のユダヤであっても、このころはかなり寒く、夜、羊が野宿することなどないという理由からである。今日では、九月頃ではなかっただろうかという学者もいるくらいである。それなのにキリスト教界では、どうして十二月二十五日に固執するのだろうか。
主イエスのご降誕より半年早く生まれた人がいた。それは、バプテスマのヨハネである。彼は主イエスのことを次のように言っている。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)。主イエスのご降誕が冬至のころとすれば、バプテスマのヨハネの誕生は夏至のころになる。夏至からは日がだんだん短くなるのに対して、冬至からは長くなっていく。つまり、それを象徴的に示しているとキリスト教界は理解した。だから今日でもそのままにしている。
クリスマスにおいて重要なことは、その日付や由来よりも、その意味である。聖い神の御子が聖い天から罪に満ち満ちたこの世に来られたのである。どうしてなのか。それは、罪人を救うためなのである。罪人を救うためには、それ以外にはなかったから。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1テモテ1:15)