2009年1月26日月曜日

死を思うころ

私は、自分の人生について、主イエス・キリストがどのように介入し、私を導いてきてくださったかということについて、三冊の本を書いてきた。「さすらい」、「生きて働かれる神」、「今も生きておられる神」である。そのほか「牧会余話」にも書いてきた。しかし、八十二歳になる今も、もう一度自分の人生を振り返り、今まで書いてきたことと重複するところもあるかもしれないが、それ以外のことについても書いてみようと思う。すべては主の御手の中において起ったことで、そのことを意識しながら、主の恵みを覚えつつ回顧してみようと思う。

私は元々弱虫で、体もひ弱で、はたして二十歳まで生きられるかどうかをあやぶんだほどであった。意志も弱く、こんな人間がはたして一生生きられるのかと考えたこともあった。小学校時代は、しょっちゅう病気をし、学校をよく休んだ。六年生の時には、大腸カタルから虫垂炎を併発し、手術をしたのだが、少し手遅れで、腹膜炎になりかかっており、危うく一命を落とすところであった。そんなこともあって、死をより身近かに感じることが多くなった。何かをしていても、死んだらもうおしまいじゃないかとか、楽しい遊びの最中でも、死を思い浮かべると、少しも楽しくはなかった。

私が五歳のころ祖父が亡くなったのだが、そのころの記憶はそれほど定かではなく、その後、わが家は長らく死ぬ人がいなかったのに、不思議と私は死におびえていたのである。人はどうして死ぬのかといった疑問が、心の中にうごめいていた。それを、だれに言っても、まともな答えが返っては来ないだろうと自分勝手に心の中に決め込んで、だれにも聞こうとはしなかった。そしていつも思うことは、どうしてほかの人は死のことについて悩まないでいられるのか不思議でならなかった。私だけが特別に変った人間なのかとも考えてみた。

父も母も、学校の先生たちも、死のことについては少しも触れないし、先生はそんなことよりも勉強を教えることで精一杯に見えた。いきおい、人知れず心の中に一人しまい込んでおくより仕方がなかった。そして時々こんなことを考えたりしていた。いくら勉強をしても何をしても、人は死んだらおしまいだから、空しいんじゃないか。死ほど厳しい現実はないし、もしもこれさえなければ、人生はどんなに楽しいことだろうかとも考えた。