2008年1月23日水曜日

クリスチャンになってよかった 5/10

死の問題が解決し、人生の目的・目標が分かれば、当然のこと生きがいのある人生になる。私もクリスチャンになって、本当に生きがいのある人生に変った。もう何も恐れる必要はなくなった。充実した毎日に変えられた。

クリスチャンになる前の約20年の人生とその後の60年の人生を比べたら、初めの人生はむなしい歩みをしていた人生のような気がしてならない。聖歌の中にある次の歌が、今の私の気持ちをよく表しているように思えてならない。
神なく望みなく、さ迷いしわれも、
救われて、主をほむる身とはせられたり。
われ知る、かつては盲目(めしい)なりしが、
目明きとなり、神をほむ今はかくも。
(聖歌(続)463)

ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中で、「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました」と言っているが、正に今の私の気持ちを代弁してくれているという思いがする。クリスチャンになるということは、クリスチャンという変った人間になることなのではなく、正常な人間、本当の人間になることである。クリスチャンになるまでの人は、罪のために歪んでいる。そのことすら分っていないのである。悪魔がその人の心の目を覆い隠しているからである。罪人とはエゴイストのことだと以前書いたが、エゴイストの人間が健全な姿でないことぐらいは、だれでも分るはずだ。

私はクリスチャンになって、本当によかったと思っている。自分の弱さを知り、自分がいかに傲慢な人間であるかということも分った。ほかの人といつも比較をし、ほかの人が少しでも自分より劣っていると思うと、すぐ優越感を抱き、ほかの人が少しでも自分より優れていると思うと、すぐ劣等感を抱いていたものだ。そういうところからも解放され、毎日の生活が充実している。クリスチャンになったことを一度も後悔したことはない。それどころか、ほかのすべての人もクリスチャンになってほしいと思っている。

充実した毎日を送ることも本当にすばらしいことだが、いつこの世の人生が終っても、天国へ行くことができるから、少しも不安はない。天国へは罪を持ったまま入ることはできない。天国へ入れるのは、キリストによって罪を赦された人だけである。だから、罪赦されて、クリスチャンになったということは、大きな特権なのである。