2008年1月19日土曜日

人間として生きる6 - 利益社会と共同社会

われわれが生きている社会は、人間関係という点で見てみると、二種類の社会があるということがわかる。その一つは利益社会であり、もう一つは共同社会、ないしは共同体である。利益社会のことをドイツ語ではゲゼルシャフトと言うが、これは、利害関係においてつながっている社会のことで、この世における生活のほとんどはこれである。たとえば、社会を考えてみればよく分るだろう。働く人は、労働力を提供する代りに賃金をもらうのであり、そこにはギブ・アンド・テイクの関係が成り立っている。学校も本来は利益社会ではなく、教育する場なのだが、そこでも学校と生徒の関係は、ギブ・アンド・テイクの関係に他ならない。この世の中のものはすべてそうだと言っても言いすぎではない。

ところで、共同社会とか共同体というのは、言葉の本来の意味からすれば、生を共同に営みうる場であって、利害関係というものは入ってこないものであるはずである。どのようなものがそれにあたるのかと言うと、血と地の関係において生まれてくる。具体的には、家族であるとか、県人会などがそれである。

ところが、こうしたものにまでも、今日では利害関係が入ってきてしまっている。親子の関係も夫婦の関係も、真実な人間同士の交わりではなく、相手は自分にとってどれだけ利用価値があるかとしか考えていない現実を知ると、寒々としたものがある。

なぜそういうことになってしまったのであろうか。人間一人一人が自分中心にしか物事を考えなくなってきているからである。厳密な意味で、自分中心は必ずしも悪ではないが、それが罪によって利己主義になってしまうところに問題がある。罪を持った人間ーそれはエゴイストの人間であるーのいる所、そこは元来、共同体であるはずの所なのに、利益社会になってしまっている。

共同体、それはゲゼルシャフトに対してゲマインシャフトと言うが、それが本当に成り立つためには、一人一人のうちから利己主義によって特徴づけられる罪が取り除かれなければならない。そのことなしに、本当の共同体は生まれない。ドイツの新しいゲマインシャフト運動として起された教会は、もはやキルへ(英語のチャーチにあたる)とは呼ばないで、ゲマインデと呼んでいる。そこにこそ本当の共同体があると言うわけである。それを成り立たせるものは愛である。