2008年4月20日日曜日

罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生

今日どれほど多くの人が生きる喜びにあふれて生きているだろうか。この生きる喜びというのは、生きていること自体についての喜びだから、いわゆる官能的な喜びとか快楽などとは性質の違うものである。今日多くの人々が、人生にも仕事にも家庭にも喜びを見いだすことができず、快楽にそれを見いだそうとしていることは悲しむべきことである。確かに、快楽もまた生命力の発現であり、賛歌であるわけだが、人間が人格的な存在である以上、その人格から切り離された満足は、いわば線香花火のようにはかないもので、束の間の華々しさでしかない。人格の大切な部分が満たされないままの満足というものは、必ず後に苦いものが残る。「快楽尽きて哀愁を知る」のである。快楽の後の言いようのない倦怠感と空虚感を一度でも味わったことがあるのであれば、そのことは実感として分ることだろう。

生きる喜びというものは、いつでも未来に向かって明るい光であって、そこに希望と信頼の心があるものだ。そのような意味で、あなたは生きているということに喜びを持っておられるだろうか。

また、本当の喜びというものは、利他的な要素を持っている。だから、生きる喜びを持っている人は、ほかの人に対して恨みやねたみを感じにくく、むしろ寛大であることができる。たとい自分よりも幸福な人がいるのを知っても、その人に対して憎しみを抱くようなことがない。というのは、生命が充実しているからである。むしろ、自分がこのように生きる喜びにあふれていることを、当然のこととして受け取ってもよいものかどうかとまどうことさえあるくらいである。

生きる喜びというものは、人生の困難に耐えることができ、困難があっても、それでへこたれてなどしまわず、かえって生きがいを覚えるものである。どんな人でも、自分が何かに向かって前進していると感じるなら、その努力や苦しみも、やりがいのあるものとして受け止めることができ、むしろ生命の充実感を味わうことができる。

このような充実感をあなたは持っておられるだろうか。人間として生きるというこの重要な問題は、必ず一度は考えてみなければならない問題である。これを避けて通ることは、人間として生きることを避けていることにほかならない。