「大丈夫です。大丈夫です」
と叫んでいた船員の言葉がうそのように、水は容赦なく船内に流れ込んできた。
一等船客は、救命ボートに乗り移っていた。その時、二人の日本人の若い女性が病人として連れて来られた。しかし、人々はそれに気がつかぬふりをして、どんどん救命ボートに乗り移っていた。しかし、そこに二人のキリスト教の宣教師がいた。一人はアルフレッド・ストーンと言い、もう一人はディーン・リーパーと言った。彼らは泣いているその女性たちを見ると、見て見ぬふりをすることができず、
「ドーシマシタ?」
と聞いた。救命具のひもが切れたと言って泣いていた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマショウ。」
宣教師たちは自分たちの着けていた救命具を外しながら、こう言った。
「アナタガタハ、スクワレテイマスカ?」
彼女たちは、
「私は助かりたいの」
と叫んだ。宣教師たちはこう言った。
「ワタシタチハモウスクワレテイマス。ケレドモ、アナタガタハ、スクワレテイマセンネ。デスカラ、タスカッタラ、カナラズキョウカイヘイッテ、スクワレテクダサイ。」
そして、自分が乗るべき救命ボートにこの日本の若い女性たちを乗せてやり、自分たちは乗らぬことにした。しかも、自分の救命具までその女性たちにあげてしまった。
突然ガーンという音と共に、船は転覆し、水が船内に流れ込み、乗客の頭から水が覆ってきた。救命ボートに乗り移った人たちが全員助かったわけではなかったが、この二人の女性たちは助かった。その代わり、あの二人の宣教師たちは、千数百人の人々と共に海の藻屑と消えてしまった。この話は、助かった二人の女性が、宣教師たちの最後の言葉通り教会を探し、救いの体験をした後、そのあかしをしたことによって明るみに出た。
だれが、見ず知らずの人のために命を投げ出すことができるだろうか。聖書で、
「人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)
と教えているとおりである。しかし、主イエス・キリストの愛を知った人には、それが出来る。次のように教えられているからである。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちもほかの人のために喜んで自分の命をささげるべきである。」(ヨハネ13:16)
これには、後日物語がある。リーパー宣教師には四人の子供、三男一女がいた。その一人娘リンダは小さくて、父の顔を覚えていない。彼女は十四歳の時、恵泉女学園に半年留学していた。その時、洞爺丸記念の会が函館で開かれるということを知り、函館へ行った。会が開かれるまでにまだ時間があったので、ゆかりの地七重浜へ行ったところ、リンダは案内した人に対して、
「一人にしてほしい」
と言って、まだ冷たい海の中へどんどん入って行き、頭が隠れるくらいの所まで来ると、急に大声を出し、暴れ始めた。
「パパ、なぜ死んだの。パパ、なぜ日本人ために死んだの。パパ、ここに帰って来て。」
両手で水をたたきながら叫び狂ったリンダは、その後一言もしゃべらず、一種異様な様子であったというのである。
やがてアメリカへ帰り、カリフォルニアから次のような手紙が案内した人のところに送られてきた。
「まことに申しわけありませんでした。あの時は本当に失礼いたしました。しかし、ようやく分ったのです。子供のころから、母が父の写真と一緒に枕元に置いてくれていた聖書を、ようやく開くことができました。そこにはこう書かれていました。『人がその友のために命を捨てるほど、大きな愛はありません』(ヨハネ15:13)。私はこの御言葉によって、なぜパパが日本人のために死んだのかが分ったのです。そして、主イエスの愛がそうさせたのだということも。」
そして、リンダは宣教師夫人として、また日本に帰ってきたのである。