2008年12月22日月曜日

憎しみは愛に

1919年に一人のアメリカ人宣教師が日本に来た。その名前はJ・H・コルベと言った。彼は平和主義者であったため、次第に軍国主義化していく日本では、いろいろな面で圧力が加えられ、ついに1939年に日本を追われ、フィリピンへ行かざるをえなかった。フィリピンではパナイ島で伝道活動をしていたが、やがて太平洋戦争が始まり、山中へ逃げていった。1943年に、彼は奥さんのシェルマやそのほか9人の宣教師たちと共に、日本軍に捕えられてしまった。日本軍の隊長は、今ごろアメリカ人がこのような所にいるのはスパイ活動をしているためだと決めつけ、処刑することにした。隊長はこう言った。
「お前たちはこれから処刑されるが、30分だけ時間を与えるから、最後に今生の別れを惜しむがよい。」

こういわれて、コルベ宣教師夫妻は、聖書を取り出し、新約聖書のマタイの福音書5-7章に記されている主イエス・キリストの山上の説教の箇所を一節ずつ交読した。約15分ぐらいかかって、交読した後、二人は祈った。
「もう時間だ。さあ、やめい。」

隊長の号令と共に祈りを中止させられた後、二人は日本刀で首を切られて殺された。

コルベ宣教師の二人の娘マーガレットとアリスは、勉学のためアメリカへ帰国していたため難を逃れた。この知らせがアメリカにいたマーガレットとアリスのもとに届けられると、彼女たちは悲しみに打ちひしがれた。やがて悲しみは憎しみに変り、両親を殺した日本人に対して、いつの日か仇を打ってやろうと思うようになった。しかし、戦時中のこととて、近くに日本人がいないので、すぐにどうのということができずにいた。

毎日、悲しみと憎しみの中で神に祈っていたところ、ある日、祈りながら、ふとこんなことを考えていた。
<両親は日本の軍人に殺される前に祈っていたと言うけれども、一体何について祈っていたのだろうか>

そのことを考え始めると、どうしても二つのことに思い至るのだ。働き半ばして殺されたあのフィリピン人の救いと、両親をその国から追放し、両親を殺した日本人の救いのためだ。そう考えてみると、自分たちの願いと思いが、両親の最後の祈りと全く反対のことであったことに気付かされた。そうは言うものの、そう簡単に憎しみが取り去られるものではない。悶々とした毎日を過ごしているうちに、聖書の御言葉によって、目の前が明るくなる経験をした。
「主は、私たちのためにご自分の尊い命を捨ててくださった。このことによって、私たちは愛とは何かということが分った。だから、私たちも他の人のために喜んで自分の命をささげるべきである」(1ヨハネ3:16)。

そして、マーガレットはこの御言葉通り、日本人に対して愛を示したいという思いが心に湧いてくるのをどうしようもなかった。しかし、近くに日本人がいるわけではなく、なかなかその機会はなかった。ところが、捕虜収容所に日本の軍人がいることを知り、彼女は早速ボランティアとして志願し、日本人捕虜たちの身の回りの世話をすることにした。

捕虜収容所にいる日本人捕虜たちは、マーガレットのことを話題にしていた。ある日、その日の働きを終えて帰ろうとするマーガレットを捕まえて聞いてみた。
「あなたはどうして私たちの身の回りのことをこんなに親切にしてくださるのですか。」

すると、マーガレットは、今述べたような話をして聞かせた。すると、それを聞いていた日本人の捕虜たちには、さっぱり理解できない。日本の軍人たちは、「親の仇は子が討て。子が討てなければ孫の代になっても」と教えられてきていたから、彼女の気持ちなど理解できる道理がなかった。

捕虜たちは理解できぬまま日を過し、いよいよ敗戦後、捕虜交換線で帰国した。この人々を出迎えた人々の中に、かつて太平洋戦争勃発の時、真珠湾の爆撃隊長だった淵田美津雄元海軍大佐がいた。彼はこの話を捕虜たちから聞いたが、さっぱり分らず、マーガレットの人生を変えた聖書を手にし始めた。そして、新約聖書のルカの福音書23章34節の所まで来た時、彼は電気に打たれたかのように感じ、キリストの御言葉に捕えられてしまった。それはご自分を殺そうとする人々のために、十字架上で彼らの赦しを祈られた御言葉である。
「お父様。どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何も分っていません。」

彼は、マーガレットの人生を変えた神の霊によって捕えられ、彼もまた憎しみが愛に変えられて、余生をクリスチャンとして通した。

コルベ宣教師のもう一人の娘アリスは、自分が働いて得た一年分の給料を日本伝道のためにささげたのである。