2007年11月4日日曜日

キリスト教を信じることの利点 2/6

2. 反省心を持つようになり、人生の生き方の方向転換をすることができる

私たちは、キリスト教信仰を持つまでは、悪いのはいつでもほかの人であって、自分は決して悪くはないのだと思い、ほかの人を責めていた。けれども、キリスト教信仰を持つようになると、自分の本当の姿が分り、自分の非を認めることができるようになるのである。

精神的に健全な人なら、だれでも反省心を持つ。だから、精神科の医師に言わせると、まともな人間であるかどうかを判断する一つの方法として反省心があるかどうかを見るのだと言う。だから、まともな人なら、だれでも皆反省心を持っている。しかし、キリスト教信仰を持つと、ただ単に反省心を持つようになるだけでなく、悔い改めることができるようになるのである。

悔い改めと後悔は全く違う。後悔というのは、それがどんなに深い悔恨の念から出ていたとしても、悪かったという思いで留まってしまっているため、決して前進することがない。ところが、悔い改めというのは、それとは違い、今までやっていたことをやめ、方向転換するわけだから、実質的な前進がそこにはある。だから、後悔であるのなら、同じ失敗を何度でも繰り返してしまうのに反して、悔い改めは決定的な方向転換であるため、同じ失敗を何度も繰り返してしまうということはない。

なぜ悔い改めにはそのような効果があるのかと言うと、悔い改めと信仰とは表裏一体の関係にあるからである。今までイエス・キリストに背を向けて歩んでいた人が悔い改めると、その人は生き方の方向転換をするわけだから、今度はイエス・キリストを信じ仰いで生きるようになるわけである。後悔になぜ前進がないかというと、それは背後に信仰という裏付けがないからである。そこに、この両者の間の決定的相違点があるということが言える。

どんなに反省心があっても、悔い改めることができなければ、同じところに留まり続けていて、前進がない。

たとえば、誰かの心を傷付けてしまったような場合、ただ単に自分の心の中で後悔の念を繰り返していたのではだめで、傷付けた人の所に行ってわび、償いをすることが必要である。これが悔い改めの実であり、新しい生き方の結果である。