2008年6月14日土曜日

罪の現実10 - キリストの救い主性

私たちは、皆生れながらにして罪人である。このことは、近代における文学が追求している人間の破局性や、その破局性は教育などによっては決して改善されうるものではないということを見てきた。私たち人類は一人残らず罪人なのである。だから、毎日のように人殺しが行われているし、社会のどこにおいても問題だらけなのである。

前回述べた通り、私たちの罪を身代りに償ってくれる人がいるとしたら、その人自身罪を持っていない人でなければならない。そうでなければ、自分の罪の償いとして死ななければならないからである。自分の罪のために死んでしまうのであれば、ほかの人の罪の償いなどできないではないか。

すべての人類はアダムの子孫として罪人なのだから、アダムの子孫として生れてきた人は、だれ一人として罪を持っていない人などいないのである。それでは、一体だれが私たちの罪を身代りに背負って、その罪の償いをすることができるだろうか。

火星人か。そんな人なら、アダムの子孫として一体である人類とは何の関係もないから、何の役にも立たないことは明らかだ。それならば、最初に人間が造られたた時、罪のない人間として造られたのと同じように、罪のない人間を土からもう一度造ればよいのであろうか。それも、アダムにあって一体の人類とは何の関係もない。

そこで、神は御子イエス・キリストを人間の姿を取って、この世に誕生させられたのである。御子イエス・キリストがなぜ処女降誕されたのかという理由がそこにある。処女だから罪がないというのではない。人間マリヤの胎内に、神が特別に働かれて、罪のない神の御子を宿らせられたのである(ルカ1:35)。

多くの人は、処女降誕を信じがたいと言うが、処女降誕でない救い主こそ信じることができないと言いたい。アダムの子孫として生れながら、罪のないお方であるには、この処女降誕以外のいかなる方法があったろうか。だから、イエス・キリストこそ、私たちの罪を償う唯一の有資格者であるということができよう。

イエス・キリストの十字架上の死こそは、私たちが払わなければならなかった罪の刑罰を身代りに支払ってくださったものなのである(2コリント5:21)。だから、ここにこそ本当の救いがある。人間が罪人であるなら、ここにしか救いはない。