2008年6月22日日曜日

人間をどう見るかが鍵

以前、ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中に彼が記している言葉を引用したことがあった。「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました。」こういう言葉を聞くと、カチンとくる人がいるかもしれないが、実はここのところが、本当に分らないと、クリスチャンにはなれないのである。

どんな宗教でも、一応まともな宗教なら、善いことをするようにと教えるはずだ。オウム真理教のように、無差別に人を殺すことを教えるようなものは、もはや宗教という名にも値しないと言ってよいだろう。宗教というものは、実存的な問題(苦しみ、エゴイズム、死などほかの人に代ってもらうことのできない問題)を扱うものである。損をするとか得をするなどというようなことは、宗教が取り扱う事柄ではない。しかし、とにかく、まともな宗教なら、どれも皆、善いことを行なうようにと教えられるはずだ。

ところで、そのように教えるということは、そのように教えてさえおけば、人間はだれでもそれを行なうことができるはずだという人間観がそこにあるからである。しかしながら、はたして人間は善いことを知ったから、それを自分の力で行なうことができる者なのであろうか。そのことを無視して、問題の解決ははたしてあるのだろうか。

近代における文学を見れば分るように、ごく普通の人がごく普通に行動していって、最後は破滅になってしまうということから分るように、人間は善を知っていても、それを行なうことができない者なのである。それをエゴイストと呼んでもよいだろう。エゴイズムを持っていない人などいないのだから、そこに問題があるのだ。ほかの人を愛さなければならないということは分っているのに、最終的には、ほかの人の幸福よりも自分の幸福を選んでしまう。なんと醜い自分であることか。

聖書では、この醜く、自分さえよければ他の人などどうでもよいと考える人間を罪人(つみびと)と呼んでいる。つまり、善いことを教えられていても、それを行うことができない人間のことである。次のように言われている通りである。
「良心の願いに従いたいという思いは、私のうちにあるのだが、それを実行することができない。私は良心の願いに従うことができず、それと反対のことばかりをしてしまう。・・・私は何という哀れな存在なのだろう。分裂してしまっていて、自分の力では決して善いことができなくなってしまった。死んだようなこの私を、一体だれが救い出してくれるだろうか。」(ローマ7:18-19、24)

このような人間のことを、聖書では罪人(つみびと)と呼んでいる。だから、いわゆるこの世の法律に違反した犯罪人のことではない。それなのに、なぜ罪人(つみびと)と言うのかと言うと、自分の力では自分の今の姿を改善することができなくなってしまった道徳的破産者だからである。それは、神の定められた律法違反者なのである。人の作った法律に違反すれば犯罪人であるのだが、神が定めておられた律法に違反すれば、罪人(つみびと)となる。いずれも共通していることは、違反者であるということである。

人の作った法律の場合でも、それに違反すれば必ず罰せられる。それから救われる道は償いがなされるということである。それは神の律法違反の場合も同じである。償いがなされない限り、罰せられるのは当然である。ところで、神の律法違反の場合、それに下される刑罰は死なのである。そして、それを償うために払われる値もまた死にほかならない。
「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである。」(ローマ6:23)

本人が償いをしようとしても、死んでしまえば、救いはそこにない。

そこで、救われる道としては、だれか第三者の人が身代りに死をもって償う以外にはないことになる。ところで、すべての人は一人の例外もなく罪人だから、自分自身の刑罰としての死を受ける以外にはない。だからと言って、アダムにあって一体の人類以外の者が身代りになることは意味がないわけだから、ここに私たちを罪から救うことのできる人というのは、アダムの子孫として生まれて来た人であり、同時に罪のない人以外にはないことになる。その二つの相矛盾する条件を満たす救い主こそ、神が人となってこの世に来られた神の御子イエス・キリスト以外にはない。

永遠の神の御子は、私たちを罪から救うために、処女マリヤの胎内に罪のない人間として宿られた。なぜ救い主は成人した形でこの世に現われなかったのかと言うと、私たちは母の胎内に宿るところから罪人として存在するので、救い主はそこから罪のないお方としてこの世に存在される必要があったのである。
「神は、罪を知らないお方キリストを、私たちの罪の身代りに十字架上で罰せられた。それは、私たちがキリストを信じることによって救われるためである。」(2コリント5:21)