2008年6月4日水曜日

祈りについて2

祈りというものは、私たちの霊の深いところからの自然の発言なのだが、本当の祈りというものは、だれにでも自然に出来るものなのか、それとも、ある特別にすぐれた人とか、ある特別な賜物を与えられている人でなければ出来ないものなのだろうか。聖書はこう教えている。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ話している時に、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)

祈りは霊の呼吸であると言われる。これは私たちが普段している呼吸から祈りを考えるように促している。私たちに必要な空気は私たちの周りにあって、大気の圧力として私たちの肺の中に入ろうとしている。だから、私たちは呼吸器を開きさえすればよいのだ。むしろ、呼吸を止める時には努力を必要とする。そして、空気が肺の中へ入って来れば、私たちの体は新しい命に溢れるようになる。

ちょうどそれと同じように、私たちの霊に必要な神は、私たちの問題をご存じであり、私たちを助けようとして、すぐそばにおられるのだ。だから、私たちが心を開きさえすればよいわけである。神は私たちを助けることを願っておられ、拒まなければ、どこにでも入って来られ、渇ききった心に潤いを与え、疲れた心に休みを与え、どんな必要も満たしてくださる。

このように、祈りにおいては、私たちの熱心が神を動かすのでもなければ、私たちの力が神を通してほかの人を動かすのでもない。祈りにおいて大切なことは、私たち自身の無力さの自覚である。自分の問題に対して、自分ではどうすることもできないのだという自覚、つまり自分の弱さの自覚が必要なのである。強い者が祈りの力を行使できるのではない。自分の力のなさ、弱さを自覚している者でなければ、どうして神の助けを必要とするだろうか。そして、それがまた信仰者の根本的な姿勢でもあると言うことができる。
「健康な人には医者はいらないが、病人には医者がいります。・・・わたしは自分で正しいと考えている人を招こうと思って来たのではなく、罪人であることを自覚している人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)

助けを必要とする病人だけが医者の所に来るのと同様に、霊の助けを必要としている罪人だけが、霊の医者であられる神のみもとへ行くのである。そして神のもとへ行くこと、これが信仰にほかならない。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著「ほんとうの祈り」(いのちのことば社)を参照されたい。