2008年6月10日火曜日

祈りについて3

祈りにおいて大切なことは、本当に神との会話になっているのかということではないかと思う。神との会話になっていない祈りであれば、それは独り言にすぎないことになってしまう。つまり、から回りの祈りなのである。それでは、いくら祈っても何の手応えもなく、自分自身何も変ることはない。それは、むなしい祈りであって、時間の浪費でもある。信仰生活において力をまだ一度も体験していないとしたら、おそらく祈りが問題なのだろうと思う。

そういう人の祈りは、いつしか形式的なものになり、信仰生活も形骸化していって、何かあった時、何の力もない無力な生活であるだろう。それは、本当の信仰生活ではない。何か大変なことが起っても、信仰によってそれを乗り越えることができず、形の上だけの信仰生活を送っているにすぎない。そういう人は、神が生きて私たちの生活に働いてくださるのだということを知らないから、何かがあっても、神によって解決していただこうという心が起きないだろう。

たとえば、自分の子供が交通事故に遭った時、まず祈って神の助けを頂こうとするのではなく、すぐ119番に電話をして救急車を求めたり、人の助けを得ようと奔走するかもしれない。もちろん、一刻一秒を争う時、119番にすぐ電話を掛けるのがいけないわけではない。しかしその時でも、神の助けを求めて祈りつつ電話をするのと、神のことよりも救急車の助けを第一に考えてしまう、日ごろの信仰生活がそこで問われるのである。

祈りを分類すると、次のようになる。賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くこと。ところで、これらの祈りが、それぞれ本当の賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くことになっているためには、大事な一つの前提条件がなければならない。それは、神の御前に出て、神とお会いしているということだ。そこで、私は祈りにおいて最も大切なものは、神とお会いするために、神を待ち望むことだと申し上げたい。

神とお会いしないうちに祈り始める人は、独り言の祈りだが、独り言の賛美や、独り言の感謝や、独り言の告白がいかに多いことか。神がそこにおられないのに、神への賛美をささげている。多くの人が礼拝でささげる賛美もこれではないだろうか。曲だけを気持よさそうに歌っている人、賛美の歌詞の字づらをただ追っている人などは、まさしくこれに属するのではないだろうか。