2008年6月7日土曜日

罪の現実9 - 罪の性格

近代における文学が追求している人間性というものはなぜ破局性を持っているのかと言うと、それはエゴイズムの問題なのだと言った(文学が示している人間の破局性(3))。またその人間の破局性は、決して教育などによって変えられるものではないとも言った(教育によって改善できるか)。人間は生れながらにして、この破局性を身に帯びている。これを、聖書では罪と言い、人間が罪人であるとは、そのことを言うのである。

しかし、罪人と言うと、多くの人はこれに抵抗を感じる。とういうのは、罪人という言い方は、犯罪人を連想するからだと思う。しかしながら、罪人と犯罪人とは全然違う。犯罪人というのは、法律を犯す人だから、法律によって罰せられ、時と場合によっては刑務所に行き、前科者と呼ばれなければならない。それに反し、罪人はごく普通の人である。けれども、よく考えてみれば分るように、私たちの心の中には、善からぬ考えがある。主イエスは、憎しみが人殺しの罪を起し、貪りが盗みや姦淫の罪を起すと教えておられるように、私たちの心の中には、人殺し、盗み、姦淫の予備罪とでも言うべきものがある。そういう事態に陥らなかったがために、犯罪人にならなかったにすぎないのではないか。

だから、罪人と犯罪人とは決して同じではないけれども、全然別だとも言いきれない。法律では、こう言う考え方をするものである。罪というものは、罪を犯した人がその償いを完了するまでは、その人に対して力を持って迫ってくる。そういうわけで、だれかに対してひどいことを言ったり、してしまったような場合、どうしてもそれが心に刺さっていて眠れないことがあるだろう。その相手の赦しを得るまで、心に平安はないのである。

ところで、聖書が教えているところでは、罪が支払わなければならない値は死であるというのだから(ローマ6:23)、これでは、私たちの助かる見込みはない。だから、本人ではなくだれか第三者の人が私の身代りに死という償いの値を支払ってくれなければ、私たちの助かる見込みはゼロということになってしまう。

そんな人がいるだろうか。しかしいたのである。それこそイエス・キリストにほかならない。「しかし、私たちは正しい人間でも、だれかに恩顧を与えているような人間でもなく、罪人にすぎないのに、この罪人のために、キリストは死んでくださった。このことによって、神は私たちに対する愛をいかんなく現されたである。」(ローマ5:8 現代訳)。