2007年7月11日水曜日

思い煩いの処理法

思い煩いも厄介な問題である。人によって思い煩う事柄は違う。ある人は,経済的な問題で思い煩うかもしれないが、ほかの人は対人関係の問題で思い煩う。ある人は、入試や入社の問題いで思い煩い、ほかの人は失恋で思い煩う。また別の人は、事業の失敗や失職で思い煩い、ほかの人は病気のことで思い煩う。人によりその対象は違っていても、だれでも何らかの形の思い煩いというものを持っている。

人が思い煩うのは、自分が全知全能ではなく、自分の思った通りにいかなかったためであることが多い。要するに、自分の足りなさと、自分の思い通りにいかなかったというかなり自分中心の考え方に原因がある。

ところで、思い煩いというものは、現在の苦しみや、将来への不安など、自分の思いを、ああでもない、こうでもないと決めかね、心を千々に砕くことである。

こうした思い煩いの解決法について、聖書はその至る所で教えているが、その代表的な箇所が次のものである。

何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるがよい。そうすれば、私たちの常識を超えた神の平安が、キリスト・イエスによって、あなたがたの心と思いを守ってくださる。(ピリピ4:6-7)

ここで教えられている解決法は、思い煩わざるをえないことが起こってきたら、それを率直に神に申し上げるということである。思い煩いというものは、自分の弱さと利己主義から発しているものであって、自己中心的な空転になりがちである。そのために、いつまでたっても、そこからは解決が見いだされないのである。そこで、私たちの心の中にある「思い煩い」の原因になることも、心の中のモヤモヤも、すべてを神に申し上げるのがよいのだ。これが祈りなのである。

私のうちにある「ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようか」と考える心の分裂ーそれが思い煩いなのだからーをそのまま神に申し上げる時、神は私たちの心に、統一を与えてくださる。その心の統一こそ「平安」なのである。常識の枠を超えたことが起ってくる時、思い煩うのだが、神にありのままを申し上げる時、神はその常識の枠を超えたところにおいて、心に平安を与え、解決してくださるのである。