2007年7月28日土曜日

死の恐れの解決

だれもが死を恐れる。それは、どんな人でも、死後、生前の善悪についての総精算があって、神に裁かれるのではないかということを知っているからである。聖書もそう教えている。「人間は、だれでも一度は死に、死後裁きを受けなければならないことが決まっている」(ヘブル9:27)。また、「あなたの神に会う備えをしなさい」(アモス4:12)とも勧められている。神に会う備えとは、死への備えのことである。死後、私たちは皆、神の裁きの座の前に立たされる。その準備のできていない人は、いつまでも死に対する恐れを持ち続けなければならないだろう。

確かに自然的な死がある。この世に存在しているものには、初めがあり、終りがある。しかし、最初の人アダムが罪を犯した時、それ以来、人間の死には、自然的死のほかに、罪の刑罰としての神の呪いという意味が加えられるようになった。だから、死は恐ろしいのだ。もしも自然的な死だけなら、苦しまずに死ぬという方法でそれを行うことに何の躊躇も感じないだろう。しかし、人は皆死を恐れる。死後の裁きによって、神の呪いを永遠に受け続けなければならないからだ。

しかし、神の呪いは死後だけにあるのではない。すでに罪を犯している現在、私たちの上にのしかかってきている。何が善であるかを知っているのに、その善を行わないで悪を行ってしまうのは、私たちが罪の奴隷だからだある。自分さえよければよいと考えるエゴイストの現実も、対人関係において苦しまなければならないのもそうだ。

私たち人間にはどうすることもできない死の問題は、一体どうしたら解決できるのだろうか。罪を持っている私たちは、皆罪の呪いの下にあって、死の恐れを抱いている。しかし、私たちには死の解決者、勝利者がおられる。それがイエス・キリストである。一度は死なれたが、その死に勝って復活された。このお方を信じることによって、私たちもまた死の恐れに打ち勝ち、勝利者となることができる。

このように神の子どもたちは皆、人間として肉体を持っているので、イエスもまた同じように肉体を取られた。それは、人間として死ぬことにより、死の力を持っている悪魔の力を滅ぼし、一生涯、死の恐怖に取り付かれている人々を解放するためである。(ヘブル2:14-19)

参照「死への備え」(いのちのことば社)