2007年7月21日土曜日

科学的真理と宗教的真理

科学的真理は、だれでもそれを認めるのに、宗教的真理になると、それを認める人と認めない人に分れてしまう。それは、宗教的真理が明瞭でないからだと早合点する人がいるけれども、そうではない。前に「二つの認識法」について述べた時、科学的認識法というのは、自分たちの前に置かれた事柄を、客観的に見たり観察したりするわけだから、比較的事柄が一致しやすいという特徴を持っている。しかしながら、宗教的な認識法ということになると、そこへ飛び込んでいく方法以外にないので、客観的な普遍妥当性がつかみにくくなるということを説明しておいた。しかし、宗教的真理はこの方法以外に認識することができないとも言った。そのことをもう少し別の角度から考えてみたいと思う。

科学的真理の場合、それを頭で認めさえすればそれで済む。しかしながら、宗教的真理ということになると、それを頭で認めさえすればそれで済むわけではなく、そこに価値判断が入って来て、自分の生活に直接関わってくるから、それを認めてしまうと、今のままの生活をそのまま続けていくことができなくなる場合には、認めたくないという極めて利己的な要素が入ってくることになるわけである。

具体的な例を挙げると、1足す1は2ということは、ただ頭で認めればそれで済むということだが、宗教的真理になると、そうはいかない。人間が罪人であるということは、人間一般が罪人であることを認めればそれで済むということではない。むしろ自分が罪人であるということを認めなければならないことで、そうすると、このままでは罪人である自分は滅んでしまうわけだから、滅びたくなければ、悔い改めて、主イエス・キリストを信じなければならないはずだ。つまり、今の生活をそのまま続けていくことはできないわけで、そこにそうしたくないという利己的な思いがからんできて、その真理を認めたくないということが起ってくるのである。

多くの人が、「キリスト教が善いのはよく分っているのですが、キリストを信じたら、もう悪いことはできなくなってしまうので、信じたくないのです」と言う。つまり、今のままの生活をし続けることができないがために、信じたくないのである。極めて利己的な価値判断が入って来るから認めたくないのであって、宗教的真理を受け入れたくないだけなのである。しかし、最後は滅びであるのに。