2007年7月14日土曜日

奇跡が信じられない

多くの人々は、聖書の中に出てくる奇跡が信じられないという。というのは、奇跡を認めたら、自然法則はどうなってしまうのかと言って心配するのである。

そういう人々の考えは、奇跡を自然法則に反するもの、つまり反自然と考えているのである。しかしながら、奇跡は反自然ではない。超自然なのである。

神は全世界を創造された後、摂理の御業によってこの世界を動かしていかれた。摂理の御業というのは、神の直接的な介入ではなく、自然法則のようなものによって間接的に働かれることを意味する。しかし、神はある特別な目的を遂行されるために、創造の御業によって、直接介入されることがある。それが奇跡なのである。

しかしながら、奇跡というものは、全能の神の気まぐれな行為によるものではなく、全能の神のある目的遂行のためになされるものである。その目的とは、言うまでもなく、人間の救いである。私たち人間の救いのために、神は奇跡をなさった。だから、聖書に記されている奇跡は、神の気まぐれな御業なのではなく、救いという目的に向っての神の特別な御業なのである。

神は、私たち人間を救うために、その尊い御子をこの世にお遣わしになった。永遠の神の御子が、時間の世界に入って来られたのだ。無限の神の御子が、有限の世界に入って来られたわけである。絶対者であられる神の御子が、相対性の世界に入って来られたのである。このこと自体が奇跡である。だから、主イエス・キリストがご降誕される時の処女降誕も、その地上生活において、子供一人分の弁当を2万人以上の人に食べさせた奇跡も、水の上を歩かれたことや、病人を癒したり、悪霊につかれた人から悪霊を追い出されたり、死人を生き返らせたことや、また、十字架上で死なれた後、死人の中から復活されたということにしても、そこに奇跡が伴うのは当然のことでなければならない。

そういうわけで、この奇跡の記事を合理化して、ある教訓の象徴的記述であるとしたり、科学的に説明しうる方法を考えたりすることは、全く的外れであると言わなければならない。奇跡は、そのまま奇跡として受け取り、信じなければならないのである。