2007年7月1日日曜日

二つの認識法


何もかもすべてのことが理性だけで分るのだと考えている人がいるけれども、そういう科学万能主義者は、理性の限界を知らない人の間違いに気付いていない人である。理性の限界とは、また科学の限界でもあって、私たちが物事を知る場合、それには、二つの認識法がある。

フランスの哲学者ベルグソンは、「形而上学序論」(みすず書房)の中で、そのことを説明している。一つは、対象の周りをめぐる仕方であり、もう一つは対象の中に飛び込む仕方であると言っている。前者の方法は、科学の認識法であるのに対して、後者の方は、宗教における神の認識法であると言っている。

同じフランスの哲学者ガブリエル・マルセルも同じようなことを言っている。言い方はベルグソンと違っているが、第一の認識のことを「問題の認識」と言い、第二の認識のことを「神秘の認識」と言っている。これは、彼の「形而上学的日記」の中に記されている。

彼によると、「問題」というのは、自分の存在から離れて、自分の前に投げ出されてあるということなのである。「問題」つまりプロブレムという英語は、ギリシャ語のプロブレーマから来たもので、「前へ」という意味のプロと、「投げる」という意味のバローという二つの言葉が結び付いたもので、マルセルは自分の存在と関係ない事柄を表すのに、この「前に投げ出されている」プロブレムという言葉を用いたわけである。この問題という領域において事柄を認識する時には、すべての人の認識は一致することができるから、いわゆる普遍妥当的な真理というものが成り立つ。たとえば、一と一を足せば二であるとか、三角形の内角の和はニ直角であるというような、人間の存在と無関係な、「前へ投げ出されている」問題の領域の事柄を知るには、知性は実に透明で曇りがない。

ところが、「神秘」となるとそうはいかない。「神秘」というのは、マルセルの言葉で言えば、「自分自身が可能であるための内在的な条件を侵蝕するような問題」だからなのである。しかしながら、神を認識しようと思えば、この神秘の認識、つまり飛び込んでいく以外には決して認識することができないのである。

今日の日本人の多くは、問題認識には慣れていても、神秘の認識、つまり飛び込んでいく以外にない認識、この信仰の認識を全く知らない。