2007年8月22日水曜日

実存的問題-苦しみ 3/4

確かにこの世の中には不条理な苦しみはいくらもある。私は多くのハンセン病患者の友人を持っている。そのうちの一人について記そう。

その人は、小さな子供の時に、ハンセン病だということが分った。そのことが分ってから、どの店もその一家には何一つ物を売ってはくれなくなった。不治の病ハンセン病にかかったら大変だという気持ちもあり、伝染病であるハンセン病患者の出た家のお金は受け取らない。そのため、その一家は生きて行くためにはその子をハンセン病療養所に入れて自分たちとも全く縁を切り、自分たちも遠い所へ引っ越して行かなければならなくなった。

その子は東北新生園という療養所に入れられた。小さい子供ながら、親兄弟から捨てられた悲しみは、何にもたとえようがない。しかし幸いにして、そこの人たちは、同病相憐むということもあって、その子をかわいがってくれた。しかし、親と別れた悲しみは、何によっても癒されがたいものだった。その子供は次第に人を信用できなくなった。けれども、よく面倒を見てくれる人たちはクリスチャンで、その関係で教会学校へ行くようになった。みんな親切にしてくれた。でも、主イエスを、そう素直に信じることはできなかった。

それから何年か経ち、ふとあることを考えてみた。親兄弟も忌み嫌うこのハンセン病療養所に、毎週やって来る人がいる。医師でも看護士でもないその人は、一つも嫌な顔はせず、せっせと足を運んで来る。そしてキリストの救いについて熱心に語り、人々を救いに導くのだ。どうしてだろうと考えた時、この人の説くイエス・キリストこそ、きっと本当の救い主にちがいないと思って信じたというのだ。こうして、今では親兄弟に対する恨みもなく、変形してしまった指や足を持ちながらも、五体満足にそろっていてなお悩みを持っているこの世の人々に、せっせと手紙を書いては、その人々に生きる希望を与え、励まし、力づけているのである。

確かに、ハンセン病患者も不条理な苦しみを味わっている人々だ。しかし、彼らが不条理な苦しみを味わっているというのなら、罪のない神の御子イエス・キリストが十字架上で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったこと以上に、不条理なことはないだろう。まさにイエス・キリストの十字架上の死こそは、不条理の極致と言うべきであろう。どんな苦しみにも意味と目的がある。神が私たちにお与えになるもので、意味も目的もないものなど一つもない。