2007年8月25日土曜日

復活は本当のことなのか

復活と生き返りは違う。生き返りは、また死ぬ体に生き返るのだが、復活は二度と死なない霊的体によみがえるのである。

イエス・キリストの場合、それは生き返りではなく、復活である。主イエスを葬った墓を訪れた弟子たちは、墓がからっぽだったことを知った。葬った墓がからっぽであったということは、可能性としてだれかが主イエスの死体をどこかへ運んだことになるだろう。その可能性として考えられるのは、主イエスに敵対していたユダヤ人議会か、それとも主イエスの弟子たちか、それとも中立の立場のローマの兵隊しかありえない。

ユダヤ人議会の中のだれかがもしも主イエスの遺体を運ぶことに何らかの目的があったとしたら、それは筋が通るだろう。主イエスは三日目に復活すると言っておられたから、その時、自分たちがその遺体を持っていることを示せば用が足りるということだ。ところが、主イエスが復活したということに対して彼らはなすすべがなかったのだから、これは可能性ゼロである。

次に、弟子たちが持って行ったということについて考えてみよう。彼らが青ざめた主イエスの遺体を持っていたとしたら、彼らは主イエスが復活したとうその宣伝をしたことになる。うそのために殉教の死を遂げる者があるだろうか。

次に、中立の立場にあるローマ兵が主イエスの遺体を運び去ったというのであるが、何のためにこんなことをしたのか。彼らが騒擾罪を鎮めるというのなら話は別だが、わざわざ起こすということがありえようか。

そこで、次に主イエスの弟子たちが訪れた墓を誤っていたと説明しようとする人たちがいる。しかし、私有の墓であり、38時間前に行った墓をだれが間違えることがありえようか。

それだけではない。パウロは復活した主イエスが500人以上の弟子たちに同時に現れたと書いている(1コリント15:6)。しかも、その中の大多数は、いつでもそのことの証人に立つとまで言っている。幻覚症状というものは、いつも個人的であって、500人以上の人が同時に幻覚症状になるということなどありえない。

そういうことになると、主イエス・キリストは復活したとしか考えようがない。初代教会の歴史は、キリストの復活を抜きにしては、到底説明することができないのである。