2007年8月19日日曜日

天国は本当にあるの

「天国」と言うと、ある人々は、どこか場所のことだと考えがちだが、そうではない。「宇宙のかなた」、つまり普通「天」と呼ばれている「大空」のどこかにあると思っている人がいるかもしれないが、そうではない。「天国」と記された言葉は、また「神の国」のことで、「国」と記された言葉は、元々「支配」という意味だから、「天国」とは、「神の支配されるところ」である。

「神の支配されるところ」というのは、決してどこかの場所ではない。そう言うと、十字架に掛り、復活し、昇天されたイエス・キリストは、空中高く上って行かれたではないかと思われるかもしれない。しかし、私たちは超時間的、超空間的な存在を上空間的に意識するという観念を、生まれながらにして持っている。たとえば、ホワイト・ボードに字をかく場合、「神ー人」というふうに、神を上に、人を下にして書けば別に何でもないが、これをもしも「人ー神」というふうに、人を上に、神を下にして書けば、何だかそれに引っ掛って、後の話は頭によく入らないだろう。私たちのこのような生まれながらの観念を満足させるために、主イエス・キリストは上に上って行かれた。もしもそうせずに、主イエス・キリストがその場で姿を消してしまわれたら、人々は幽霊か何かではないかと思ったろう。だから、ある程度まで上空に上られると、雲によってさえぎられて、主の御姿は人々の視界からは見えなくなってしまった。

これは、ほんの一例だが、「天」とは、「大空」のことではなく、神の御座である。その神の御座である「天」は、この「世」と対比される。この両者は場所的な意味で言われているのではなく、倫理的なものである。だから、「ここも神の御国なれば・・・」と賛美歌にあるように、次元が違うだけで、神の国は今ここに存在しているのである。

私たちが神を信じ、神に服従すると、神の支配は私たちの心の中にも始まる。主イエス・キリストが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われたのはそのことである。これはまだ、イエス・キリストを信じる者たちのうちに存在している霊的現実にしかすぎない。神に敵対する勢力が滅ぼされ、新天新地が出現するのは、イエス・キリストの再臨の時だ。その時、今は霊的現実にすぎない神の国が、すべて目に見える現実となるのである。