2007年8月12日日曜日

なんのための教育

今日、教育と言うと、かなり偏ったものを教育と考えているように思われる。教育の本質は人格教育であるはずなのに、知的偏重の教育が行われているし、しかもそれが上級学校への受験勉強という教育なのである。このようなものをいくら子供に教えても、偏った知識を身に着けるだけで、健全な人格形成はなされない。その上、上級学校への受験準備の教育では、友情が育つわけがない。ほかの人が皆敵に見えてくる教育しかできないのである。自分さえよければそれで良いというエゴイストの人間は育っても、愛と信頼による人格形成を期待することはできない。

教育の本来の目的は、人格形成にある。それでは、どのような人格形成をしていったらよいのだろうか。一言で言えば、神が目指しておられる人間の人格である。罪によってむしばまれた人間は、結局、自分さえよければそれでよいと考えてしまう。このような歪んだ人格が、ほかの人々を愛し、ほかの人々のために喜んで自分を犠牲にし、奉仕をするような高貴な人間になっていくことを願わなければならない。

私たちは、みんな違った性格を持っている。その違った性格は何によって決定されされるのだろうか。

まず第一に、遺伝を挙げることができる。生まれながらに持っている性格がある。それは遺伝である。

次に、生活環境を挙げることができるだろう。その子供がどういう所で育ったかということである。孟母三遷の教えではないが、教育環境の善し悪しは、確かに大きな影響がないとは言えない。しかし、もしもこの二つだけですべてが決まってしまうのだとしたら、私たちが子供の教育についてできることは、たかだか優秀な親から生まれた子供に、善い環境を作ってやることしかない。

しかし、人間は、それだけですべてを決定してしまうものではない。すでに述べた遺伝と生活環境のこの二つの要素に対する本人の反応である。この反応が好ましいものであるようにするところに、教育の働き、教育の可能性があるわけである。

汚い泥沼の中にも、美しい蓮の花を咲かせられる神は、人間的には絶望と思われるようなところにも、働き続けておられる。神があきらめておられないのに、私たちがあきらめてしまうことなどどうしてできるだろうか。参照「父親の責任・母親の責任」(いのちのことば社)。