2007年9月8日土曜日

救いとは何か 2/2

人間の良心は、罪を犯し続けることのよって鈍感になっていってしまう。だから、ある人が罪を感じることも、別の人は罪を感じないこともありうるわけで、良心は必ずしも絶対的な基準とはなりえない。それならば、どこかに絶対的な基準があるはずなのだが、神が持っておられる物差こそ、その基準となるべきものである。その物差とは聖書のことであり、聖書という基準に照らしてみる時、だれ一人として罪を犯していない人はいないのである(ローマ3:10, 12)。

私たちが持っている問題の根源を罪と言うのは、法律上の犯罪と一つの共通点があるからだ。罪というものは、それを犯した人に対して償いを要求する力を持っている。罪人はこの償いを果すまで、この力に支配されている。この力が効力を失うのは、償いが果された時か、罪人が死んでしまった時だけだ。私たちが法律上の犯罪を犯さなくとも良心的呵責を覚えることがあるのは、この力のためだ。

この罪が要求する償いを果さない限り、私たちは自由になれないはずだが、私たちにそれを果すことができるのだろうか。聖書によると、罪を犯した者は死をもって償わなければならないから(ローマ6:23)。自分で償いをしようとすれば、死をもってしなければならず、それでは解決にはならない。そこで、私たちの罪の解決のためには、だれか第三者が身代りに償いをしてくれる以外にはない。

しかし、その人はだれでもよいというわけにはいかない。その人自身罪を持っていない人でなければならない。そんな人がいるのだろうか。たといいたとしても、そのような人が私のような者のために身代りに償いとして自分の命を捨ててくれるということがありうるのだろうか。

けれども、そういうお方がいた。それは、神が人の姿を取ってこの世に来られたお方、イエス・キリストである。イエス・キリストは、この世の中で唯一人罪のないお方だった。そして、私たちのような者の罪を背負って、十字架上で償いの死を遂げてくださった。こうして、私たちの罪の償いが果されて、私たちは罪から自由になることができた(2コリント5:21)。

キリスト教の救いが、他のいかなる宗教の救いとも異なるのは、まさにこの点である。自分の力で善いことができなくなってしまった者を、キリストが救い出してくださるのである。