2007年9月25日火曜日

実存的問題-エゴイズム 4/4

エゴイズムと聖書で言う「罪」とは、必ずしも同じではない。しかし、「罪」と言っても多くの人は分らないと思うので、エゴイズムと言っておいた。これならだれにでもよく分るだろうと思う。それほど聖書で言う「罪」は分りにくい。エゴイズムという言葉を使うと、だれでも自分がいかにエゴイストであるかということを知っているから、それを自分のこととして考えることができるだろう。

ところで、本質においては、この両者は同じなのである。だから、そういうことが分ると、自分が罪人なのだということも分るだろう。罪人は生れながらにして破滅性を持っている。文学は人間を帰納的に追求し、人間の破滅性を描いているが、聖書は演繹的に人間の破滅性を断言している。

罪は人間関係を破壊してしまう。それは自分さえよければそれでよいと思うエゴイズムがそこにあるからである。表面的なつき合い程度のものはそこにあっても、心と心の通い合う交わりを持つことができないのは、そのあたりに本当の事情が存在しているのである。

罪はただ単に人間関係を損なうだけではなく、本来私たち人間を造ってくださった神との関係も損なうことになるのは当然のことである。私たちが私たちの作り主である神から離れた生き方をしているのもそのことによる。

人間は特別に無神論の教育を受けなければ、だれでも生まれながらにして無神論者であるものはいない。ただ罪のために、造り主である本当の神から離れてしまっているので、本当の神が分らなくなっている。神から離れた人間は、神なしで生きていくことができないので、何かを神として拝む以外にはない。目に見える偶像を人の手で作って拝んだり、目に見えない思想を一種の偶像として、それ心を寄せている。しかし、本当の神ではないので、生きる力を与えてはくれないのである。

生みの親を無視する子供がいたら、その親はどんなに悲しむことだろうか。本当の造り主である神がおられるのに、そのお方を無視し、偶像崇拝をしていたら、生きておられる本当の神はどんなに悲しんでおられることだろうか。

偽札が出回っているということは、本当に価値あるお札がただ一つだけあるように、いろいろな宗教があるということは、本当の神がただ一人だけおられ、そのお方は比類を見ないほどすばらしい神であるはずだ。そのお方に背を向けているということこそ罪の本質なのである。