2007年9月19日水曜日

実存的問題-エゴイズム 3/4

聖書では、「罪」のことを「的外れ」と呼んでいる。それは、神が私たち人間をお造りになった時、このような生き方をするようにとお決めになった道、つまりそのように生きれば本当の幸福が与えられ、命の充足を得ることができる道から外れてしまい、いくら努力しても、そのような目標に到達できないような生き方のことである。エゴイストのことを、そういう意味で、「的外れの人」つまり「罪人」と呼ぶのである。

有島武郎は、「惜しみなく愛は奪う」を書いた。その中で彼は次のように言っている。
「私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを付することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。而して交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから、更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己の中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。而して己れをのみだ。」

これは、彼の43才の時に書かれたものである。彼のこれほどまでに徹底した自己本位の生き方は、彼の人生に真に充実した意味を与えてくれただろうか。いや、彼はついに虚無の世界に転落していかなければならなかった。

エゴイズムの罪は、神の定めておられる人間の人間としての道から外れているので、ついに目標に到達することはできない。破滅である。人間はそういう破滅性を持った罪人なのである。これは、自分の力ではどうしようもなく、自分の力でそれから抜け出すことはできない。それが破滅性ということなのである。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とは、そのことを言っている。

そういう罪人を救うために、神は御子イエス・キリストが天から降りて来られたのである(1テモテ1:15)