2008年5月24日土曜日

罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)

芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。

この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性の完全な喪失ということになる。

「僕には人生の目的が何であるかわからない。友達とも、人生の目的は何かということで議論したが、皆の出し合った意見の中で、心から納得できるものは一つもなかった。自分は現在何のために勉強しているのかさっぱり分らない。」

「人生て何だろう。人生には果して目的があるのだろうか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてきたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまで生きている、ただそれだけのことではないのか。もしもそうだったら、何もこんなに苦しみながら死を待つ必要はない。さっそく三原山かクリスマス島へでも行った方がよい。」

この作品の中で、罪のアトニム(反対語)ごっこという遊びをするのだが、その会話の中で、罪の反対語がついに見付からなかったことだ。罪の反対語として法律を持ち出したり、善を持ち出したり、神を持ち出したり、救いを持ち出したり、愛を持ち出したり、光を持ち出して来て、結局分らないのだ。罪の実体が分らなかったというのが、太宰治の本当のところだったように思われる。

太宰治や坂口安吾や織田作之助という一連の作家の文学のことを、可能性の文学と呼ぶ。それは、彼らの作風が、一様に落ちる所まで落ちて、そこからどこまで上がって来ることができるかに、人間の実力の可能性があるということを問題にしているため、このような呼び方がされる。

ところが、この可能性の文学と称せられる一連の文学者は、どういう足どりをたどったろうか。太宰治はついに心中をしてしまうし、坂口安吾は、催眠薬中毒のため東大の神経科に入院してしまうという具合で、最後は皆破滅で終っている。このことは、人間のうち側にあるものの破局性を示しているとは言えないだろうか。