2008年3月23日日曜日

人間はなぜ幸福でないのか7 - エゴイズムがあるから(2)

芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」という作品を書いて、人間のエゴイズムの問題をえぐり出すようにして描いている。自分だけが助かればよいという人間のエゴイズムが、いかに恐ろしいものであるかということを、この作品は私たちに訴えている。

ある日のこと、お釈迦様が極楽の蓮の池のふちをふらふら歩いていて、ふと下を見ると、蓮池の下の地獄で、かん[牛偏に建]陀多(かんだた)という男が、ほかの罪人と一緒にうごめいているのが目に留まった。このかん陀多という男は殺人をしたり放火をしたりした極悪人なのだが、それでも一つだけ善行をしたことがあった。それは、ある時、深い森の中で、小さな一匹の蜘蛛が路ばたをはっているのを見かけたのだが、かん陀多はその時、足を上げて踏みつぶそうとしたのに、ふと、これも小さいながら命あるものに違いないから、と思い返して、その蜘蛛を助けてやったことがあった。お釈迦様はそのことを思い出して、かん陀多を地獄から助けてやろうと考え、極楽の蜘蛛の糸をそっと地獄へ下ろしてやる。地獄の苦しみの中からその蜘蛛の糸を見つけたかん陀多は思わず手を打って喜び、その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐって登って行った。そして、やっと地獄から抜け出すことが出来そうになった時、ふと下を見ると、数限りもない罪人たちが、自分の登ってきたあとをつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一心によじ登ってくるのだ。自分一人でさえ切れそうな細い糸なのに、そんなに沢山の人がすがりついたら、きっと糸が切れてしまうにちがいない。そうすれば、折角ここまで登ってきた自分までもが、また元の地獄に落ちてしまわなければならない。とそう思ったかん陀多は、大声を出して叫ぶのだ。「こら、罪人ども、この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ。」すると、そのとたんに蜘蛛の糸はプッツンと切れて、かん陀多は再び地獄の底に落ちてしまったというのだ。

「自分さえ」というエゴイズムこそ、私たちの人間のありのままの姿ではないだろうか。初めのうちは対人関係の中で相手が悪いと言ってほかの人を責めるのだが、そのように相手を責め、自分への責任を回避しようという責任転嫁と自己弁護の中に、自分のエゴイズムがのぞいているのではないだろうか。