2007年12月22日土曜日

人間として生きる2 - 人間は一人では生きられない

「人間」という言葉を、普通の辞典で引くと、まず「人」のことと書いてあり、次に、「世間」とか「社会」のことだと書いてある。ところで、言葉をもう少し専門的に扱う「大言海」などでは、「誤って人のことを言う」と書いてある。つまり、元来、人間というのは人のことではなく、社会、世間のことだと言っている。つまり、人間とは人と人との間のことだと言うわけである。それがどうして人の事を指すようになったのかと言うと、それは、人間というものが一人では成り立っていかないということを表しているからである。表意文字である漢字を見ると、人とは二人の人が互いに支え合っていることを表している。これは非常に重要なことである。

聖書では、人間が最初に造られた時、神の形に似せて造られたと教えられている。「神の形」にはもっと他の意味もあるが、その一つは「人格」を持っているということである。人格を持っているということは、もう一つの別の人格とのコミュニケーションを可能にするだけでなく、それなしには成り立たないということも意味する。

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーバーが、「わたしとあなた」という本を書いて、人間が人間として生きるには、この関係が根本であると言っている。

この世のつき合いは、肩書きと肩書きとのつき合いであって、そういうところでは本当に人間と人間との関係は成り立っていない。私たちが一切の肩書きを捨てて、裸で向き合う時、そこから本当に人間と人間の関係が始まってくる。しかし、人間が人格を持った者である以上、人格と人格との交わりがなければならない。

マルチン・ブーバーは、人格を持った者同士の交わりは、「わたしとあなた」という関係であって、「わたしとそれ」という関係ではないと言っている。私が「わたし」として立つということは、一切の肩書きから解放されて、一人の人格を持った人間として自分を見出すということである。そして、ほかの人を一人の人格を持った人間として「あなた」と呼ばないならば、それは「それ」つまり自分にとって利用価値になる存在としてしか相手を見ていないのであって、そこに本当の人格的交わりが生まれるわけではないのである。自分ははたして本当に人格を持った人として自分の身近にいる人に接しているであろうか。