2007年12月11日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 4/5

こんなに明快な救いの福音を、どうして人は信じようとしないのか不思議である。余りに話がうますぎるからだろうか。この世においてなら、うまい話には必ずどこかにごまかしがあると思ってもよい。しかし、これはそうではない。それなのに人はどうしてこのすばらしい救いの福音を信じようとしないのか。

悪魔が信じさせないように、人々の心に覆いをかぶせて分らないようにしているのだと聖書は教えている。また、すべての人の心の目をくらましてもいると教えている。

そして、このすばらしい救いの福音を私たちが知るためには、生れ変らなければならないのである。次のように教えられている通りである。
「生れながらの人は、神の御霊に属する霊的なことを受け入れない。それは、そのような人々にとっては、ばかばかしいことに思えるからである。また、それを悟ることもできない。というのは、霊的なことは、御霊によってのみ判断できるからである。」(1コリント2:14)

聖い神の御子が天から降りて来られ、人間としてこの地上の生活をされ、私たち人間が持っている罪を身代りに背負って十字架上で死なれても、このありがたいメッセージが私のためであるということを認めることができるためには、聖霊の神によって心の目を開いていただかなければだめなのである。

この霊的真理は、フランスの哲学者ベルグリン言っているように、そこに飛び込んでいかなければ知ることができないのである。科学的真理の場合は、それを頭で認めればそれで済むわけなのだが、宗教的真理の場合、その認識は体験以外にはありえない。その宗教的体験を可能にしてくださるのは、聖霊の神である。そしてその体験をする時、聖霊の神によって、生れ変らせていただくことができ、クリスチャンになることができるのである。
「神は、私たちが行なった何かの功績によってではなく、ただそのあわれみによって、聖霊の神が働き、私たちを清め、全く新しく生れ変らせ、こうして、救ってくださった。」(テトス3:5)

この「生れ変り」を体験しない人のことを、「生れながらの人」と言い、この人々は霊的真理に対して全く盲目である。だから、キリストが天から降りて来て、私たちの罪を十字架上で身代りに償ってくださったと言っても、それは、全くばかばかしい話としか思えないのである。