2007年12月4日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 3/5

ほかの宗教の場合とキリスト教の場合の大きな相違点は、ほかの宗教の場合、難行苦行をして天国への階段を登って行くというのに対して、そういう人間の善行と称するものによっては絶対に天国へは入れないというところにある。人間がいくら努力をしても、そんなことによって天国へ入ることはできないのだ。なぜかと言うと、人間が罪人だからなのである。

前にも言ったが、罪人である人間は、そのままでは最後は破滅以外にはない。近代における純文学が追求している人間が、ことごとく最後は破滅してしまうのは、そのことを如実に物語っている。夏目漱石はそれの解決を「則天去私」に求めたが、人間の力ではそれができないことを描いている。その弟子、芥川龍之介の場合、もはや作中の人物の自殺をもって事を終わらせることができず、本人自身も自殺している。太宰治の場合も同様である。落ちるところまで落ちた彼ら一群のデカダンス文学の作家群も、最後は破滅以外の何ものでもなかった。

人間が生まれながらにして持っている破滅性、つまり罪は自分の力で解決することはできない。罪というものは、法律上の犯罪も含めて、償いがなし終るまで、罪は罪を犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。こういう性質を持っている。それが、弱さとか不完全さとは根本的に違うのである。

ところで、聖書が教えていることは、「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである」(ローマ6:23)ということだから、死をもってする以外に償いの方法はないはずである。本人がその償いをしたら死んでしまうわけだから、そこに救いはない。だから、この場合、だれか第三者の人が身代りにその償いをしてくれる以外にはない。ところで、すべての人は罪人なのだから、自分の罪の償いをしなければならず、そうすれば死んでしまい、ほかの人の償いなどできるわけがない。

ところが、神は罪のない神の御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たち罪人の罪を身代りに背負い、あの十字架上の死によって償ってくださったのである。これこそ、聖書の告げる良い知らせ、つまり福音なのである。このキリストの十字架上の死が私のためであったことを知り、それを信じ、受け入れる人を、神は罪から救い出し、天国へ入れてくださるのだ。だから、自分の行いによるのではなく、神の恵みによって救ってくださるのである。