2007年12月19日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 5/5

クリスチャンになるということは、ただクリスチャンになろうと自分で思ったらなれるというものではない。キリストの十字架上の死が、自分の罪のための身代りの死なのだということが分らなければならないのである。キリストが十字架上で今から二千年前に死なれたということを認めることは、別に信仰も何も必要とはしない。キリスト教以外の資料も含め、調べてみれば分ることだからである。

ところで、キリストの十字架での死が私の罪の身代りであったということは、そのこととは別のことである。まず自分が罪人であるということの認識から始まらなければならない。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。

人間はだれでも罪人であるということについては分っていても、自分がいかに恐ろしい罪人であるかということが分らなければ、生れ変りと言う信仰体験をすることができない。自分が滅んでしまわなければならない罪人なのだということが本当に分ると、どこに救いがあるのかと、真剣に探し求めるようになるはずだ。

そして、罪のない神の御子が天からこの世に降りて来られ、私たちの罪を身代りに背負って、その罪の刑罰として十字架上で死なれたということが分った時、聖霊の神は、私たちの心の目を開いて、この驚くべき救いの真理を悟らせてくださるのである。こうして、その時、聖霊の神が私たちを生れ変らせてくださるわけである。

こういうプロセスが一つ一つ取られなくても、聖霊による生れ変りという体験をすれば、だれでもクリスチャンになれる。その聖霊による生れ変りの体験には、先に述べたことが含まれている。ほかの宗教のようにご利益を目指して、その宗教を信じるのとは違う。自分の罪を知り、その罪を身代りに背負って、十字架上で父なる神からの裁きを受けて死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、だれでも聖霊の神が生れ変らせてくださり、クリスチャンになることができる。その生れ変った人が洗礼を受けて、個々の教会の会員となるのである。