2007年12月8日土曜日

なぜこんな聖書が必要なのか

私は三十年余りの歳月を費して、旧新約聖書六十六巻を訳した。今でも改訳すべき個所を見出しては訂正をしているので、かれこれ五十数年やっていることになる。すでに十版を出し、版毎に千箇所ぐらい改訂しているので、初版から十版までに一万箇所ぐらいの改訂をしていると思う。

今まですでに聖書の翻訳はなされているのに、今また改めて、なぜ新しい翻訳をしなければならないのであろうかという疑問を抱く人がいるかもしれない。それには理由がある。今なお聖書は分りにくいという声を聞く。そこが問題なのである。なぜ分りにくいのか。原語に忠実という翻訳原則に従っているからである。

原語に忠実に訳すのがなぜいけないのかと素人は思うかもしれない。原語に忠実では、意味の通らないことが多いのだ。たとえば、「グッド・モーニング」を、原語に忠実に訳したらどうなるか。「良い朝です。」これでは日本語として通じない。なんと言っても、「グッド・モーニング」は「おはよう」だ。この程度のことなら、だれにでも分ることだが、実際問題として、このような原則で訳しているところに、聖書の分りにくさがある。

そこで、今日では「ダイナミック・イクイバレンス」という原則が提唱された。これは、言語学者であり、アメリカ聖書協会の翻訳主任をしていたユージン・ナイダ博士によるものである。この原則は今日広く受け入れられ、この世の一般の翻訳原則となっている。そして、キリスト教界でもウィックリフ聖書翻訳協会が世界に出て行って、まだ自分の言葉になっていない聖書を翻訳する時に使っている原則である。

これは、原語に忠実という原則よりも、原語の意味に忠実という原則だと言えば、分りが早いかもしれない。風俗も習慣も全く異なるものを、ただ原語を忠実に訳したところで意味が通じないのは当たり前のことである。だから、ほかの国の言葉の、それに相当する言葉にダイナミックに置き換えるのである。今日この原則に基づいて訳された多くの英語訳聖書がある。それなのに、どうして日本語では私が訳した「現代訳聖書」(現代訳聖書刊行会)しか出ていないのか、不思議である。何しろこの聖書は解説抜きで、読むだけで分る聖書である。聖書がもう分らないとは言わせない。だから、もし分らないところであったら言ってきてほしい。直す用意があることを分ってほしい。