野の花がどのようにして育つのか、考えてみなさい。働きもしないし、自分のために服を作りもしません。...今日は咲いていても、明日は炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神様はこれほど美しい装いをお与えになっておられるのですから、まして、人間であるあなたがたに、それ以上のことをしてくださらないわけがあるでしょうか。ああ、なんと小さな信仰なのか。(マタイ6:28-30)
生活問題はなかなか厳しい問題である。生きていくことは、決して生やさしいことではない。この世の中に生きている人は、皆このことをよく知っている。それだけに、生活問題・経済問題には、誰でも頭を悩まさないわけにはいかない。どうしたら食べていくだけの収入を得ることができるだろうかと悩むわけである。
しかしながら、本当はそういうことは問題というほどのものではない。野に咲いている花を見たらよい。野に咲いている花は、立派に育ち、花を咲かせているではないか。野の草一本にしたところで、実に念の入った装いをしている。あの野に育つ草や花にさえ、あのような念の入った装いをさせておられる神が、私たち人間をお忘れになるはずがない。神のことを忘れて、自分の生活のことだけを眺め、くよくよしているからこそ、心はいつでも落着きがないのである。心配事や取り越し苦労は、何の益にもならない。益にならないどころか、こんなことで気をもんでいる人は、いつでも二重の苦しみを味わっていることを知らないのである。苦しみがくる前に一度苦しみ、本当に苦しみがやってくる時にもう一度苦しむわけだから、こういうことをやっている人は、結局のところ生活疲れをしてしまうのがオチである。
それでは、どうしたらよいかと言うと、一番よい方法は、この自然界をお造りになり、支配しておられる神がおられるのだということに気が付くことである。そうすると、私たちが平面的に考えて自分の生活苦に悩んでいたところから、一段と高いところに立って、すべてのことを考えることができるようになるのである。これが信仰なのである。だから、信仰に立つ時、私たちの生活問題は何なく解決するのである。