2007年12月29日土曜日

人間として生きる3 - ロビンソン・クルーソー

あなたは、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソーの生活とその数奇な驚異的冒険」をご存じだろうか。多くの人は、子供向きの冒険談という形のものは読んでいるかもしれないが、その原作を読んだ人は少ないだろう。これは、神なしで人間が孤独に耐えうるかということを問うているキリスト教文学作品なのである。

なんとかして孤島に逃れることができたロビンソンが、一人ぼっちの惨めさの中で見出したものは、「物事は考え方次第だ」という世間一般の常識だった。現実の事柄を「悪い点」から見るか、それとも善い点から見るかということであった。自分が恐るべき孤島に漂着して救出の望みが皆無だと思えば全く絶望なのだが、他の乗組員は皆溺死したのに自分だけはこうして生きていると考えれば、同じ現実にも希望と喜びが生じるといった考え方である。

しかし、絶海の孤島の厳しさは、やがてそのような常識の立場ではすまされなくなっていく。その時、「それまでは宗教的な信念に基づいて行動したなどとは義理にも言えない人間」であり、「宗教の何ものたるかを少しもわきまえなかった人間」のロビンソンが、「神よ、救ってください」と祈り始めるのである。その場合の救いというのは、「この孤島から何とかして脱出したい」という願望にほかならない。つまり、「困ったときの神頼み」といったご利益宗教の立場である。

しかし、そんな神頼みも一向に効き目はなく、地震や病気で、ロビンソンの前には「死」の悲惨な姿が近寄ってくるのである。そのような精神状態をデフォーはこう書いている。
「罪の深さにも、またこのように惨めな姿で死んで行くことの恐ろしさにも耐えられず、私の心はただ暗く、不安にさいなまれていた。私は魂の苦悩にもだえ、自分で自分が何を言い出すか分らなかった。」

そして、ロビンソンは最後に、「主よ。助けてください。激しい苦しみに呻吟している私を助けてください」という祈りがささげられる。「これをもし祈りと言えるものなら、これこそ長年の生涯を通じて、私が神に捧げた最初の祈りであった」とデフォーは説明している。

そして、今やロビンソンにとって、救いとは「身ぶるいするほど恐ろしい罪の恐ろしさのどん底」で「生きる喜びをすべて圧殺する罪の重荷から救われる」ことにほかならなかったと、デフォーは記している。

2007年12月26日水曜日

クリスチャンになってよかった 1/10

私がクリスチャンになったのは、19歳の時で、第二次世界大戦が終わった翌年のことであった。我が家における最初のクリスチャンであった。家族は皆ノンクリスチャンだったから、家族からの祝福もなかった代り、それほどひどい反対や迫害もなかった。やがて私が信仰に熱心になるに従い、家族の者をキリスト教集会に誘ったのだが、すぐクリスチャンになったのは妹だけで、後の者たちはすぐクリスチャンにはならなかった。それから、私はこのキリスト教こそ自分の人生を賭けるに値するものであることを確信するようになり、建築家を目指して大学で勉強していたところから、牧師を目指すため、文学部に転部するのだが、そのころになると、両親は私の将来を心配して、私が牧師になることを反対するようになった。けれども、私は両親の反対を押し切って、文学部に進み、大学を終えると神学校に進んだ。正確に言うと、大学と神学校の両方を同時にやったのだ。その無理がたたって、病気になってしまった。だから、大学の卒業式には出席することができなかった。

神学校を卒業した時、私の前には三つの可能性があった。伝統的な古い教会の副牧師という道。また、戦後欧米からあまたの宣教団体が来ていて、その日本人リーダーを求めていたところから、彼らがリクルートに来ていた。その牧師という道。そしてもう一つは、自主独立の開拓伝道という道である。私は迷うことなく第三の道を選んだ。だれに気兼ねすることもなく、ただ神にだけ責任を負えばよい自由闊達な道である。しかし、初めの二つは、一応生活は保証されていた。ところが、第三の道は、人間的な保証は全くない。だから、私は神の約束の御言葉にすべてを賭けることにした。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要なすべてもの)は添えて与えられる。」(マタイ6:33)

お金がなかった私は、この御言葉を信じ、東京の高田馬場で路傍伝道によって開拓伝道を始めた。1953年3月15日のことであった。こうした一見無謀とも思えるやり方で開拓伝道をしたが、神は最初の日の路傍伝道でイエス・キリストを信じる人を起してくださり、次々とクリスチャンになる人が与えられた。そして、私の両親も兄も家族の者が皆クリスチャンになったのである。神は本当に今も生きておられる。(参照、「生きて働かれる神」(羊群社)、「今も生きておられる神」(プレイズ出版))

2007年12月22日土曜日

人間として生きる2 - 人間は一人では生きられない

「人間」という言葉を、普通の辞典で引くと、まず「人」のことと書いてあり、次に、「世間」とか「社会」のことだと書いてある。ところで、言葉をもう少し専門的に扱う「大言海」などでは、「誤って人のことを言う」と書いてある。つまり、元来、人間というのは人のことではなく、社会、世間のことだと言っている。つまり、人間とは人と人との間のことだと言うわけである。それがどうして人の事を指すようになったのかと言うと、それは、人間というものが一人では成り立っていかないということを表しているからである。表意文字である漢字を見ると、人とは二人の人が互いに支え合っていることを表している。これは非常に重要なことである。

聖書では、人間が最初に造られた時、神の形に似せて造られたと教えられている。「神の形」にはもっと他の意味もあるが、その一つは「人格」を持っているということである。人格を持っているということは、もう一つの別の人格とのコミュニケーションを可能にするだけでなく、それなしには成り立たないということも意味する。

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーバーが、「わたしとあなた」という本を書いて、人間が人間として生きるには、この関係が根本であると言っている。

この世のつき合いは、肩書きと肩書きとのつき合いであって、そういうところでは本当に人間と人間との関係は成り立っていない。私たちが一切の肩書きを捨てて、裸で向き合う時、そこから本当に人間と人間の関係が始まってくる。しかし、人間が人格を持った者である以上、人格と人格との交わりがなければならない。

マルチン・ブーバーは、人格を持った者同士の交わりは、「わたしとあなた」という関係であって、「わたしとそれ」という関係ではないと言っている。私が「わたし」として立つということは、一切の肩書きから解放されて、一人の人格を持った人間として自分を見出すということである。そして、ほかの人を一人の人格を持った人間として「あなた」と呼ばないならば、それは「それ」つまり自分にとって利用価値になる存在としてしか相手を見ていないのであって、そこに本当の人格的交わりが生まれるわけではないのである。自分ははたして本当に人格を持った人として自分の身近にいる人に接しているであろうか。

2007年12月19日水曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 5/5

クリスチャンになるということは、ただクリスチャンになろうと自分で思ったらなれるというものではない。キリストの十字架上の死が、自分の罪のための身代りの死なのだということが分らなければならないのである。キリストが十字架上で今から二千年前に死なれたということを認めることは、別に信仰も何も必要とはしない。キリスト教以外の資料も含め、調べてみれば分ることだからである。

ところで、キリストの十字架での死が私の罪の身代りであったということは、そのこととは別のことである。まず自分が罪人であるということの認識から始まらなければならない。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。

人間はだれでも罪人であるということについては分っていても、自分がいかに恐ろしい罪人であるかということが分らなければ、生れ変りと言う信仰体験をすることができない。自分が滅んでしまわなければならない罪人なのだということが本当に分ると、どこに救いがあるのかと、真剣に探し求めるようになるはずだ。

そして、罪のない神の御子が天からこの世に降りて来られ、私たちの罪を身代りに背負って、その罪の刑罰として十字架上で死なれたということが分った時、聖霊の神は、私たちの心の目を開いて、この驚くべき救いの真理を悟らせてくださるのである。こうして、その時、聖霊の神が私たちを生れ変らせてくださるわけである。

こういうプロセスが一つ一つ取られなくても、聖霊による生れ変りという体験をすれば、だれでもクリスチャンになれる。その聖霊による生れ変りの体験には、先に述べたことが含まれている。ほかの宗教のようにご利益を目指して、その宗教を信じるのとは違う。自分の罪を知り、その罪を身代りに背負って、十字架上で父なる神からの裁きを受けて死んでくださったイエス・キリストを信じるなら、だれでも聖霊の神が生れ変らせてくださり、クリスチャンになることができる。その生れ変った人が洗礼を受けて、個々の教会の会員となるのである。

2007年12月15日土曜日

人間として生きる1 - 何が一番大切なことなのか

私たちの一生は長いようで、それほど長くはない。子供のころから青年時代にかけては、勉強をしたものだ。それは、将来一人前の人間となるための準備期間であるとも言える。しかし、わが国における勉強というのは、上級学校に入るための受験勉強でしかない。そういうところにおいては、ほかの人は皆敵に見えてきて、本当の友情の育つよすがもない。そして、社会に出ても、そこは出世競争社会であって、ほかの人がやはり敵としか思えない現実がある。

そういう人生を送ってきた者が、一体人間として何が本当に大切なのかということを考える余裕は全くないと言ってよいだろう。そんなことを考えていたら、人から取り残されて、敗残者となる以外にはないからだ。人間と人間が心において結ばれるということはまずないと言ってよい。

それは、結婚においても同じことが言える。結婚したてのころは、仕事も早く終えて、家に早く帰ってくるかもしれない。しかし、仕事に追われる毎日では、仕事優先の生活をし、夫婦の間に本当に心の通い合う会話はなくなっていく。

仕事も確かに大切だろう。しかし、本当に人間として生きてきたのかどうか問われるような生き方に少しも疑問を感じないような生き方をしていたら、後で必ずそのツケが回ってくるものだ。今日、熟年離婚が増えているのを他人事と思わない方がよい。多くの女性が「定年退職後、この人と顔を付き合わせて生きていくのかと思うと、ぞっとする」と言うのだ。仕事だけに打ち込み、夫婦の間に全くと言ってよいほどのコミュニケーションのなさに気付かずに来たことを、その時になって後悔しても、もう遅いのではないか。

しかし、人生に遅すぎるということはない。人間として生きるという場合、何が一番大切なことなのかということを考えることは必要なことだと思う。心を開いて語り合うことのできる人を一人も持っていないということほど寂しいことはない。本当の友をどこにも持っていないという人は、人間として毎日生活はしていても、本当に人間として生きてはいない。欠陥人間であり、太宰治が言った「人間失格」とはこのことではないだろうか。

2007年12月11日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 4/5

こんなに明快な救いの福音を、どうして人は信じようとしないのか不思議である。余りに話がうますぎるからだろうか。この世においてなら、うまい話には必ずどこかにごまかしがあると思ってもよい。しかし、これはそうではない。それなのに人はどうしてこのすばらしい救いの福音を信じようとしないのか。

悪魔が信じさせないように、人々の心に覆いをかぶせて分らないようにしているのだと聖書は教えている。また、すべての人の心の目をくらましてもいると教えている。

そして、このすばらしい救いの福音を私たちが知るためには、生れ変らなければならないのである。次のように教えられている通りである。
「生れながらの人は、神の御霊に属する霊的なことを受け入れない。それは、そのような人々にとっては、ばかばかしいことに思えるからである。また、それを悟ることもできない。というのは、霊的なことは、御霊によってのみ判断できるからである。」(1コリント2:14)

聖い神の御子が天から降りて来られ、人間としてこの地上の生活をされ、私たち人間が持っている罪を身代りに背負って十字架上で死なれても、このありがたいメッセージが私のためであるということを認めることができるためには、聖霊の神によって心の目を開いていただかなければだめなのである。

この霊的真理は、フランスの哲学者ベルグリン言っているように、そこに飛び込んでいかなければ知ることができないのである。科学的真理の場合は、それを頭で認めればそれで済むわけなのだが、宗教的真理の場合、その認識は体験以外にはありえない。その宗教的体験を可能にしてくださるのは、聖霊の神である。そしてその体験をする時、聖霊の神によって、生れ変らせていただくことができ、クリスチャンになることができるのである。
「神は、私たちが行なった何かの功績によってではなく、ただそのあわれみによって、聖霊の神が働き、私たちを清め、全く新しく生れ変らせ、こうして、救ってくださった。」(テトス3:5)

この「生れ変り」を体験しない人のことを、「生れながらの人」と言い、この人々は霊的真理に対して全く盲目である。だから、キリストが天から降りて来て、私たちの罪を十字架上で身代りに償ってくださったと言っても、それは、全くばかばかしい話としか思えないのである。 

2007年12月8日土曜日

なぜこんな聖書が必要なのか

私は三十年余りの歳月を費して、旧新約聖書六十六巻を訳した。今でも改訳すべき個所を見出しては訂正をしているので、かれこれ五十数年やっていることになる。すでに十版を出し、版毎に千箇所ぐらい改訂しているので、初版から十版までに一万箇所ぐらいの改訂をしていると思う。

今まですでに聖書の翻訳はなされているのに、今また改めて、なぜ新しい翻訳をしなければならないのであろうかという疑問を抱く人がいるかもしれない。それには理由がある。今なお聖書は分りにくいという声を聞く。そこが問題なのである。なぜ分りにくいのか。原語に忠実という翻訳原則に従っているからである。

原語に忠実に訳すのがなぜいけないのかと素人は思うかもしれない。原語に忠実では、意味の通らないことが多いのだ。たとえば、「グッド・モーニング」を、原語に忠実に訳したらどうなるか。「良い朝です。」これでは日本語として通じない。なんと言っても、「グッド・モーニング」は「おはよう」だ。この程度のことなら、だれにでも分ることだが、実際問題として、このような原則で訳しているところに、聖書の分りにくさがある。

そこで、今日では「ダイナミック・イクイバレンス」という原則が提唱された。これは、言語学者であり、アメリカ聖書協会の翻訳主任をしていたユージン・ナイダ博士によるものである。この原則は今日広く受け入れられ、この世の一般の翻訳原則となっている。そして、キリスト教界でもウィックリフ聖書翻訳協会が世界に出て行って、まだ自分の言葉になっていない聖書を翻訳する時に使っている原則である。

これは、原語に忠実という原則よりも、原語の意味に忠実という原則だと言えば、分りが早いかもしれない。風俗も習慣も全く異なるものを、ただ原語を忠実に訳したところで意味が通じないのは当たり前のことである。だから、ほかの国の言葉の、それに相当する言葉にダイナミックに置き換えるのである。今日この原則に基づいて訳された多くの英語訳聖書がある。それなのに、どうして日本語では私が訳した「現代訳聖書」(現代訳聖書刊行会)しか出ていないのか、不思議である。何しろこの聖書は解説抜きで、読むだけで分る聖書である。聖書がもう分らないとは言わせない。だから、もし分らないところであったら言ってきてほしい。直す用意があることを分ってほしい。

2007年12月4日火曜日

なぜクリスチャンになる人は少いのか 3/5

ほかの宗教の場合とキリスト教の場合の大きな相違点は、ほかの宗教の場合、難行苦行をして天国への階段を登って行くというのに対して、そういう人間の善行と称するものによっては絶対に天国へは入れないというところにある。人間がいくら努力をしても、そんなことによって天国へ入ることはできないのだ。なぜかと言うと、人間が罪人だからなのである。

前にも言ったが、罪人である人間は、そのままでは最後は破滅以外にはない。近代における純文学が追求している人間が、ことごとく最後は破滅してしまうのは、そのことを如実に物語っている。夏目漱石はそれの解決を「則天去私」に求めたが、人間の力ではそれができないことを描いている。その弟子、芥川龍之介の場合、もはや作中の人物の自殺をもって事を終わらせることができず、本人自身も自殺している。太宰治の場合も同様である。落ちるところまで落ちた彼ら一群のデカダンス文学の作家群も、最後は破滅以外の何ものでもなかった。

人間が生まれながらにして持っている破滅性、つまり罪は自分の力で解決することはできない。罪というものは、法律上の犯罪も含めて、償いがなし終るまで、罪は罪を犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。こういう性質を持っている。それが、弱さとか不完全さとは根本的に違うのである。

ところで、聖書が教えていることは、「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである」(ローマ6:23)ということだから、死をもってする以外に償いの方法はないはずである。本人がその償いをしたら死んでしまうわけだから、そこに救いはない。だから、この場合、だれか第三者の人が身代りにその償いをしてくれる以外にはない。ところで、すべての人は罪人なのだから、自分の罪の償いをしなければならず、そうすれば死んでしまい、ほかの人の償いなどできるわけがない。

ところが、神は罪のない神の御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たち罪人の罪を身代りに背負い、あの十字架上の死によって償ってくださったのである。これこそ、聖書の告げる良い知らせ、つまり福音なのである。このキリストの十字架上の死が私のためであったことを知り、それを信じ、受け入れる人を、神は罪から救い出し、天国へ入れてくださるのだ。だから、自分の行いによるのではなく、神の恵みによって救ってくださるのである。

2007年12月1日土曜日

キリスト教を信じることの利点 6/6

6. 生きがいが与えられる

キリスト教を信じることによって、人生の目的、目標が分るようになると、当然何のために生きているのかが分るわけだから、生きがいを持つことができるようになる。どんな人でも、人生の意味や目的のない生き方をしていたのでは、人生に耐えることができない。

それでは、どうしてキリスト教を信じると生きがいが与えられるのだろうか。神が私たちの人生を計画し、私たちをこの世に存在させておられるわけだから、私たちの人生の意味や目的を持っておられるのは、神ご自身のはずである。そういうわけで、神を知り、神からそのことを教えていただければ、当然生きがいが与えられるわけである。

私たちは、この世界の造り主であられる神によって造られた存在なのだから、その造り主であられる神のみもとに立ち返る時に、初めて生きがいを与えられるわけである。神から離れていては、何のために生きているのか分らないのは当然のことである。

このように、キリスト教を信じる時、様々の良いことがある。それは、この世の生を終えてからだけではなく、今、私たちがこの世に生きている時に与えられるものである。しかし、いわゆる現世的ご利益といった低い次元のものではない。現世的ご利益とは、結局のところ、人間の欲望を満足させるものに他ならないのだが、キリスト教を信じる時に与えられる利点は、欲望の満足をもって終るのではなく、もっと高い次元に生きる人間の心に満足を与えるものである。

たとえば、対人関係において、私たちはいつも誰かに対して好意を持つか、それとも憎しみを持つかということが迫られてくることが多い。その時、憎しみをいつまでも抱き続けていくとしたら、自分の一生はそのことに縛られていて、自由がないだろう。それを解決してはじめて、開放感を味わうことができる。

「あなたの敵を愛しなさい」を実践できるようになるためにも、主イエス・キリストのみもとに行って、自分が今持っている重荷を降ろすためにも、キリスト教を信じることはその極意を行うことができるようになることである。ストレスから解放されるためにも、そのことは必要である。キリスト教を信じることの利点は、心の最も深いところにおける喜び、満足の与えられることである。